第9話「日常の顔」
翌日の昼。
俺は目覚ましよりも先に目を覚ました。夜中の騒動がまだ体に残っているせいか、眠ったのに疲れが抜けていない。けれど、カーテン越しの光はいつもの昼で、どこまでも平和そうだった。
スマホを見ると、通知がひとつ。
《無事ならよし。札は本部に戻すな、そのまま使え》——店長から。
雑すぎるメッセージに苦笑しつつ、俺は制服を脱ぎ捨てて私服に着替えた。今日は夜勤までの時間、ほんの少し“日常”に戻るつもりだ。
駅前の定食屋。カウンターに座って焼き魚定食を注文する。
昼時だから客で賑わっていて、テレビからはワイドショーの声が流れていた。
「昨日の零時に一帯で停電がありました」
レポーターの声に、思わず箸が止まる。
——あれだ。
店で裂け目を閉じていたとき、蛍光灯が軋んだ。あの瞬間に波が外に漏れたんだろう。
「ほんとこの辺はトラブル多いよね」
隣の客の主婦がぼやく。
俺は「そうですね」と相槌を打ちながら、内心苦笑した。
表の人にとっては停電。
裏の人にとっては裂け目。
俺にとっては——どっちも「お客様対応」だ。
焼き魚を食べ終えると、少し気が楽になった。
腹が満ちると、人は妙に冷静になれる。
夜勤前に店へ向かう途中、偶然、昼番のアルバイト仲間とすれ違った。
「おー、蓮くん! 昨夜すごい停電だったな。店も真っ暗になったらしいぞ」
「え、そうなんすか?」
「監視カメラも止まったみたいでさ。オーナーが青ざめてた」
知らないふりをしながら相槌を打つ。俺にとっては“真っ暗”どころか、あの裂け目の奥にもっと黒いものがいたのだが。
仲間は気軽に笑って、「じゃ、夜よろしく」と手を振った。
普通の会話。普通のバイト。
……それなのに、俺にはもう“普通”だけじゃ済まないことが分かっている。
夜十時、出勤。
レジ前に立つと、最初の客は酔っ払いのサラリーマンだった。ネクタイをだらしなく緩めて、唐揚げ棒を二本。
「お兄ちゃん、夜も大変だなぁ」
「そうですね。ありがとうございます」
くだらない世間話に、ちょっと救われる。
次に来たのはタクシー運転手。缶コーヒーを抱えて笑顔で会計。
「眠気に効くやつ頼むよ!」
「ブラックですかね」
——こういうやり取りも悪くない。
そして、ドアがまた開いた。
黒髪の女——常連様が入ってくる。
「こんばんは」
「……いらっしゃいませ」
彼女は静かに塩おにぎりを一つ手に取り、俺に差し出す。
会計を済ませ、代金を受け取ると、彼女は小さく笑った。
「昨夜、よくやりましたね」
「見てたんですか」
「常連ですから」
短いやり取り。それだけで十分だ。
彼女が店を出たあとも、心臓の鼓動は落ち着かなかった。
普通の客と、普通じゃない客。
その境界線に立つのが、俺の仕事だ。
けれど、こうして“普通の会話”があるからこそ、俺はまだやっていける。
次の零時がいつ来るのかは分からない。
だが、今日もレジを打つ。
「いらっしゃいませー」
声を出すたびに、自分がまだこの世界に立っていることを確かめるように。




