21-ガルダックの英雄
ガルダック西部の町外れにあるカルディの農場。
幸いにもこの農場は風上という事もあって、火事の影響を全く受けていない。
そのため、この農場に避難してくる者は後を断たず、カルディの農場は逃げてきた人々で溢れていた。
ある者は家族と一緒に。またある者は一人きりで。
逃げる際に逸れてしまった家族を探して、あちこちをふらふらと歩き回る者。
火事で怪我を負い、動けずにいる者。
様々な様子の人々が、カルディの農場のあちこちで見受けられる。
「おい、ラナークの旦那!」
避難してきた町の住民たちの様子を確認するため、妻のアルトアーノと共に農場内を歩いていたラナークは、聞き覚えのある声に呼び止められた。
「ウェルジじゃないか。無事だったか」
その男、ガルダックの住民のまとめ役の一人であるウェルジは、幾人もの避難民を引き連れてラナークの前に現れた。
「ああ。何とかな。幸いにも俺は軽い火傷とかすり傷程度だが、後ろの連中の中には重傷の者もいる」
重傷者がいると聞き、ラナークは素早くアルトアーノに目配せし、それを受けたアルトアーノは足早に母屋へと向かった。
「それで、町で見知らぬ兄ちゃんに怪我人がいたらここに連れていけと言われたんだが……ありゃ一体何者だ? あの片目が紅い兄ちゃんは旦那の知り合いなんだろ? それにあの兄ちゃんが呼び出した魔獣は……」
「まあ、待てウェルジ。それよりもまずは怪我人の治療だ」
矢継ぎ早に質問を繰り出すウェルジ。だが、ラナークの方が正しいと判断し、怪我人をラナークの前まで運ぶよう指示する。
「それでどうするよ、ラナークの旦那? これだけの数の怪我人だ、治療するにしても薬が足りないだろ?」
薬そのものが希少な存在であり、また高価なものでもある。
いくらラナークが元貴族で今でもそれなりに裕福な暮らしをしているとはいえ、怪我人全員に行き渡る程の薬を所持しているとは思えない。
ウェルジが連れて来た避難民以外にも、かなりの数の怪我人はが出ているのは明らかだ。
「薬というわけではないが、治療に関してはリョウト殿から預かったものがある。おお、丁度来たようだ」
ラナークが指差す方向を見たウェルジは、そこにひらひらと何かが舞っている事に気づいた。
そのひらひらとした何かはどうやらこちらに近づいているようで、それがある程度近づいた時、ウェルジはそれが何なのかを悟った。
蛾だ。
夜にも鮮やかな羽を持つ巨大な蛾が、ひらひらと舞いながらこちらへ近づいて来るのだ。
「魔獣……ありゃ、もしかして癒蛾か……?」
「ああ、その通り。あれは癒蛾だ。名前はファレナというらしい」
癒蛾の鱗粉はどんな傷にも効果のある万能の薬として有名なのは、ウェルジも知っていた。
だが、癒蛾そのものの数が少ないため、その鱗粉が極めて高価で取引されている事もまた知っていた。
そして、生きたこの魔獣を目にする事は更に稀である事も。
「どうして癒蛾がこんなところにいるんだよ?」
「言っただろう。リョウト殿から預かったと」
「リョウト……? そりゃあの片目の紅い兄ちゃんの事か?」
ウェルジのその問いに、ラナークはゆっくりと頷いた。
「あの兄ちゃんは何者なんだ? どうして魔獣があの兄ちゃんの言うことを大人しく聞く?」
「詳しい事は儂にも判らん。だが、魔獣を従えているのは彼の異能によるものらしい。確かアリシアは彼の異能を『魔獣使い』と呼んでいたな」
「アリシア嬢ちゃん? なあ、旦那。もしかしてあの兄ちゃんはアリシア嬢ちゃんの……」
「ああ。彼は娘の主人だ」
