19-火鼠の恐怖
面白くない。面白いわけがない。
それがブラスの偽らざる本音だった。
長い間自分の妻になるとばかり思っていた女性が、突然他の男のものになってしまった。それも恋人や妻ではなく奴隷として。
これで平然としている男がいたら、そいつは精神が歪んでいるに違いない。ブラスは心の中でそう吐き捨てた。
そしてブラスは、自分からアリシアを奪ったリョウトという男を思い出す。
容姿はまあまあ。平均よりは上だろうか。こう言ってはなんだが、おそらく客観的に見ても自分の方が整っているとブラスは判断する。
身長は自分よりは若干低い。それでも十分長身の男性に分類できるだろうが。
体つきは痩せている自分よりは遥かに逞しい。悔しいがそれは認めるしかない。
しかし、相手は魔獣狩りを生業にしているような輩だ。逞しさで多少引けを取ってもそれは仕方ないというものだ。
自分だってこれでも、かつてよりは逞しくなったとブラスは思っている。
かつて貴族だった頃は、日がな一日読書をして過ごしていた。
それが貴族ではなくなり、ラナークの農場を手伝うようになってから、自然と筋肉だってついたのだ。
もっとも、同じ農場で働く同僚たちに比べると、やはり彼の体つきは細く痩せているのだが。
そして何より、あのリョウトという魔獣狩りの左目。
あの片方だけ紅い左目が、ブラスにはどうしても気にくわない。いや、いっそ気味が悪いと言ってもいい程だった。
稀に左右の瞳の色が違う者が生まれてくるというのは、かつて読んだ書物で知ってはいた。
だが、それでもあそこまで左右の色が違う場合は異例というものだろう。
普通、左右の瞳の色が異なる場合、両方とも色素が薄い場合が多いそうだ。だが、あのリョウトという男の場合は右は黒で左は紅。どちらもその色彩は鮮やかという程に濃い。
──ひょっとすると、あの男には魔獣の血でも流れているのではないか?
そんなとりとめもない考えがブラスの頭を過る。
そして同時に。
──本当にあの男に魔獣の血が流れているとしたら、ひょっとするとアリシアを取り戻せるのでは?
そんな思考も浮かび上がるが、リョウトに魔獣の血が流れているかどうかを立証する術がない事にも思い至った。
「──────ちっ!!」
舌打ちを一つし、ブラスは苛立たしげに足元に転がっていた石を蹴り飛ばす。
彼が蹴った石はガルダックの町の細い路地の一本に吸い込まれていった。
そしてその路地の置くから、きぃ、というかん高い獣の声。
「ん? 蹴った石が鼠にでも当たったか? 運の悪い鼠もいたものだ」
そう一人ごちたブラスは、石が飛んで行った路地へ一度だけ視線を投げかけると、そのまま馴染みの酒場へと向かう。
この時、彼はまだこれからこのガルダックの町を襲う厄災を知らないでいた。
後に『ガルダックの大火災』と呼ばれる災害の、その引き金を引いたのが他ならぬ自分である事に。
そして。
そしてこの『ガルダックの大火災』こそが、『魔獣使い』リョウト・グラランの名を本格的に世に知らしめる事になるのも。
彼は──いや、この国に住む誰もがまだ知らないでいたのだ。
ブラスが蹴った石は、路地に飛び込みそこにいた一匹の鼠に偶然命中した。
突然自分を襲った痛みに鼠は悲鳴を上げつつ、その一方で外敵から身を守るための手段を行使する。
鼠がぶるりと身体を震わせると、周囲に仄かに甘い香りが広がった。
そしてその匂いに引き寄せられて、先程の鼠と同種と思われる鼠が次々と集まって来る。
集まって来た鼠は更に匂いを放出し、その匂いが芋蔓式に次々と鼠を引き寄せる。
そして鼠の数と匂いが一定量に達した時、鼠たちは一斉にその身体から小さな火花を飛び散らせた。
次の瞬間。
路地の奥から紅蓮の炎が、まるで蛇が身をくねらせるかのように一気に周囲に吹き出した。
そしてその炎は次々に周囲の可燃物を飲み込み、瞬く間に辺り一体を炎の海に変えていった。
火鼠と呼ばれる魔獣がいる。
