第10話「門の名をもらう夜」
零時の五分前。
神棚の小鈴が、今夜はやけに重たく見えた。冷蔵庫の唸りは低く、蛍光灯の光は薄い膜を一枚かぶったみたいに鈍い。
「蓮」
自動ドアが開き、店長が入ってきた。長い木箱は持っていない。手ぶらだ。
「親符は本部に戻した。今夜は——お前が前だ」
「了解です」
喉は乾いていたが、声は震えなかった。レジ下には札、砂時計、そして銀にきらめく結界塩。胸ポケットには《門番候補》のカード。
店長は笑ってみせる。
「忘れるな。覗くな、触れるな、押さえろ。それから」
「順番を守らせる、ですよね」
「そうだ」
ドアがもう一度開き、黒髪の女——常連様が入ってくる。今夜は塩おにぎりを持たず、空の手で会釈だけ。
「見届けに来ました」
零時。
小鈴が、ひときわ澄んだ音を鳴らした。
三段目の棚が、音もなく沈んだ。ラップとアルミが影に溶け、奥へ奥へと引かれていく。穴はこれまででいちばん大きい。背面のパネルごと無くなり、向こう側の風が流れ込む。冷たくも熱くもない、どこにもない温度。
俺は瓶の栓を抜き、レジ前に円を引く。普段より広く、薄く、丁寧に。銀の粒が光を拾い、円が閉じた瞬間、店内の空気がひとつに結ばれた。
穴の底から、白い指が一本、また一本。手首の先に、口の形をした影がいくつも笑う。
砂時計を反転。札を一枚、両手で構える。
「いらっしゃいませ。順番にご案内します」
返事の代わりに、自動ドアが鳴らずに開いた。
深く帽子をかぶったスーツの男が、音のない足取りで入ってくる。白紙の札が指の間でひらついた。
「通行」
「順番を——」
「今夜は“口”が足りない」
背筋が冷える。穴の奥で、笑い声が層になって重なった。
白紙の男は塩の円の縁まで進み、帽子の影の奥で俺を見た(ように感じた)。
「門番候補。選べ。開けて通すか、閉じて残すか」
選べ、だと。
俺は円の外に片膝をつき、札の先端を塩の線にそっと重ねる。視界の端で、店長が一歩引き、常連様が静かに頷いた。
俺の仕事は、誰かの代わりに世界を決めることじゃない。
俺の仕事は、店のルールを整えることだ。
「——ここはコンビニです」
自分の声が、はっきりと出た。
「会計はレジを通して、並んでお待ちください。通せる“口”は、今夜はひとつ。品切れなら取り寄せ。横入りは返金です」
白紙の男の指が止まる。
穴の奥でくつくつと笑いが波打ったが、白紙の札は宙でぴたりと静まった。
「規約の提示、確認」
男が白紙をひらりと円の縁へ落とす。銀の粒が火花を散らし、紙は燃えずに印字された。黒いインクが滲むようにあらわれる。
《臨時通行規約:本夜の口数=一。順番遵守。違反時は通行税加算・返品扱い》
レジが勝手に鳴り、通らないはずの契約書がバーコードに変わる。
俺はレジ銃を取り、紙面に向ける。ピッ。
店長が小さく笑った。常連様が目を伏せる。
「契約は通りました。では——一件、処理します」
穴の底から、最も近しい“手”がゆっくり伸びる。形は曖昧、けれど確かに並んでいる。
札を押し、砂が落ちる。塩の円が薄く光り、通すための細い筒が開く。
影はそこだけを通り、唇のような縁でひとつ、ふたつ、何かを置いていく。音のない音。
レジが鳴る。ピッ、ピッ。
吐き出されたレシートには《通行税 支払い済》の文字。円の内側には、古い銅銭が二枚転がった。
「次の方」
俺が言うと、穴の奥の笑いが渋々と列を整える。白紙の男は動かない。見ている。
砂が尽きる直前、俺は札を引き、塩の火花で筒を閉じた。
「本夜分の口は以上です。残りは予約、明夜以降のご案内になります」
穴の縁がざわつき、いくつもあった笑い口が一斉に不満を漏らした。
その喧噪を、店内放送が上書きする。
——いらっしゃいませ、ミカド八号店です。本日もご来店ありがとうございます。安全のため足元にご注意ください。順番にご案内いたします——
非常用の簡易マイクを握る店長が、平然とした声で読み上げていた。
白紙の男が、帽子の庇をわずかに上げる。
「運用、妥当」
穴が呼吸をやめる。
俺は最後の一枚の札を塩の北へ添え、息を整えて押した。
砂時計の最後の粒が落ちる。
——閉じた。
ラップとアルミが、何事もなかったように棚に戻っている。塩の円だけが、夜の真ん中に残った。
店内の音が一斉に帰ってきた。揚げ物ケースが控えめに唸り、冷蔵庫がいつもの低音を保つ。
白紙の男はレジに近づき、コートの内ポケットから小さな銀のスタンプを取り出す。
俺の胸ポケットからカードが自動で滑り出し、カウンターに伏せられた。
男はスタンプを軽く押す。金属の冷たい音。
《門番》
活字が、はっきりと刻まれた。
白紙の男はコインを一枚、カードの上に置き、短く告げる。
「認定。——また、夜に」
チャイムは鳴らず、彼はドアの線に溶けた。
常連様が、ふっと微笑む。
「おめでとうございます。順番を守らせる“門”が、ここに立ちました」
店長が肩を叩く。
「昇格だ、蓮。明日から給料の欄がややこしくなるぞ」
「そこ大事です」
笑うと、膝の震えがやっと抜けた。
塩の円をモップで拭き取り、札を封筒に戻し、銅銭をレジ横の小皿に置く。
小鈴が、最後に短く鳴った。合図というより、挨拶のように。
夜明け前。
外はわずかに白み始め、新聞配達のバイク音が遠くを走る。
店長は「本部に顔を出してくる」と言い、常連様は静かに会釈して出ていった。
カウンターに一人残る。
胸ポケットのカードは、もう熱くない。代わりに、指先に薄く残った塩の感触が確かな現実だ。
「——いらっしゃいませー」
誰もいない店で声を出す。
これは練習じゃない。宣言だ。ここは“門”で、俺は“番”だ。
昼にも夜にも、表にも裏にも、客は来る。俺は順番を守らせ、必要なら通し、必要なら閉じる。
東の窓がもう少しだけ明るくなったそのとき、レジロールがひとりでに切れて、床に落ちた。
拾い上げると、そこには一語だけ印字されている。
——《またどうぞ》
俺は笑って、ロール紙を丸め、レジに戻した。
今日もレジを打つ。
そしていつか、別の門が開いたら、そのときは——。




