第2話「本部の話と昼の顔」
朝七時。早番のパートさんと交代して、俺は制服の上から薄手のジャケットを羽織った。外に出ると、雨上がりの空気は冷たく澄んでいて、夜勤明けの体には少しきつい。けれど眠気はない。むしろ変に頭が冴えている。
——あんなもんを見せられたら、眠れるはずもない。
スマホを確認すると、店長からのメッセージがもう一度表示されていた。
《本部に寄って。話がある》
“話がある”って言い方、余計に不安になるんだよな。
ミカド八号店から歩いて十分ほど、裏通りにひっそりと建つ二階建てのビルが「本部」らしい。俺はこのバイトを始めて半年になるが、行ったことは一度もない。そもそも“本部”って言われても、本社的なイメージなのか、それとも何か別の……。
玄関のガラスには、でかでかと「株式会社ミカド流通」と書かれていた。見た目は普通の小さな会社の事務所だ。緊張しながら入ると、奥の応接室から「おー、蓮くん!」と手を振る声。
「……店長?」
「おう、昨夜はご苦労さん」
小柄で人懐っこい笑顔の店長——佐伯店長は、紙コップのコーヒーを差し出してきた。いつもより目の下のクマが濃い。
「さて。本題だ」
店長の声色が急に真面目になる。
「見たんだろ、“裂け目”」
「……見ました。閉じました」
「ほう。初めてで封じられたなら上等だ」
俺は昨夜のことを簡単に説明した。女の警告、牛乳パックの小鬼、そして棚の裂け目。店長は何度もうなずきながら聞き、最後に深くため息をついた。
「本来ならまだ教える予定はなかったんだが……君はもう向こうに認識された」
「向こう?」
「この街の裏側だ。裂け目はその入り口のひとつ。八号店は境界線上にあるから、ああいう現象が起こる」
言葉を飲み込む俺に、店長は続ける。
「ここ“ミカド流通”は、ただのコンビニ運営会社じゃない。表の顔は小売チェーン、裏の顔は——境界の管理人だ」
「管理人……」
「外側の客が無秩序に出入りしないよう、最低限のルールを整える。それが俺たちの仕事だ。君も昨夜、立派にやった」
「いやいや、俺はただ札を使っただけで……」
「その“だけ”ができる人間は少ないんだ」
店長は机の引き出しから封筒を出し、俺に差し出した。中には薄いカードが一枚。社員証みたいな見た目だが、名前の欄には俺の署名と共に、奇妙な紋様が印字されていた。
「これから蓮くんは、正式に“夜勤監視員”として登録される」
「夜勤監視員……肩書きはダサいですね」
「言うな。俺だって気に入ってない」
俺はカードを受け取り、なんとなく重さを感じた。責任とか、運命とか、そんな大げさなもんじゃない。でも確かに、昨日までの俺とは違う何かが始まってしまったんだろう。
「……で、給料は上がります?」
「安心しろ、夜勤手当+裏対応手当だ」
「裏対応手当!?」
「人間相手より骨が折れるだろ。危険手当みたいなもんだ」
思わず笑ってしまった。こういう妙に生活感ある制度が、この仕事を現実に引き戻してくれる。
説明を受け終え、事務所を出たのは昼近くだった。陽射しがまぶしい。普段なら夜勤明けはまっすぐ寝るのに、今日は眠気がぜんぜん来ない。仕方なく、近所の定食屋に入る。
「いらっしゃい!」
威勢のいい声。焼き魚定食を頼んで、ぼーっと出てくるのを待つ。店内のテレビからは昼のワイドショーが流れていた。
——昨夜、近隣の公園で「正体不明の影」が出たとSNSで話題に、というニュース。
スマホで見たら“妖怪か?”なんて書かれている。俺は思わず苦笑する。
「本当に妖怪かもしれないんですけどね……」
つぶやくと、隣の席のサラリーマンが怪訝そうにこっちを見た。慌てて口を閉じる。
焼き魚定食は旨かった。腹が満ちると急に睡魔が押し寄せ、ふらふらしながら家に帰る。布団に潜り込み、意識が沈んでいく。
夢の中で、小鈴の音がちりんと鳴った気がした。
夕方。スマホの通知で目を覚ます。店長からの新しいメッセージだ。
《今夜は“常連さん”が来る。失礼のないように》
常連? 外側の客に“常連”なんて概念があるのか。恐る恐る本文を開くと、追伸があった。
《くれぐれも、塩を切らすな》
塩……。昨日の女のことを思い出す。もし彼女が常連だとしたら、今夜はきっとまた何かが起こる。
俺は布団の中で大きく息を吐いた。夜は、すぐそこだ。