「何だってっ!? いつの間に嬢ちゃんは結婚したんだ? そういうめでたい事はきちんと教えてくれよな、旦那! そうか、あの兄ちゃんはラナークの旦那のトコの婿殿だったのか」
アリシアが奴隷に落ちた事を知らないウェルジは、「アリシアの主人」と聞いて夫と勘違いしたらしい。
ラナークも何もわざわざ自分の娘が奴隷に落ちた事を話すつもりはなく、またリョウトとアリシアの関係が結婚と根本的には余り違いもないようなので、敢えてウェルジの勘違いを訂正しないでおいた。
事実、ラナーク自身もアリシアはリョウトの奴隷になったというより、彼の元に嫁いだような感覚でいるのだから。
「ラナーク殿。アルト殿に聞いたが、新たな怪我人が来たようだな。どこにいる?」
「ロー殿か。今こちらに連れて来させているから、すぐにここに来るだろう」
ラナークの頭上をゆっくりと舞う癒蛾の陰から、癒蛾よりも小さくて黒い何かがラナークの肩に舞い降り、そのまま会話する様子をウェルジはぽかんとした表情で見詰めていた。
「お、おい、ラナークの旦那……その肩の生き物は……」
震える指で肩の黒い生き物を指さすウェルジを、ラナークはどこか悪戯が成功した子供のような顔でにやりと笑いながら見る。
「うむ。ロー殿は竜だ」
「ま、まさか、この竜も旦那のトコの婿殿の……?」
「ああ。リョウト殿の友だそうだよ」
「はああああ? あの婿殿は小さいとはいえ竜まで従えているのか? 何ともまあ、アリシア嬢ちゃんもとんでもない男のところに嫁に行ったもんだなあ!」
感心するやら呆れるやら。それでいて何とも楽しそうなウェルジとその後も二、三言葉を交わしていると、彼らの元に怪我人たちが連れて来られた。
「ウェルジ。怪我人の中から命に関わるような怪我を負っている者と、そうでない者を分けてくれ」
「そりゃ構わねえがよ。どうしてそんな事をする? せっかく癒蛾がいるんだ、片っ端から怪我人を直してやろうぜ?」
「そういうわけにもいかん」
ウェルジの提案を却下したのはローだった。
「癒蛾とはいえその癒しの鱗粉は有限だ。よって、怪我人全員にはとても行き渡らん。治療する優先順位を決めるのだ。命に関わるような怪我をした者から治療する」
「なるほど。確かに竜の旦那の言う通りだ。おっし! おい、おまえら! 怪我の酷い者からこっちに連れて来い! それほど酷くねえ奴らはラナークの旦那の指示に従え!」
ウェルジは率いて来た避難民に指示を飛ばす。
そして何人かが意識のない者や酷い火傷や怪我を負った者を運んできて、ウェルジの近くの地面に横たえた。
残りの避難民たちは、ラナークの指示に従って取り敢えず母屋を目指す。そこでは簡単な治療を農場の使用人たちが総出で行っている。
「ウェ……ルジさん……」
顔の左側面から腹にかけて酷い火傷を負っている男が、横たえられた状態で苦しそうにウェルジの名前を呼ぶ。
そしてその男の傍には、彼の妻と覚しき女性と、二人の息子と思われる幼い子供が心配そうに付き従っている。
ウェルジには、その男の火傷が致命傷に見えた。
人間は身体全体の何割かに火傷を負うと生きていられないと聞いた事がある。以前どこかの賢者だか学者だとかいう奴が言うには、人間は口や鼻だけではなく皮膚からも呼吸をしていて、火傷を負うとその呼吸ができなくなって窒息死するという。
ウェルジは、その話を聞いた時、それをすんなりとは信じられなかった。
もし本当に人間が皮膚からも呼吸をしているとしたら、ゆっくり風呂に入る事もできないじゃないか。
