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またあの子を優先するのですか? では、婚約式は私ひとりで終わらせます――王太子殿下、正式な記録はもう残しました

作者: Sophia Rose
掲載日:2026/05/23

神殿の鐘が三度鳴った。

 白大理石の床に、ステンドグラス越しの光が落ちている。

 青、金、赤。王家の色を映した光の帯が、祭壇までまっすぐに伸びていた。

 その中心に、私――エリス・フォン・アシュベルトは立っている。

 純白の礼装。

 胸元には王家から贈られた青玉のブローチ。

 髪は王妃陛下から指定された通り、後ろで低く結い、銀糸のヴェールをかけていた。

 今日、この場で私は正式に王太子レオンハルト殿下の婚約者として、王国記録院に名を刻まれる。

 そのはずだった。

「……王太子殿下は、まだお見えになりませんか」

 神官長が控えめに尋ねた。

 祭壇の前には、私の父であるアシュベルト公爵。

 王家側からは宰相、王宮法務官、王国記録院の記録官。

 さらに婚約式の成立を確認するための立会人が三名。

 必要な者は、すべて揃っている。

 ただ一人。

 婚約者である王太子殿下を除いて。

「使いの者は戻りましたか」

 私が尋ねると、侍女のマリアが青ざめた顔で首を横に振った。

「いいえ、お嬢様。ですが……その……」

「言いなさい」

「殿下は、リリア様の屋敷へ向かわれたとのことです」

 神殿内が、わずかにざわめいた。

 誰かが息を呑む音が聞こえる。

 父の眉間に深い皺が刻まれた。

 宰相は目を閉じ、法務官は無言で手元の書類に何かを書きつけた。

 私は、不思議なほど落ち着いていた。

 リリア・ベルノワール男爵令嬢。

 王太子殿下の幼なじみ。

 病弱で、か弱く、涙もろく、そして殿下が何よりも優先する少女。

 五年間、私は彼女の名を聞き続けてきた。

 王宮晩餐会の日。

 隣国大使を迎える夜会の日。

 王妃教育の成果を披露する式典の日。

 孤児院視察の日。

 国境伯との協議の日。

 殿下はいつも、同じことを言った。

『リリアが不安がっている』

『リリアには僕しかいない』

『君は強いから大丈夫だろう』

『君なら分かってくれると思った』

 ええ。

 分かっていた。

 殿下が私を、決して一番には選ばないということを。

「エリス」

 父が低い声で私を呼んだ。

「どうする」

 どうする。

 その問いを、私はこの五年間ずっと自分に向けていた。

 我慢するのか。

 諦めるのか。

 待つのか。

 いつか殿下が振り向いてくださると信じるのか。

 以前の私なら、きっと待った。

 王太子妃になる者として、感情を抑えなければならない。

 王家との婚約を私情で乱してはならない。

 病弱な少女に嫉妬するなど、淑女として恥ずべきこと。

 そう、自分に言い聞かせて。

 けれど今日だけは違う。

 今日は、王国法で定められた正式な婚約式。

 両家と神殿と記録院の立会いのもと、婚約の継続意思を確認する日。

 ここに来ないということは、ただの遅刻ではない。

 意思表示だ。

 私は静かに息を吸った。

「神官長様」

「はい」

「本日の婚約式は、成立要件を満たしておりませんね」

 神官長が険しい顔で頷く。

「王国婚姻法第十二条により、王族婚約の最終確認には、当事者双方の出席と署名が必要です」

「では、王太子殿下は本日、最終確認を放棄されたと記録できますか」

「……それは」

 神官長が言い淀む。

 そこで口を開いたのは、王宮法務官だった。

「記録できます」

 低く、よく通る声だった。

「王太子殿下には、本日の日程が三か月前から正式通達されております。昨日も王宮執務室にて確認済みです。欠席届、延期申請、緊急事由の報告は、現時点で提出されておりません」