人里近くの森などに棲み、大きさや外観や生態、性質は普通の鼠と大差ないが、その実は極めて恐ろしい魔獣である。
群れでの生活を基本とし、時に餌を求めて人里にも入り込む。
もっとも、一見しただけでは普通の鼠と大差ないので、大半の人間がただの鼠だと思ってあまり注意を向けることもなく、時として火鼠は人知れずひっそりと、しかしかなりの数が町中に棲息している場合がある。
魔獣と呼ばれる以上、火鼠には普通の鼠にはない能力がある。
それは「火鼠」の名が示す通り、その身に炎の力を宿している事だ。
火鼠は外敵に襲われるなどして身の危険を感じると、ある種の匂いを身体から放つ。
それは同じ群れの仲間に対する救助信号。
スズメバチが敵に対してある種のフェロモンを付着させ、そのフェロモンを目印に仲間のスズメバチが一斉に攻撃を仕掛けるように。
火鼠も匂いに誘導された仲間が集まり、同じ匂いを一斉に放ち出す。そしてその匂いが一定の量を超えた時、集まった火鼠たちは小さな火を身体から放つのだ。
その火自体は極めて小さなものに過ぎない。しかし、その火は周囲に充満する匂いに引火し、まるでガスのように爆発的に燃え広がる。
その炎の熱と勢いは家一軒を容易に燃やし尽くす程。しかも火鼠自身は炎に対して高い耐性を有していて、周囲が炎に飲まれても平然としている。
火鼠は小さな鼠に等しいからといって、決して侮ってはならない恐るべき魔獣なのだ。
酒場の外から聞こえてくる喧騒にブラスが気づいたのは、自棄酒が程よく全身に回り始めていた時だった。
そして酒場の窓の外が、まるで昼のように明るくなる。
「なんだ……? もう夜明けか……?」
そう思ったのはブラスだけではない。酒場に居合わせた者全員が同じ思いに囚われた。
だが、いい具合に回った酒が、客たちの正確な判断を奪っている。
そのうち、酔いの比較的浅い者が外の異様な明るさと騒がしさに気づく。
「……なんか、これ……おかしくないか……?」
誰かがそう呟いて、ようやく皆も外の異変に気づき始める。
「…………これって、もしかして……」
窓から外を覗いていた客の一人は、酒場の中と外を照らしているのが鮮烈なまでの赤である事から、これがただ事ではないと思い至り叫び声を上げる。
「………か、火事だぁっ!!」
途端、がたがたと腰を上げて我先に外へと飛び出す酒場の客たち。
もちろん、ブラスも同じように酒場の外へと飛び出した。
そして彼はそこで見る。
今ではすっかり見慣れたガルダックの町並みが、軒並赤に犯されているのを。
「な……なんだこれは……どうなっているんだ……?」
呆然と立ち尽くすブラスの目の前をちらちらと赤い火の粉が舞い散り、それが鼻先を掠めた際に彼に与えた熱が、これが夢でも幻でもない事を教える。
彼は知らない。
今ガルダックの町が燃えている原因が、自分が蹴った小さな小石である事に。
いや、彼だけでなく、町の誰もがその事を知らない。
しかし、それは幸いな事だった。
もし、ブラスが町が燃えた原因が自分にあると知れば、きっと彼は罪の意識に押しつぶされてしまっただろうから。
遠くで何かが崩れ落ちる音が響く。
それはきっとどこかの建物が燃えて崩れた音だろう。
ラナークはその音を、町から少し離れた農場でどこか他人事のように聞いていた。
ガルダックの町並みは基本的に石造りである。
しかし、屋根や生活用品など木製のものは多数あり、中には木だけで作られた建造物や建築物もある。
例え石造りの建物であっても、石と石を繋ぎ止めるために用いられている漆喰が燃えてしまえば、極めて崩れやすくなり危険な事には変わりない。
「ど……どうしていきなり町が燃えて……?」
赤く染まる町を少し離れた場所から呆然と眺めるしかないラナーク。
そのラナークの耳に、聞き慣れない声が響いたのは彼が呟いたすぐ後だった。
「火鼠の仕業だ。あやつらが発する独特の匂いが、微かだがここまで漂ってきている。おそらく、誰かが火鼠を傷つけたか何かしたのだろう」