そう思ってその話を笑い飛ばしたが、こうやって実際に大きな火傷を負った者を目の前にすると、確かに火傷は命に危険を及ぼす負傷であると思えた。
「無理して喋んじゃねえ! すぐに楽にしてもらえるからな!」
だからウェルジは、その男と家族に敢えてにやりとした笑みを向けて、しっかりするように彼らを励ましてやる。
「竜の旦那! 頼んますぜ!」
「心得た。ファレナ」
ウェルジの要請に従い、ローはファレナに指示を与える。
それに応じたファレナは横たえられた男の上を数度旋回すると、火け爛れた皮膚の上に鱗粉を振りかけていく。
皮膚の上に落下した鱗粉は、溶け込むように爛れた皮膚に染み込む。するとぐずぐずに焼け爛れていた皮膚見る見るうちに元通りになっていく。
「こ……これは……?」
「ああ……あなた……や、火傷が治って……ウェルジさん、ありがとうございます! ありがとうございます!」
「父ちゃん! もう火傷は痛くないの? 大丈夫なの?」
痛みが嘘のように消えた事に気づいたその男は、ゆっくりと身体を起こして涙を流しながら家族を抱き寄せる。
そして改めて、家族は揃ってウェルジに頭を下げて礼を言った。
「おっと、礼なら俺じゃなくてラナークの旦那のトコの婿殿に言うんだな」
「は……? ラナークさんのところの……?」
「おう、そうさ。アリシア嬢ちゃんの亭主で、何でも魔獣を自在に操る魔獣使いだそうだぜ。おまえの火傷を直してくれた癒蛾も、その婿殿の魔獣だそうだ」
「そうですか……それで、その人の名前は何というのですか?」
「確かリョウト……おう、そうだ、魔獣使いのリョウトだ! おまえの命の恩人の名前だ。絶対に忘れるんじゃねえぞ!」
ようやく周囲の火の勢いが衰えて来ている。
アリシアがそれを実感したのは、一体幾つめの建物を壊した時だったろうか。
正直、いい加減棹斧をふるう腕が重くて仕方がない。
彼女の傍らで石造りの家を壊しているバロムの赤褐色の鱗も、煤に汚れて所々黒ずんでいる。
それでもバロムはまだまだ元気そうで、彼女の指示に従って次々に家々を打ち壊して行く。
その時、不意に彼女の周囲に冷たい霧のようなものが吹きかけられた。
霧は下火になっていた火勢を、更に弱めていく。
棹斧を振るのを止め、アリシアは霧が吹き付けてきた方へと振り向く。
そこには当然、彼女の予想した人物の姿。
「リョウト様!」
アリシアは嬉しそうにリョウトへと駆け寄る。
リョウトが来た事に気づいたのか、バロムもまた建物を壊すのを止めて彼の元へと近づいて来た。
「頑張ったな、アリシア。バロムもご苦労さん」
リョウトはアリシアに微笑みかけ、近づけて来たバロムの鼻先を労うようにぽんぽんと叩いてやる。
「北西部はあらかた鎮火した。まだ多少燻ってはいるが、もう放っておいても自然鎮火するだろう」
リョウトはアリシアにそう告げると、周囲を見回して火の勢いを確認する。
「やはりこの辺りが一番火勢が強いようだな。フォルゼ!」
傍らに控えていた岩魚竜に呼びかけると、周囲の火の勢いを弱めるように指示を出す。
「済まないが、もう一頑張り頼む。バロムは今の内に身体を休めておいてくれ」
リョウトの指示に、バロムはその場でぺたりと腹を地面につけると身体を丸めるように踞る。もっとも、首だけは起こしたままで周囲の様子を窺っているようだったが。
そしてフォルゼは一旦黒い亀裂の向こうに姿を消すと、水を補給して再び現れ周囲に霧状の水を吹きかけていく。
これまで散々猛威を振るった炎も、可燃物をなくし、多量の水をかけられてついに屈服し始めた。
念のため、更に数度フォルゼが水を散布すると、ガルダックの西部地域を包み込んでいた炎はその姿を徐々に消していった。
