あそこに見える何か
このアパートの3階へと続く階段には、決して振り返ってはいけない「音」があるという。
まだ誰も、その音の正体を生きて確かめた者はいない。
闇に包まれた古いアパートの階段を上るとき、いつも決まって奇妙な音が聞こえる。
コツ、ポツ、水滴のような、骨がぶつかるような歪な音。
「ねえ、あそこに見える何か、音を出してない?」
同居人のナオが青ざめた顔で廊下の突き当たりを指差した。常夜灯のうす暗がりの中、黒い人影のような塊がゆらゆらと揺れている。
耳を澄ますと、音は次第に部屋全体へ響き始めた。
タ、プ… タ、プ…
それは水滴の音ではなく、粘り気のある何かが床を這う足音だった。そして次の瞬間、音は不自然に跳ね上がり、私たちのすぐ耳元でささやき声に変わる。
「見つかった」
ビチャリ、と湿った音が鼓膜のすぐ奥で弾けた。意識が白む直前、私は理解した。あそこに見えた何かは、音そのものとなって私の頭の中に侵入してきたのだと。
【了】
ご一読いただき、ありがとうございます。
「振り返ってはいけない」という古くからの禁忌を、現代のありふれたアパートの階段という日常の空間に落とし込んでみました。
闇雲に恐怖を煽るのではなく、「もし自分がその階段を上っていたら……」という静かなプレッシャーを感じていただけたなら幸いです。
音の正体を知る者が誰もいない以上、次にその音を聞くのは、あなたかもしれません。




