第5話「逆風の夜、塩の円」
今日も今日とて夜勤。
出勤してバックヤードの戸を開けた瞬間、紙の匂いが濃くてむせた。返本の山かと思ったら、見慣れない小箱が三つ。どれも同じ朱色の印が押されている——《裂隙対応品・補助》。脇に店長の走り書き。
——今夜は風が「逆」。札だけじゃ足りない時は、塩で円を切れ。三段目は触るな。覗くな。呼吸しろ。
P.S. 常連様に失礼のないように。
逆、ってなんだよ。ため息を飲み込んで、俺は塩の缶を一本、レジ台の下段に移した。砂時計と札、クリップは取り出しやすいように手前。神棚の小鈴は静かにこちらを見ている。
二時五十五分。外は風が強い。雨はないのに、電線が鳴っていた。
「いらっしゃいませー」
入ってきたのはタクシー運転手——と、その後ろに、影を引くように黒髪の女。昨夜の常連様だ。彼女は運転手がホットスナックを選んでいる間、いつものおにぎり棚ではなく、レジ前の床をじっと見下ろしている。
「こんばんは」
「いらっしゃいませ。……常連、さん?」
女は小さく頷いた。目元に溜めた湿り気が、風の気配を測っているように見える。
「今夜は、風が逆です」
「それ、さっきメモで見ました。逆って?」
「向こうから、こちらに寄る。閉じるより、通すほうが楽な夜」
背筋が冷える。
タクシー運転手が揚げたてのコロッケを受け取り、元気に「がんばれよ!」と帰る。その明るさが、逆に不安を照らした。
小鈴が、ころん、と鳴る。
床のどこかが、かすかに凹んだ。
見るな、覗くな——頭の片隅で店長の字が点滅する。俺は視線を床から外し、代わりに常連様の指先を見た。彼女は静かにレジ袋を抱えたまま、短く告げる。
「塩の円を。大きく、薄く。触れないように」
「了解」
俺はレジ下から粗塩の缶を取り出し、レジ前の床に円を描いた。白い粒が淡く線を作る。掃除担当の朝番が見たら眉をひそめそうだが、そんなこと言ってる場合じゃない。
「息をととのえて。まだ“開口”ではありません」
言葉に合わせて深呼吸をひとつ。
——その瞬間、蛍光灯が一段だけ暗くなった。床の円の内側で、光が水面みたいに震える。
「開く」
女の声が低く落ちた。塩の円の中心に、濡れていない黒が滲み、鏡の裏側を覗くみたいに奥行きが生まれる。風はない。なのに耳の奥で紙がめくれる音がする。
店のドアが、勝手に開いた。チャイムが鳴らない。
入ってきたのは——あの男だ。深く帽子をかぶった、白紙紙幣のスーツ。
「煙草、赤いの」
声は昨日と同じ淡さ。俺は震えない指でマルボロを取り、レジに置く。
男は無言で千円札——いや、真っ白の紙を差し出した。
ピッ。レジは受け入れる。表示されたお釣りは五百円。俺はコインを渡した。
男は受け取って、視線だけで床の円を見下ろした。
「通行、許可」
初めて、男が二語続けて喋った。
鏡のような黒が、ゆっくりと広がる。塩の円の内側だけが、深く沈む。まるで通路が整えられていくみたいに。
「待ってください」
自分の声が、思ったより強く出た。
「ここは店です。通すものは通す。通せないものは、払い戻しもできません」
何を言ってるんだ俺は。けど、常連様の目が一瞬だけ細くなり、うっすらと笑った気がした。
男は一拍置いて、コートの内ポケットから小さな箱を取り出した。黒いマッチ箱。蓋に白いスタンプ——《通行票》。
「代価」
箱を塩の円の縁に置くと、じゅ、と聞こえない音がして、箱だけが円を越えた。黒の上を滑り、消える。
「……今、何を通した」
俺の問いに答えはない。代わりに、塩の円の内側から、薄い紙束がふわりと浮かび上がった。領収書みたいに見えるが、数字も文字もない。風もないのに、紙束は俺の手元に落ちた。指に触れた瞬間、レジが勝手に動く。ピッ、ピッ、ピピッ。レシートが勝手に吐き出され——《通行税》という文字だけが印字された。