丁度その時である。リョウトとアリシアがどすどすという重い響きが自分たちの方へと近づいて来る事に気づいたのは。
「おお、二人ともここのいたのか。中南部の火はあらかた消えたぞ。さすがに俺もガドンも疲れたよ」
近づいて来たガドンの背中から飛び降りたルベッタは、煤で汚れた顔を破顔させた。
「何よ、その顔。煤で真っ黒よ?」
「放っとけ。おまえだって似たようなものじゃないか」
憎まれ口を叩き合い、次いでぱちんと手と手を打ち合わせるアリシアとルベッタ。
リョウトは二人の肩にそれぞれ手をかけると、そのままぐいっと二人纏めて抱き寄せた。
「二人ともご苦労。大きな怪我はないね?」
「ええ。多少の火傷や怪我はあれど、大きなものはないわ」
「俺も同じだ。何と言っても俺たちの身体はリョウト様のものだからな。リョウト様の許可なく、無駄に傷を刻むような事はしないさ」
二人はリョウトの腕の中で、順に彼と唇を合わせる。
そしてリョウトが二人を解放した時、ルベッタが何かを思い出して近くに座り込んでいたガドンに話しかけた。
「おい、ガドン。さっき拾ったものをここに置いてくれ」
ルベッタに言われ、ガドンはそれまでずっと脇に抱えていたものを、やや乱暴に地面に放り出した。
「ここへ来る途中で拾ったんだ。どうやら煙に巻かれて気を失っているようだが、命の心配はないだろう」
リョウトとアリシアがガドンが放り出したものを覗き込むと、それは気を失ったブラスだった。
髪は所々焼けてちりちりになり、着ている物も焼け焦げたり破れたりしている。見た目は相当悲惨な様子だったが、呼吸はしっかりしており、ルベッタの言う通り死に至るようなことはないと思われた。
「よし、じゃあ僕たちもカルディの農場へ戻ろうか」
リョウトは労いの言葉をかけながらバロムとフォルゼを送り返す。
ガドンだけはブラスをカルディの農場まで運ぶため、もう一仕事してもらう予定だ。
こうしてガルダックの町の西部、町全体の実に三分の一近くを焼いた「ガルダックの大火災」は幕を閉じた。
だが、町の三分の一を焼いた火災にしては、命を落とした者や大きな怪我を負った者の数は極めて少なかった。
そして後に、ガルダックの住民の間に静かに、だが確実に町とその住民の命を救った一人の人物の名前が広がっていった。
その人物の姿を見たものはごく一部。だが、彼が使役する魔獣の姿は多くの住民が目撃していた。
火災を鎮めるために活躍し、そして瀕死の怪我を負った者を数多く救った魔獣とその主であるその人物。
その名は魔獣使いのリョウト。
彼と彼の魔獣たちは、大火災から住民を救った英雄として後世まで語り継がれる事になる。
『魔獣使い』更新しました。
これにてガルダック編も終了です。でも、全体のまとめとしてもう一話あります。もっとも、その話にリョウトたちは出てこないかもしれませんが(笑)。
あと、作中で人間の皮膚呼吸についてちょっと触れましたが、結論を言うと人間は皮膚呼吸をしていません。
よく皮膚の何割かに火傷を負うと皮膚呼吸できなくて死ぬなんて聞きますが、あれは全くのデマだそうです。
確かに皮膚に一定以上の火傷を負うと死に至る事もありますが、それは呼吸困難ではなく火傷を負ったことによるショック死が原因だそうです。
作中で誰かさんも言っていましたが、もし本当に人間が皮膚呼吸していたら、風呂にも入れないことになりますから。
陸上生物で皮膚呼吸を行っているのは、一部の両生類だけだそうですね。
では、次回もよろしくお願いします。