 法務官は眼鏡を押し上げ、私を見た。

「アシュベルト公爵令嬢。あなたに確認します。本婚約について、継続を希望されますか」

 神殿の空気が凍った。

 全員の視線が、私に集まる。

 私は胸元の青玉のブローチに触れた。

 五年前、殿下が私にくださったものだ。

『君は王太子妃にふさわしい。僕を支えてほしい』

 あの時、私は嬉しかった。

 必要とされたのだと思った。

 けれど今なら分かる。

 殿下が欲しかったのは、妻ではない。

 自分の不在を埋め、責務を代わりに果たし、何度でも許してくれる便利な婚約者だった。

 私はブローチを外した。

 銀の留め具が、かすかに音を立てる。

「いいえ」

 神殿に、私の声が響いた。

「私は、王太子レオンハルト殿下との婚約継続を希望いたしません」

 父が目を見開いた。

 マリアが泣きそうな顔で口元を押さえる。

 私は続けた。

「王太子殿下は、過去五年間にわたり、王族婚約者としての公務、式典、外交補佐、教育確認において、正当な手続きなく欠席または中断を繰り返されました」

 法務官のペンが走る。

「本日もまた、最終婚約式を無断欠席されました。よって私は、王国婚姻法第十八条、および王族婚約補則第四項に基づき、継続的契約不履行による婚約無効確認を申請いたします」

