第8話「夜の零時、店長の影」
昼の零時を乗り越えて、俺はそのまま倒れるように布団に潜り込んだ。
夢も見ずに眠り、目が覚めたのは夜十時すぎ。スマホを見ると、通知がひとつ。
《蓮、今夜の零時は“本番”だ。俺も向かう。》——店長から。
背筋が冷たくなった。
「本番」ってなんだ。昼であれだけやばかったのに、さらに強い裂け目が来るってことか。
制服に袖を通し、外に出る。街は静かで、風が重い。まるで全てが零時を待っているようだった。
夜十一時四十五分。
ミカド八号店の神棚の小鈴が、まだ鳴っていないのに、空気はもうざわついている。冷蔵庫の音がやけに高く、蛍光灯の明かりがわずかに滲む。
そして、十一時五十分。自動ドアが開いた。
「こんばんは、蓮」
佐伯店長が入ってきた。いつもと同じにこにこ笑顔だけど、手に持っているのはビニール傘じゃなく、長い木箱だった。
「店長……それ」
「裂隙札の“親符”だ。本部から貸し出された。今夜は俺が前に立つ」
心の底から安堵した。やっと、俺一人じゃない。
「……助かります」
「いや、助かるのは俺のほうさ。候補生が倒れたら困る」
軽口を叩きながらも、店長の目は鋭かった。
零時。
小鈴が、澄んだ音を鳴らした。
三段目の棚が、真っ黒に沈む。今度はラップやアルミがすべて溶けるように沈み込み、背後に穴が開いた。
昼のときより大きい。もう、棚一面が「裏」に置き換わっている。
「っ……!」
俺は思わず一歩退いた。
店長が前に出る。木箱を開けると、中には一枚だけ、他の札よりも厚い紙が収まっていた。朱の印が複雑に絡み合っている。
「親符。これで裂け目を抑える」
店長が札を掲げた瞬間、空気が逆巻く。
穴の奥から、誰かがこちらを覗いた。影ではない。はっきりとした「顔」。
人間に似ているが、目が三つ。口が二つ。均整が崩れたまま笑っている。
「……いらっしゃいませ」
喉が勝手に動いた。客として扱わなきゃならない。そうしなきゃ、境界は壊れる。
「通行……許可」
顔が重なる声で囁く。
札を掲げた店長が、はっきり言い返した。
「許可できない。順番を守れ」
ズシン、と床が揺れる。おでん鍋の汁が跳ね、蛍光灯が軋む。
黒い風が押し寄せ、親符が震えた。
「蓮! 塩を——」
「はい!」
俺は結界塩の瓶を開け、レジ前に大きな円を描く。粒が光を弾き、境界を縁取る。
穴から伸びた無数の手が、塩に触れてじゅ、と焼け落ちる。
店長が叫ぶ。
「親符を支えろ!」
「どうやって!?」
「札を重ねろ! 候補生の“意思”で!」
俺は封筒から自分の札を取り出し、店長の札に重ねて掲げた。
紙が重なった瞬間、熱が走る。視界が真っ白に弾け、胸の奥で何かが鳴った。
——お客様は順番を守る。
俺の声と、店長の声が重なる。
札から放たれた光が穴を押し返し、黒い顔が歪み、砕け、奥に吸い込まれる。
最後の残光と共に、三段目の棚が「普通の棚」に戻った。ラップとアルミがただ整然と並んでいる。
小鈴が、ちりん、と余韻を残した。
「……ふう」
床に膝をつき、息を吐く。
隣で店長も肩で呼吸しているが、顔には笑みが浮かんでいた。
「やるじゃないか、蓮」
「いや……死ぬかと思いました」
「それでいい。門番は、いつも死ぬかと思う仕事だ」
俺は何も言えなかった。ただ、胸のカードが熱を帯びているのを感じる。
《門番候補》の文字が、脈動するように光っていた。
次の零時が、また必ず来る。
そして、そのとき俺は——。




