第六十三話 「六月なのに寒すぎて、白ジャージの人が靴下を履いた日」
田植えも過ぎた六月の、妙に寒い朝。
店のシャッターは半分だけ上がっている。
外の空気が、明らかにおかしい。
湿気はある。
なのに、冷たい。
オフィスチェア。
奏が膝を抱えるように座っている。
ポケットから取り出した懐中時計。
パカっ。
カチン。
パカっ。
カチン。
指先で、開いて閉じる。
何度も。
「……寒い」
カチ。
カチ。
カチ。
店の中。
音だけは、いつも通り。
雄一が手をこする。
「……寒いな」
息は白くない。
それなのに、冷える。
オフィスチェア。
白ジャージ。
袖は肘まで。
——そして。
靴下。
白。
無地。
「……お前」
「うん」
「履くんだな」
「今日はね」
少し間。
「普段履かないだろ」
「うん」
「なんで」
「気持ち悪い」
即答。
「靴はいいのに?」
「いいよ」
「なんで」
少しだけ考えて。
「まとわりつくのが嫌」
短い。
それだけ。
一拍。
「靴、汗かいたら滑らないか」
「そこまで足の裏に汗かきません」
間もない。
言い切る。
少しだけ続ける。
「あと」
奏が、片足を引き寄せる。
靴下のつま先をつまんで——
するり、と脱ぐ。
そのまま。
ひょい、と足の裏を向けてくる。
「扁平足じゃないし」
「……」
見せて終わり。
「点で乗るじゃん」
床をトン、と叩く。
「ここ」
「……」
「靴下は面」
脱いだ方の足で、床を軽くなぞる。
「逃げ場ない」
短い。
それだけ。
一拍。
奏が、足元を見る。
少しだけ考えて——
さっき脱いだ靴下を、もう一度履く。
「……寒い」
「履くのかよ」
「寒い」
即答。
カチ。
カチ。
カチ。
その時。
カコッ。
鳩時計の扉が開く。
「ポッ」
一回だけ鳴く。
時間じゃない。
すぐ引っ込む。
「……今の」
「早いね」
他人事。
カチ。
カチ。
カチ。
少しだけ間。
雄一が視線を細める。
「……なんかやったか」
即答。
「やるわけないでしょ」
間もない。
「面倒」
言い切る。
軽い。
本当にそれだけ、という顔。
「……お前じゃないのか」
「違う」
「即答だな」
「寒いの嫌だし」
雑だが、筋は通っている気がする。
奏が立ち上がる。
一歩。
わずかにズレる。
二歩目。
止まる。
「……歩きづらい」
「だから脱げ」
「寒い」
「歩けてない」
「歩けてる」
もう一歩。
やっぱりズレる。
「歩けてない」
カチ。
カチ。
カチ。
「暖房入れるぞ」
「いいよ」
雄一がリモコンを取る。
ピッ。
エアコンが動き出す。
少し遅れて、風。
店内の空気が、ゆっくり変わる。
「……まだ寒いな」
「うん」
奏が足先を床に近づける。
止まる。
「今日、滑る」
「またか」
足先が床に触れる。
——カチ。
一つだけ、時計が遅れる。
「裸足だとね」
奏が言う。
「引っかかるんだけど」
「靴下だと?」
「流れる」
迷いがない。
ただの観測結果。
カチ。
カチ。
カチ。
雄一がリモコンを見る。
ピッ。
温度を上げる。
風が変わる。
少しだけ、柔らかい。
「……あ」
奏が足を引く。
「何だ」
「余計だめ」
「何が」
「流れすぎる」
カチ。
カチ。
一瞬だけ、リズムが揺れる。
すぐ戻る。
「脱げ」
「寒い」
「どっちだ」
「うーん」
少し考えて。
「キリまで」
「だから何の」
「一分」
カチ。
カチ。
カチ。
その瞬間。
店の時計が、一瞬だけ揃う。
完全に同じ秒。
すぐに崩れる。
何もなかったように。
「……今の」
「うん」
奏が靴下を脱ぐ。
ぽい、と椅子の上。
足を床につける。
カチ。
音が戻る。
「やっぱこっち」
「最初からそうしろ」
「寒かったんだよ」
軽い。
それだけ。
雄一はリモコンを見る。
少しだけ考えて。
さらに温度を上げる。
ピッ。
風が変わる。
時間が少し経つ。
沈黙。
カチ。
カチ。
カチ。
その時。
ドアベル。
カラン。
扉が開く。
外の空気が、少しだけ流れ込む。
一歩。
三雲が入ってくる。
「……暑っ」