 言い終えた瞬間、胸の奥で何かが切れた。

 それは悲しみではなかった。

 鎖だった。

 五年間、私を縛っていた見えない鎖が、音もなくほどけたのだ。

「……エリス」

 父が呟いた。

「本気か」

「はい、お父様」

「後悔はないか」

 私は少しだけ笑った。

「後悔なら、もう十分にいたしました」

 待ったこと。

 信じたこと。

 自分を後回しにしたこと。

 何度も傷ついたのに、笑って許したこと。

 その全部を、今日終わらせる。

「記録官様」

 私は祭壇の横に控えていた記録官へ向き直った。

「正式に記録をお願いいたします」

 記録官は一瞬だけ戸惑ったように私を見た後、深く頭を下げた。

「承りました。王国記録院の名において、本日の婚約式不成立、およびアシュベルト公爵令嬢による婚約無効確認申請を記録いたします」

 その時だった。

 神殿の扉が、勢いよく開かれた。

「待て!」

 聞き慣れた声。

 振り返ると、息を切らした王太子レオンハルト殿下が立っていた。

 金の髪は乱れ、礼装の上着も着ていない。

 その背後には、淡い桃色のドレスを着たリリア嬢が、不安げに殿下の袖を掴んでいた。

「エリス、これは何の真似だ」

 殿下は苛立った顔で歩み寄ってくる。

「少し遅れただけだろう。リリアが発作を起こしかけたんだ。仕方がなかった」

 私は静かに首を傾げた。

「発作、ですか」

「ああ。彼女は病弱なんだ。君も知っているだろう」

「医師の診断書はございますか」

「は?」

「緊急事由として婚約式を欠席する場合、王宮医師または認定医師の診断書が必要です。お持ちですか」

 殿下は言葉に詰まった。

 リリア嬢が小さく震える。

「そ、そんな……エリス様、ひどいです。わたし、本当に苦しくて……」

「では、今すぐ王宮医師を呼びましょう」

「えっ」

「神殿には緊急時用の医師が常駐しております。診察を受けてくださいませ。王太子殿下の正式婚約式を中断させるほどの症状ですもの。記録として残す必要があります」

 リリア嬢の顔から血の気が引いた。

「そ、それは……もう治まりましたから」

「それは何よりです」

 私は微笑んだ。

「では、殿下。緊急性はなかったということでよろしいですね」

「エリス!」

 殿下が声を荒げる。

「君はいつからそんな冷たい女になったんだ!」

 胸は痛まなかった。

 不思議なくらい、何も。

「殿下」

 私は外した青玉のブローチを、両手で差し出した。

「お返しいたします」

「何を勝手に――」

「勝手ではありません。正式な手続きです」

「僕は認めない!」

 殿下の声が神殿に響く。

「婚約破棄など認めない。君は僕の婚約者だ。王太子妃になるために、これまで教育を受けてきただろう!」

「はい」

 私は頷いた。

「ですから、王太子妃にふさわしく、法に従って判断いたしました」

「僕に恥をかかせるつもりか!」

「恥をおかきになったのは、殿下ご自身です」

 殿下の目が見開かれる。

 私は初めて、彼をまっすぐに見た。

「私は五年間、殿下をお待ちしました。式典でも、夜会でも、会議でも、視察でも。そして今日、この神殿でも」

「だから、少し遅れただけだと――」

「いいえ」

 私は遮った。

「殿下は、今日までに何度も遅れました。何度も欠席されました。何度も私に『君なら分かってくれる』と仰いました」

 そして、静かに告げる。

「分かりました。殿下は私を選ばない。ですから私も、殿下を選びません」

 殿下の顔が、怒りから困惑へ変わった。

 まるで、初めて私にも意思があると知ったような顔だった。

「エリス……?」

 その声は、先ほどまでとは違っていた。

 けれど、もう遅い。

「記録官様」

 私は殿下に背を向けた。

「手続きを続けてください」

「承知しました」

 記録官が署名欄を開く。

 私は迷わず、自分の名を書いた。

 エリス・フォン・アシュベルト。

 その文字を見た瞬間、私はようやく呼吸ができた気がした。

 神殿の外では、また鐘が鳴っていた。

 けれどそれは、婚約成立を祝う鐘ではない。

 私が、私の人生を取り戻した音だった。


「今すぐ取り消せ」

 王太子レオンハルト殿下は、王宮法務官に詰め寄った。

「これは無効だ。エリスが感情的になっただけだ。僕は婚約破棄など認めていない」

 神殿内には、先ほどよりも重い沈黙が落ちていた。

 リリア嬢は殿下の背後で小さくなっている。

 いつもなら涙を浮かべれば、殿下がすぐに慰めてくれる。

 けれど今、殿下はそれどころではないようだった。

 法務官は、まったく表情を変えなかった。

「殿下。正確には、婚約破棄ではありません」

「何?」

「婚約の最終成立前における、成立不備および継続的契約不履行による無効確認申請です」

「同じことだろう!」

「違います」

 法務官の声は淡々としていた。

「婚約破棄であれば、双方の協議や王家裁可が必要となる場合があります。しかし今回の婚約式は、成立要件を満たしておりません。殿下が定刻に出席されず、署名もされていないためです」

