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下町オールドクロック  作者: イシマ ヒロ
「奏という日常」

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第二十六話「炊飯器に本気を出させる女」

 翌日。


店の奥に、まだ焼肉の匂いが残っているような気がする。


 カウンターの上に箱。


 赤い値札。39,800円。


「……どこで買った」


「タナカ電機」


 一拍。


「炊飯器でその値段か」


「型落ち」


「昨日の勢いじゃないよな」


「合理的判断」


「怪しい」


「今月号、炊飯器特集だった」


「雑誌で家電買うな」


「比較表があった」


「表で決めるな」


「釜ランキング1位」


「ランキングで釜を語るな」


「田中さんも同意してた」


「巻き込むな」



 箱を開ける。


 重い。


 内釜が分厚い。


 奏の目が変わる。


挿絵(By みてみん)


「釜が違う」


「始まった」



「① 内釜3.2ミリ」


「ミリで語るな」


「② 圧力IH」


「前のも炊けてた」


「③ 可変圧力」


「怖い」


「④ 蒸らし制御」


「待てばいい」


「⑤ 温度センサー三点」


「三点もいるか」


「⑥ 炊き分けアルゴリズム」


「米に?」


「⑦ 保温低温循環」


「そこは助かる」


「⑧ 蒸気カット」


「切るな」


「⑨ 内蓋二重」


「知らん」


「⑩ 型落ちでも釜は同じ」


「そこが本音だな」


 鳩時計が鳴る。


 雄一は少し遠くを見る。


 この口調。


 「違う」「浅い」「本気」。


 どこかで聞いた構造だ。


 世界の話をするときと同じだ。


 ただ今日は、炊飯器だ。



「で、何合炊く」


「3合」


「5.5合炊きだろ」


「3合は二人でギリ」


「ギリなわけあるか。絶対多いぞ。」


「足りない」


「余るだろ」


「朝食べる」


「それでも多い」


「冷凍する」


「この前三パックあったぞ」


「計画的保存」


「言い方」



 炊き上がる。


 湯気。


 白。


 雄一が一口。


 普通に、ちゃんとうまい。


 甘さが安定している。


「……値段だけはあるな」


 もう一口。


「慣れるのが怖いな、これ」


「でしょ」


 奏は満足そうに頷く。


 だが箸が止まる。


「……0.3」


「まだあるのか」


「香りが半歩遅い」


「分からん」


「分からないのは正常」


「その言い回しやめろ」



「炊飯器の中だけ」


「限定な」


「数ミリ秒」


「ほどほどにしろ」


 一瞬。


 何も起きない。


 もう一口。


 ——揃う。


 脂の余韻と白が静かに噛み合う。


「……腹立つけどうまい」


「文明9、私1」


「勝負するな」


 奏は茶碗を見つめる。


「炊飯器、まだ余力あった」


「追い込むな」


「本気出してもらった」


「炊飯器に謝れ」


 鳩時計が鳴る。


 正確な時間だった。

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