その声に驚いたラナークが振り向いた先。そこにいるのは今日、始めて出会った青年。
久しぶりに帰って来た愛娘の想い人であり、同時にその娘を所有する人物でもある。
「火鼠……だと? リョウト殿、それは一体何なんだ?」
ラナークのその質問に、リョウトは困ったような顔をして返答をする。
「申し訳ないが、さっきの言葉は僕じゃない」
「なに……? では先程の声は……」
「アリシアの父子殿。先程の発言は我だ」
そう言いながら、リョウトのフードから這い出したローは、いつもの指定席であるリョウトの肩にちょこんと座り込む。
「りゅ、竜……? 竜なのか……?」
「如何にも。確かに我は竜だ。だが、今は我の事よりも大事な事があるのではないか?」
そしてローは、リョウトたちを始めとしたここに居合わせた者たちに、火鼠という魔獣について説明した。
とはいえ、ローも火鼠について詳しく知っているわけではなく、ローが説明できたのは火鼠が身の危険を感じると匂いで仲間を呼び、その匂いに火を引火させて敵を攻撃するという習性だけであったが。
「そんな魔獣がいたのか。ちっ、この場にアンナの奴がいれば、もっと詳しい事を知っていたかもしれないな」
「この場にいない者の事をあれこれ言っても始まらない。今はこの火事をなんとかする事に専念すべきだ」
リョウトの言葉に、彼の奴隷たちが無言で頷く。
「だが、リョウト殿。その火鼠とやらを先になんとかしないと、いくら火を消し止めても意味がないのではないか?」
「その心配には及ばない。火鼠はこちらからちょっかいをかけない限り、無駄に火を広げるような事はしないだろう。万が一火鼠を見つけても無視するか、それができなければ一撃で息の根を止める事だ」
そうすれば匂いを発して仲間を呼ぶ事もなく、炎を広げる事もないとローは続けた。
「だが、どうやって火の広がりを食い止めるのだ? これだけ燃え広がってしまえば、最早打つ手は殆どないぞ?」
ラナークの見たところ、炎はかなりの範囲に燃え広がっている。
もちろん町全てが炎に包まれたわけではないが、これだけ燃え広がってしまっては、鎮火の方法はほぼないと言っていいだろう。
この世界において火事を鎮火させる一般的な方法は、燃えている家の周囲の建造物を取り壊す事である。
そうやって燃えている家の周囲に何もない空間を作り、それ以上延焼するのを防いで自然鎮火を待つのだ。
しかし、今のガルダックを包み込んでいる炎は、一つの建造物を壊している間にどんどん他へと燃え広がっていくだろう。普通であれば、とても人間の手に負えるようなものではない。
そう、普通であれば。
「リョウト様……まさか、ここで呼ぶつもりなの……?」
「いいのか、リョウト様?」
アリシアとルベッタは、主の表情から彼の覚悟を察した。
「そんな事を言っている場合じゃない。今はこれ以上火事が大きくならないようにする事が最優先だ。例え、後で僕がどうなろうとも」
決意を秘めたリョウトの表情から、アリシアとルベッタもまた覚悟を決める。
ただし、彼女たちの覚悟はリョウトとは少々異なり、例えどんな事があろうが決して主であるリョウトから離れないという類のものであったが。
そしてリョウトは呼ぶ。
自分と縁を結ぶ、友とも家族ともいうべきものたちを。
「バロム! ガドン!」
リョウトの袖の中に隠された六つの縁紋の内の二つが人知れず輝き、リョウトの左右に夜でも尚黒い亀裂が二筋刻まれる。
そしてその亀裂から二体の巨大な魔獣が咆哮と共に姿を見せた時、彼らの傍にいたラナークは驚愕のあまりに腰を抜かして座り込み、その妻であるアルトアーノもまた、へなへなと夫の隣に腰を落とすのだった。
『魔獣使い』更新です。
アリシア編もいよいよ大詰め。あと二、三回で一区切りとなりそうです。
その後の展開は『辺境令嬢』との兼ね合いもあってまだ不明ですが、最終的には『辺境令嬢』と本格的にクロスオーバーしていこうかなと考えております。
それでは、今後ともよろしくお願いします。