「だから遅れただけだ!」

「定刻より一刻半が経過しております」

「リリアが苦しんでいたんだ!」

「診断書はございますか」

「……っ」

 同じ問いに、殿下はまた答えられなかった。

 法務官は書類を一枚めくった。

「加えて、過去五年間の欠席記録、代理対応記録、王太子殿下の私的理由による公務中断記録が、すべて王宮に保管されております」

「そんなもの……」

「その多くに、アシュベルト公爵令嬢の代理署名があります」

 殿下が、ゆっくりと私を見た。

「エリス……君が?」

「はい」

「なぜそんなものを残していた」

 責めるような声だった。

 私は少しだけ首を傾げる。

「王太子妃教育の一環です。王族の公務には記録が必要だと、王妃陛下から教わりました」

 実際、その通りだった。

 誰が、いつ、どのような理由で欠席したのか。

 誰が代理対応したのか。

 どのような損失や調整が発生したのか。

 王宮では、すべてが記録される。

 感情ではなく、事実として。

「君は……僕を陥れるために、記録を?」

「いいえ」

 私は即答した。

「殿下を支えるために、記録しておりました」

 最初は本当にそうだった。

 殿下の失態を目立たせないため。

 次に同じ問題が起きないよう調整するため。

 王妃陛下に説明できるようにするため。

 でも、記録は嘘をつかない。

 積み重なった書類は、いつしか私に教えてくれた。

 これは一度の過ちではない。

 繰り返される選択なのだと。

「レオンハルト」

 低い声が響いた。

 神殿の奥から現れたのは、国王陛下だった。

 その隣には、王妃陛下。

 さらに、黒髪に銀灰の瞳をした青年が一人。

 第二王子、ユリウス殿下。

 王太子殿下の弟君であり、北方騎士団の監察官を務める方だ。

 王太子殿下の顔色が変わった。

「父上……母上……」

 国王陛下は、私と父に目を向けた。

「アシュベルト公爵令嬢」

「はい、陛下」

「このたびの件、王家として深く詫びる」

 国王陛下が頭を下げた瞬間、神殿内がざわめいた。

 王が、一令嬢に頭を下げたのだ。

 私は慌てて膝を折る。

「陛下、どうかお顔をお上げください」

「いや。これは王家の不手際だ」

 王妃陛下は悲しげな目でレオンハルト殿下を見た。

「レオンハルト。私は何度も言いましたね。婚約者を軽んじる者に、国は任せられないと」

「母上、違うのです。私はただ、リリアを――」

「あなたはいつも『ただ』と言うのですね」

 王妃陛下の声は静かだった。

「ただ少し遅れた。ただ心配だった。ただ可哀想だった。ただ分かってほしかった」

 その一つ一つが、私には刃だった。

 けれど王妃陛下は、今日初めてその刃を言葉にしてくれた。

「では、あなたはエリス嬢の何を分かってあげたのですか」

 殿下は答えなかった。

 答えられなかった。

 その沈黙が、すべてだった。

「本日をもって」

 国王陛下が告げる。

「レオンハルトの王太子位を一時凍結する。正式な処分は、王族会議にて決定する」

「父上!」

「そして、アシュベルト公爵令嬢との婚約については、令嬢の申請を受理する」

 レオンハルト殿下が、信じられないものを見るように私を見た。

「エリス……君は、本当に僕を捨てるのか」

 その言葉に、少しだけ胸が痛んだ。

 捨てる。

 彼はそう思っているのだ。

 自分が何度も私を置き去りにしてきたことには、まだ気づいていない。

「殿下」

 私は最後に、彼へ礼をした。

「私は、殿下を捨てるのではありません」

 顔を上げる。

「殿下を待つ私を、終わりにするのです」

 それきり、私は背を向けた。


 それから七日後。

 王宮では、正式な王族会議が開かれた。

 結論は早かった。

 レオンハルト殿下は王太子位を剥奪。

 王位継承権も大きく下げられ、三年間の地方修養を命じられた。

 表向きの理由は、王族公務に対する継続的怠慢。

 そして王家婚約における重大な義務不履行。

 リリア嬢についても、調査が入った。

 彼女が本当に病弱だったのか。

 王太子の公務を中断させるほどの症状が、何度もあったのか。

 結果は、あまりにも明白だった。

 彼女の屋敷には医師の診断記録がほとんど残っていなかった。

 発作と呼ばれていたものの多くは、軽い貧血や気分の落ち込み程度。

 それも、王太子殿下が重要な式典や会議に出席する日に限って起きていた。

 さらに、リリア嬢が友人に送っていた手紙が見つかった。

『レオンは呼べば必ず来てくれるの』

『エリス様は完璧すぎて怖いから、少しくらい困ればいいのに』

『王太子妃になれなくても、レオンの一番はわたしよ』

 それが決定打となった。

 リリア嬢の実家であるベルノワール男爵家は王宮出入り禁止。

 リリア嬢本人も、王太子――もう王太子ではないが――との私的接触を禁じられた。

 ざまぁ。

 世間はそう言うのかもしれない。

 けれど私の胸には、思っていたほどの喜びはなかった。

 ただ、長い雨がようやく止んだような、静かな安堵だけがあった。

「エリス嬢」

 王宮記録院の中庭で、声をかけられた。

 振り返ると、ユリウス殿下が立っていた。

 黒髪に銀灰の瞳。

 王太子だった兄とは違い、派手さはない。

 けれど、その立ち姿には揺るぎない落ち着きがあった。

「ユリウス殿下」

 私は礼をする。

「先日の王族会議、お疲れさまでした」

「こちらこそ。あなたの記録がなければ、ここまで早く結論は出ませんでした」

「私は、事実を書いただけです」

「その事実を、五年間欠かさず残せる人は多くありません」

 そう言って、ユリウス殿下は一通の封書を差し出した。

「これは?」

「王宮法務局からの正式な招請状です」

「私に、ですか?」

「はい」

 封を開くと、そこにはこう記されていた。

 ――エリス・フォン・アシュベルト嬢を、王宮法務局特別補佐官として招請する。

 私は思わず顔を上げた。

「私が、法務局に?」

「あなたの記録能力、法理解、そして感情に流されず手続きを進める判断力を、王妃陛下と法務卿が高く評価しています」

「ですが、私はもう王太子妃候補ではありません」

「だからこそ、です」

 ユリウス殿下は穏やかに言った。

「あなたはもう、誰かの婚約者としてではなく、あなた自身として働ける」

 その言葉に、胸の奥が熱くなった。

 五年間、私はずっと「王太子妃になるための私」であろうとしてきた。

 美しくあること。

 賢くあること。

 怒らないこと。

 待つこと。

 許すこと。

 支えること。

 けれど、ユリウス殿下は言った。

 あなた自身として、と。

「……私で、お役に立てるでしょうか」

「もちろん」

 彼は迷いなく頷いた。

「むしろ、あなたでなければ困る」

 不意に、目の奥が熱くなった。

 必要とされることは、怖いことだと思っていた。

 王太子殿下に必要とされた私は、いつも置き去りにされたから。

 けれど、今差し出された言葉は違った。

 私の我慢ではなく、私の力を必要としてくれている。

「お受けいたします」

 私は封書を胸に抱いた。

「エリス・フォン・アシュベルトとして、王宮法務局特別補佐官の任をお受けします」

 ユリウス殿下は、わずかに微笑んだ。

「歓迎します、エリス嬢」


 三か月後。

 私は王宮法務局の執務室で、山のような書類と向き合っていた。

 王族婚約に関する規則の見直し。

 貴族間契約の手続き整理。

 神殿記録と王宮記録の照合制度。

 そして、婚約者に過度な公務を押し付けないための新しい監査規定。

 やるべきことは多い。

 けれど不思議と、苦ではなかった。

「エリス補佐官」

 扉が開き、ユリウス殿下が入ってくる。

 今の彼は、正式に王太子となっていた。

「殿下。北方監察の報告書ですね」

「はい。確認をお願いします」

「本日中に拝見します」

「無理はしないでください」

 思わず、私は瞬いた。

 昔、レオンハルト殿下はよく言った。

『君ならできるだろう』

『君なら分かってくれるだろう』

『君なら大丈夫だろう』

 けれどユリウス殿下は、いつも違う。

 無理はしないでください。

 休憩を取りましたか。

 困っていることはありませんか。

 同じ王族でも、こんなに違うのかと思う。

「ありがとうございます。でも大丈夫です」

「大丈夫という人ほど、大丈夫ではないことがあります」

「……それは、経験則ですか?」

「ええ。主にあなたを見て学びました」

 真顔で言われて、私は少し笑ってしまった。

 ユリウス殿下も、かすかに口元を緩める。

「それと、もう一つ」

「何でしょう」

「来月の建国記念舞踏会ですが、私の最初の一曲をお願いできませんか」

 ペン先が止まった。

「……私が、ですか?」

「はい」

「殿下の最初の一曲は、政治的な意味を持ちます」

「承知しています」

「私は、元王太子殿下の婚約者です」

「それも承知しています」

「でしたら――」

「だからこそ、あなたにお願いしたい」

 ユリウス殿下は、まっすぐ私を見た。

「私は、あなたが誰かに捨てられた令嬢ではなく、自分の意思で立ち上がった人だと、王国に示したい」

 息が止まった。

「そして、これは王太子としてだけではありません」

 彼は少しだけ視線を落とし、それから真剣な声で続けた。

「私個人としても、あなたと踊りたいと思っています」

 胸の奥で、静かに何かが揺れた。

 かつての私は、誰かに選ばれることを待っていた。

 でも今は違う。

 私はもう、待たない。

 選ばれるのを待つのではなく、私も選ぶ。

「……一曲だけなら」

 私が答えると、ユリウス殿下の表情がわずかに明るくなった。

「ありがとうございます」

「ただし、舞踏会の前に報告書を三件片付けてください」

「厳しいですね」

「王太子殿下ですから」

「では、努力します」

「努力ではなく、完了でお願いします」

 ユリウス殿下は少し困ったように笑った。

 その笑みを見て、私は思う。

 ああ、私はもう大丈夫だ。

 誰かの一番になれなかった過去は、確かに痛かった。

 五年間の我慢が消えるわけではない。

 けれど、その時間が無駄だったとも思わない。

 あの日々があったから、私は記録を残した。

 法を学んだ。

 自分を守る方法を知った。

 そして今、自分の足でここに立っている。

 窓の外では、春の光が王宮の庭を照らしていた。

 私は新しい書類に署名する。

 エリス・フォン・アシュベルト。

 もう誰かの添え物ではない。

 私自身の名前。

「エリス嬢」

 ユリウス殿下が言った。

「あなたに出会えてよかった」

 私は顔を上げ、微笑んだ。

「私もです、ユリウス殿下」

 あの日、婚約式に婚約者はいなかった。

 けれどそのおかげで、私はようやく見つけたのだ。

 待つだけではない人生を。

 記録されるだけではない、自分で書いていく未来を。

 だから今なら、胸を張って言える。

 あの鐘は、終わりの鐘ではなかった。

 私の幸せが始まる、最初の鐘だったのだ。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


面白いと思っていただけましたら、

評価・ブックマークで応援していただけると嬉しいです。


[追記]

多くの方に読んでいただけている一方で、感想欄で作品内容へのご意見を超えた書き込みも増えてきたため、しばらく感想受付を停止いたします。


いただいたご意見は今後の執筆の参考にしつつ、引き続き作品更新を続けてまいります。


読んでくださっている皆さま、ありがとうございます。



『王太子に捨てられたのではありません。私が法で婚約を終わらせたのです――元婚約者の私、王宮法務局で第二王子に重用されています』


婚約式のその後、王宮法務局でのエリスの活躍、ユリウス殿下との関係、そして王宮や貴族社会の問題を「法と記録」で正していく物語です。


よろしければ、連載版も読んでいただけると嬉しいです。

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