第十六話 「660CCのポルシェ」
昼過ぎの古針時計店は……待っていた。
時計の針の音。
工具が触れる金属音。
そして――
本来なら、そろそろ聞こえるはずの音がしない。
「……来ないな」
雄一が言った。
「来ないね」
奏も言った。
二人の視線は、そろって入口のガラス扉。
本来なら、もう届いているはずのもの。
瓶ビール一ケースと、奏のスポーツドリンク。
そのときだった。
店の前で、エンジン音が
「ブスッ」と情けなく途切れた。
「……あ」
奏が言う。
外を見ると、酒屋のオッちゃんが軽トラの前で立ち尽くしていた。
白い車体。
いかにも配達用の軽トラ。
その側面には、無駄に整った文字。
《藤崎さかや店》
白地に黒。
角度のついた、妙に完成度の高いレタリング。
手書きではない。
ちゃんと「分かってる人」が頼んだやつだ。
雄一は、少し見てから言った。
「……完全に酒屋ですね」
「酒屋だよ。呼んだろ?」
オッちゃんが即答する。
⸻
「動かねえ」
オッちゃんは、諦めた声で言った。
「さっきまで普通だったんだがな。
商店街を一周したあたりで、急に」
「商店街一周で限界なの、だいぶ正直ですね」
「俺の自慢の農道のポルシェ 速いぜっ!」
胸を張って言う。
誰も相槌を打たない。
「……軽トラですよね」
「鉢王子商店街仕様」
奏が淡々と言った。
「名乗りだ、名乗り」
⸻
「瓶ビールは?」
奏が聞く。
「無事」
「スポーツドリンクは?」
「それも無事。上に乗ってる」
荷台から、カチャン、と瓶の音がした。
雄一は腕時計を見る。
「この気温で止まるのは、嫌ですね」
「分かってる。だから俺も焦ってる」
オッちゃんは車を軽く小突いた。
「キャブかな」
「キャブ?」
「古いと詰まりやすいんだよ。ゴミとか。」
奏が、ひょいと覗き込む。
難しそうな顔。
だが、理解しているかは別。
「ね」
「なんだ」
「これ、きれいに整列してないみたい」
「見て分かるのか?」
「ううん」
「じゃあなんで?」
「……気分」
「気分でキャブレターを語るな」
⸻
奏は軽トラの前にしゃがみ込み、少し考える素振りをした。
「う〜ん……ちょっとだけ……」
「何がだ」
「戻す」
雄一は、もう聞き返さなかった。
奏は何も触らない。
工具も使わない。
ただ、一瞬だけ目を閉じる。
⸻
オッちゃんがまたセルを回してみる。
「……あ?」
エンジンが、
さっきまでの不機嫌さが嘘のように回っている。
「……今、何した?」
「してない」
奏は即答した。
「いや、絶対――」
「してないって」
雄一が言う。
「……音、変わりましたね」
「だよな?」
オッちゃんはアクセルを軽く踏む。
スムーズ。
異様なほどスムーズ。
「キャブの詰まり、取れてる……?」
「取れたね」
「どうやって?」
「戻したら、混み合う前だった」
「意味が分からん」
「いつも通りの感じで」
⸻
「じゃあ、降ろすぞ」
オッちゃんは、何事もなかったように荷台を開ける。
瓶ビール一ケース。
その上に、奏のスポーツドリンク。
結露した容器が、涼しげな音を立てる。
「今日は暑いからな」
「助かります」
「藤崎さかや店に感謝しろ」
オッちゃんは軽トラに乗り込み、走り去っていった。
商店街の角で見えなくなる。
最後まで、速さより正確さが勝っている走りだった。
⸻
店内。
瓶ビール一ケースと、
奏のスポーツドリンクが並んでいる。
奏は椅子に戻り、あぐらをかいた。
「キャブって、何?」
「今さらか」
「難しそうだった」
「分からないのに直したのか」
「うん。詰まりは整列させると上を流れる時間が丁度いい」
「まったくわからん」
スポーツドリンクの表面を、水滴が伝う。
今日も特に何も起きなかった。
――ただ、
藤崎さかや店の軽トラが直って、
瓶ビール一ケースと、
奏のスポーツドリンクが届いた日だった。