「……税、って。誰が取ってるんだよ」
「あなたたち」
不意に、常連様が口を開く。
「境界を“保つ”側が、通行の重さを量る。通すか、閉じるか。今夜は逆風。放っておけば押し込まれる」
押し込まれる。塩の円の縁が、わずかに揺れた。
黒の面から、薄い細いものが伸びる。紙か、布か、髪の毛か。形容しづらいそれが、塩に触れては、じゅ、と消える。
「札を」
「はい」
俺は砂時計を反転させ、札を一枚。常連様が無言でうなずいた。
「まず、円の“北”から」
北? コンビニに北も南もあるのかよ——と思った瞬間、背中の常連様が俺の肩を軽くつついた。体が自然と回り、円の上方に膝をつく。そこが北なんだと、頭より先に手が理解した。
札の端を、塩の線にそっと重ねる。
「蓮」
名前を呼ばれ、呼吸が整う。
「覗かない。触れない。押さえる」
黒の面がこちらに寄ってくる感覚。耳が詰まる。遠くで冷蔵庫の唸りが細くなり、揚げ物の保温音が遠のく。札の縁だけが現実を掴んでいる。
砂が落ちる。
三分。長い。
白紙紙幣の男は、ただ見ている。帽子の縁の下の影に、目があるのかないのか分からない。けれど、たしかに見ている。
俺は視線を落とし、札の端と塩の線だけを見つめた。
最後の砂が落ちる直前、黒の面がふっと薄くなった。
「今」
常連様の声。俺は札をぐっと押し込む。塩の線が白く光り、黒は紙に吸われるように縮んだ。
砂が尽きる。静けさが戻る。
「……ふう」
息が戻り、膝の力が抜けた。塩の円の内側は、ただの床になっている。
常連様は一礼し、レジ台に塩おにぎりを一つ置いた。
「代価」
そう言って、彼女はいつものように額を低くした。
俺が会計を済ませようとしたその時——
チャイムが鳴らずに、ドアが開いた。
風はない。空気だけが、すっと入れ替わる。
白紙紙幣の男が、既に出口に立っていた。こちらを振り向かず、淡々とひと言。
「次は、三段目」
ドアが閉まる。小鈴が、ちりん、と短く震えた。
背中に冷たい汗が流れる。三段目——あの、ラップとアルミの棚。
「……今夜は、終わりです」
常連様は静かにおにぎりを抱え、振り返らないまま店を出た。
残されたのは、細くなった塩の円と、札の手触り。レジには勝手に吐き出された《通行税》のレシート。バックヤードには、開けていない残り二つの朱印の箱。
しばらく、何も起こらなかった。
揚げ物ケースが控えめに湯気を吐き、冷蔵庫がいつもの音を取り戻す。
俺は塩の円をモップで拭き取り、札を封筒に戻し、吐き出された白い紙束を輪ゴムで留めた。手が、まだ微かに震えている。
明け方。新聞配達のバイク音が、遠くでいつもどおりに響いた。
その音に重なるように、レジ下の封筒が内側からふるえ、ひとりでに口を開いた。
中から一枚のカードが滑り出る。黒地に白い紋章。俺のカードに刻まれた紋と、同じ形。
——《監視員代理》の文字の上に、細いスタンプで小さく追加されていた。
《門番候補》
「は?」
声が裏返る。誰が、いつ、押した。
カードの隅に、ごく小さく、見覚えのある活字。
《ミカド流通 本部 境界課》
スマホが震えた。店長からのメッセージが一行だけ。
《朝、八時。本部に来い。三段目の“時間”が、ずれている》
ずれている——昨夜、白紙の男が言った「次は三段目」。
俺はカードを握りしめ、神棚の小鈴を見上げた。鈴は黙っている。代わりに、レジロールの端がひとりでにカットされ、床に落ちた。そこには、たった一語だけが印字されていた。
——《零時》
もう、今日の零時は過ぎている。
店長が言う「三段目の時間」がずれているなら——次に開く零時は、夜じゃないのかもしれない。
東の空は白くなり始めていた。
夜勤の終わりと、次の「零時」の始まりが、同じ線に重なろうとしている。




