第7話「順番を守れ」
札を押さえる指が汗で滑る。
黒い手は円の内側でうねり、白紙の男は一歩、また一歩と近づいてくる。
塩がじりじりと焼ける匂いを放ち、昼の光が濁って揺れる。
「順番をお守りください」
俺はもう一度お願いする。けれど、白紙の男は止まらない。
——それどころか、帽子の影の奥で、口がかすかに笑ったように見えた。
「通行」
その声に呼応するみたいに、黒い手が暴れた。塩の円の内側で床が抜けそうに沈み、蛍光灯がぱちぱちと瞬く。
昼の客たちがざわめき始める。
「なに、これ?」
「火花……? やばくね?」
見えてる。表の客にも、もう見えてしまっている。
このままじゃ、裂け目が“混ざる”。
表も裏も区別なく呑み込まれる。
頭が真っ白になりかけたとき、ポケットの中で硬貨が転がった。
昨日、常連様が置いていった銅銭だ。
《裂隙封印》と刻まれたあの古代めいた貨幣。
「……代金は、まだお預かりしてません!」
思わず口走る。自分でも意味が分からない。
けど、俺は塩の円の外に手を伸ばし、銅銭をレジ台の上に叩きつけた。
カラン! と乾いた音が響く。
白紙の男の足が、止まった。
影の奥で、目がこちらを向いた気がする。
「代価……」
かすかな声。
男はポケットから白紙の札を取り出し、銅銭の隣に置いた。
その瞬間、黒い手の動きが止まる。
「取引成立」
耳の奥でレジが勝手に鳴った。ピッ。
レシートが吐き出される。
《通行キャンセル 返金処理中》
黒い手が、煙のように崩れ、塩の円の中心に吸い込まれて消えた。
札の熱が静まり、砂時計の最後の砂が落ちた。
——裂け目、閉じた。
店内に、急に静けさが戻った。
ただの昼のコンビニ。弁当を手にしたサラリーマンが、呆然と立ち尽くしている。
「……なんだ今の」
「地震……?」
彼らの視界からは、今の光景が“曖昧”になっていく。記憶が薄れるように、困惑の表情はすぐ日常に戻る。
人間にはそういう“防御”が備わってるのだと、直感で分かった。
白紙の男は、銅銭を一瞥し、静かに背を向けた。
「……次は、夜」
チャイムも鳴らずに、ドアをすり抜けるように出ていった。
残されたのはレシート一枚と、俺の震える呼吸だけ。
「……っは、はぁ……」
膝が笑い、床にへたり込む。
視界の端で、小鈴がちりんと鳴った。
バックヤードからパートさんが顔を出す。
「斎藤くん? どうしたの? 真っ青よ」
「い、いや……大丈夫っす。床、滑っただけで」
「気をつけてねー」
すぐに日常が戻る。
でも俺には分かる。
昼に零時が来た。裂け目は閉じた。だけど——次は、夜。
胸ポケットのカードが、熱を帯びていた。
《門番候補》の文字が、じんわり浮かび上がっている気がする。
——俺は、何を選ばされているんだ。
次の夜は、もう逃げられない。




