第十八話 「 ⌘Zより首を傾げる女」
雄一が奏にノートパソコンを渡したのは、
ごく現実的な理由からだった。
「店の帳簿、つけられる?」
「うん」
即答だった。
嫌な予感はしたが、
それ以上の確認はしなかった。
⸻
奏はテーブルに向かい、
ノートパソコンを開いている。
白いジャージの袖を少しまくり、
画面に顔を近づけていた。
時計店の帳簿。
日付、修理内容、金額。
カーソルが、静かに瞬いている。
「……あ」
その一言で、雄一は顔を上げる。
「何」
「今の、違う」
画面の端に、
《保存しました》
「違うなら⌘Zだろ」
奏は返事をしない。
⌘キーにもZキーにも触れず、
画面を見たまま、少し首を傾げる。
——カチ。
音はしない。
なのに。
《保存しました》の表示が、
最初から無かったみたいに消える。
入力途中だった金額が、
そのまま画面に残っている。
「……うん」
「待て、今の違う」
「え?」
「金額、一桁多い」
「……え」
奏の肩が、ほんの少しだけ上がる。
「いや、違う、修理代じゃなくて部品代」
「え、じゃあさっきのは合ってる?」
「いや、そこが違う」
「どっち」
「だから違う」
「どこが」
「全体的に」
奏の指が、キーボードの上で止まる。
「……ちょっと待って」
「戻すなよ?」
「まだ戻してない」
「戻す前に考えろ」
「考えてる」
「考えながら時間触るな」
「触ってない!」
——カチ。
「今触っただろ!」
「違う、迷っただけ!」
「迷いで時間揺らすな!」
その瞬間。
リビングの奥。
鳩時計が、
——ポッポー!
「……」
「……」
二人同時に声を張る。
「「うるさい!」」
鳩は構わず、
——ポッポー! ポッポー!
「今じゃねえだろ!」
「空気読んで!」
しばらくして、
ようやく静寂が戻った。
「……で、どこが違う」
雄一が言う。
奏は画面を見つめ、
しばらく黙ってから、ぽつり。
「……最初」
「最初?」
「最初から、ちょっと違う」
「最初からやり直す気か」
「うん」
「⌘Z使え」
「……使う」
奏はようやく⌘Zを一度だけ押した。
「……ほら」
「それでいいんだよ……」
奏は画面を見つめたまま、言う。
「焦らせると、
帳簿がびっくりする」
その背後で。
——ポッ。
鳩時計が、
小さく鳴りかけて止まった。
二人は同時に、
音のした方向へ、何も言わずに意識を向けた。
鳩は、何事もなかったように沈黙している。




