第四十五話 「時計屋なのに今何時かわからない日」
朝。
古針時計店。
ガラス越しの光が、白と銀の店内に静かに広がっている。
開店直後の店は、まだ人の気配が薄い。
壁の時計がいくつも動いている。
カチ。
カチ。
カチ。
時計は九時を少し回ったところだった。
店の奥。
作業場の引き戸が、すっと開く。
奏が出てくる。
白ジャージ。
袖は肘までまくってある。
裸足で白いローカットシューズ。
店に出ると、いつものように一度だけ立ち止まった。
少し目を閉じる。
カチ。
カチ。
カチ。
雄一がカウンターの奥から見る。
「何してる」
「音」
奏は目を開ける。
「今日はこっち」
店の奥の振り子時計の近くへ行く。
修理場からそのまま持ってきたオフィスチェアに腰を下ろす。
キャスターが床を小さく鳴らした。
振り子がゆっくり揺れている。
コツン。
コツン。
雄一はそれを少し見てから、自分の腕を見る。
何もない。
「あ」
奏が振り子を見たまま言う。
「忘れた?」
雄一はもう一度腕を見る。
「……時計」
奏は振り子を見たまま、少しだけ笑う。
「珍しい」
雄一は壁の時計を見る。
九時三分。
ショーケースの時計を見る。
九時四分。
奥の時計を見る。
九時二分。
雄一は少し黙る。
「どれが正しいんだ」
奏は振り子の音を聞いている。
「全部」
「全部?」
「テンポ違うだけ」
雄一は店内を見回す。
カチ。
カチ。
カチ。
確かに、音が少しずつ違う。
秒針の進み方も、揃っているようで揃っていない。
外で自転車のブレーキが鳴る。
ドアベルが鳴る。
ガラス扉が開く。
四十代くらいの男が、店の中をのぞくように入ってくる。
店内の時計の音に、一瞬だけ足を止めた。
それから言う。
「すみません、今何時ですか?」
雄一は反射的に腕を見る。
何もない。
少しだけ間が空く。
壁の時計を見る。
九時五分。
ショーケースを見る。
九時四分。
奥を見る。
九時三分。
雄一は言う。
「……九時くらいです」
客は少し笑う。
「だいたいで大丈夫です」
奏が振り子の方から言う。
「急ぐと、時間って機嫌悪くなるよ」
雄一が振り返る。
「接客で言うな」
奏は振り子を見たまま。
「大丈夫」
「何が」
「だいたい間に合う」
雄一は少し息を吐く。
客は店の時計を見回している。
「いいですね、この店。音が落ち着く」
奏が小さく頷く。
「うん」
振り子。
コツン。
コツン。
客は壁の時計を見上げた。
木の枠の、小さな壁掛け時計だった。
「これ、売り物ですか?」
雄一が振り向く。
「はい」
客は少し考える。
それから言う。
「これ、ください」
雄一は一瞬だけ驚く。
「ありがとうございます」
客は笑う。
「時間を聞きに入ったのに、時計買って帰るのも変ですね」
奏が振り子を見たまま言う。
「よくある」
雄一が言う。
「ない」
客は笑いながら言った。
「実はこの先で小さな喫茶店をやってましてね。
店に掛ける時計、ちょうど探してたんです」
雄一は時計を外しながら言う。
「喫茶店ですか」
「ええ。商店街を少し曲がったところで」
客は時計を受け取り、軽く頭を下げた。
「いい音の店ですね。また来ます」
ドアベルが鳴る。
ガラス扉が閉まる。
店はまた静かになる。
雄一はもう一度、自分の腕を見る。
やっぱり落ち着かない。
「……部屋に取りに行くか」
奏が振り子の下から言う。
「今はいいよ」
「落ち着かない」
「分かる」
雄一は少し笑う。
「分かるのか」
奏は振り子を見ている。
「時計、便利だから」
「知ってる」
奏は少し考えてから言う。
「でも」
「何だ」
振り子。
コツン。
「時間ってさ、追いかけると逃げるんだよ」
雄一は少し黙る。
店の外を見る。
駅前商店街。
朝の人通りが、少しずつ増えてきている。
雄一は言う。
「まあな」
奏は振り子を見たまま、少しだけ背伸びする。
「まだ九時くらいだし」
雄一が言う。
「さっきも言ったな、それ」
店の時計が静かに動いている。
カチ。
カチ。
カチ。
奏が小さく言う。
「今日はまだ、昼の前奏」
雄一は店内の時計を見回した。
九時二分。
九時四分。
九時五分。
どれも少しずつ違う。
ドアベルが鳴る。
三雲が顔を出した。
「饅頭、食べる?」
紙袋を軽く持ち上げる。
雄一が言う。
「仕事は?」
三雲は首をかしげる。
「観測中よ」
奏が手を挙げる。
「食べる」
そんな朝だった。




