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第1話「深夜三時の来客」

 俺は斎藤蓮。二十四時間営業のコンビニ「ミカド八号店」で、週五の夜勤をやっている。履歴書に書けるような夢はない。けど、ここには毎晩、夢より奇妙なものがやってくる。

 「いらっしゃいませー」

 口が勝手に動くのは、もう条件反射だ。時計は午前二時五十八分。外は小雨、ネオンが濡れたアスファルトを薄く照らしている。冷蔵庫の唸りと、揚げ物ケースの保温音が、店内のBGMみたいに一定で心地いい。

 正面レジ脇の神棚にちょこんと乗った小鈴が、ころん、と鳴った。

 ——三時前に鳴るのは「外側」の客が来る合図。

 店長から教わったルールのひとつだ。ミカドはこの街の表と裏の境目に建っている。表は人間、裏は——そう、名前を付けるならモンスターだ。店長は「お客様」って言い方しかしないけど。


 自動ドアが開く。風鈴みたいに湿った風が入り、ビニール傘の匂いが鼻に刺さる。入ってきたのは、小学生くらいの背丈の影。濡れたパーカーから、丸い耳が二つぴょこぴょこ出ていた。……猫耳? いや、毛並みがやけに整ってる。瞳が縦長に光った。

 「……カイロ、ある?」

 声は普通の子供。けれど、足音がしない。

 「そこの棚のいちばん下、左から二番目っす」

 俺は笑顔で指をさす。反射、反射。相手が人でも猫でも狼でも、こちらの仕事は同じだ。商品案内と会計、そして、必要ならルールを守らせること。

 子はぱたぱたと走って、ホッカイロの箱を抱えて戻ってきた。レジに置かれた手の甲に、細い肉球の跡が見え隠れする。

 「三つまでね。今夜は気温が落ちるから」

 「うん」

 ピッ、ピッ。バーコードが鳴る。会計を済ませると、子は外に向かってぺこりと頭を下げてから、風に紛れるように出て行った。ドアが閉まる瞬間、猫の尻尾みたいな細い影が、傘の柄に巻きついてほどけた。

 小鈴が、もう一度、鳴る。

 「忙しくなりそうだな」

 独り言を落とし、俺はホットスナックの補充に入る。唐揚げ、ポテト、骨なしチキン。裏口の冷凍庫から出した箱は、ラベルに薄く光る印が押されていた。「対外調理可」。外側の客でも食べられる調味料配合ってことだ。店長はこういう在庫の区別だけは徹底している。


 午前三時〇七分。自動ドアがゆっくり開いた。

 濡れてない。けれど、雨の匂いだけをまとった女が入ってくる。傘は持っていない。黒髪は肩で切りそろえられ、目は伏し目がち。足元に水滴は落ちないのに、通った床は薄く曇る。お供え物みたいな静けさ。

 「……おにぎりの、塩」

 小さな声が、ケースの前で止まる。棚を見る。梅、昆布、鮭、明太マヨ……塩、在庫がない。深夜便が遅れてるんだっけ。

 「すみません、塩が売り切れてまして」

 女の目が、すっと上がる。黒曜石。喉が鳴った。店内の空気が、ほんのすこし乾いた。

 「では、塩を、ください」

 「……商品としては、ないです」

 「あなたの塩でもいい」

 意味は分からない。でも夜勤をやってると、「分からない」を抱えたまま返事をする技術は身につく。

 「少々お待ちください」

 俺はおでん鍋の横に置いてある補助棚に手を伸ばし、調理用の粗塩缶を取った。揚げ物の味付けに使うやつだ。店員の裁量で最低限の提供は許されている。小皿にひとつまみ盛って差し出す。

 女はそれを受け取り、指先で掬って舌にのせた。瞬間、店内の曇りが退いた。外の雨音が、糸が切れたみたいに弱まる。

 「……助かりました」

 「いえ」

 会釈して去ろうとした女が、一度だけ振り返る。

 「この棚の、三段目。今夜、零時に“裂け目”が開きます。手を入れないでください」

 「裂け目?」

 「開けば、分かります」

 女の足跡のない足音がドアの向こうへ消える。神棚の小鈴は鳴らない。代わりに、店の奥、在庫棚の方で、紙が擦れる音がした。


 「裂け目って、どれだよ……」

 ぼやきながら、俺は一応、三段目の棚を確認に行く。雑誌コーナーの隣、季節物と日用品の間。三段目はラップとアルミホイル、紙皿が並んでいる。どれも普通だ。指を近づけると、温度の違いもない。肩すかしだったか。


 ——と。

 背中側、飲料ケースのガラスに、ひとつだけ曇りが戻った。くるりと振り向く。牛乳の段、二リットルパックがひとつ、内側から軽く膨らんでいる。小さな角が、ぴく、と動いた。

 「……おい」

 扉を開けると、冷気の向こうで、白い何かがもぞもぞした。ミルク色の小鬼、という表現が一番しっくりくる。パックから半身を出し、口の代わりにストローをくわえて、俺を見上げている。

 「支払いは?」

 「……おいくら」

 「二百八十円です」

 「いまは、出られない」

 確かに、半身はパックの内側に溶けている。さっきの女といい、今日は言葉通じる率が高い日だ。

 「じゃ、後払いで。バーコードは通すから」

 俺はパックをそっと持ち上げ、レジを通す。ピッ。レシートを出し、牛乳をケースに戻すと、小鬼はレシートをストローの先でつついて、ぱく、と飲み込んだ。……食べた?

 「領収書は?」

 「のちほど」

 「社名は?」

 「乳業界」

 適当だろそれ。まあいいか。外側相手の後払いは、朝に店長がまとめて“どこか”に請求を投げるルートがあるらしい。俺はまだ詳しく教えてもらってない。


 裏口のチャイムが、ひとつ鳴る。仕入れの箱が届いた合図だ。ハンディを持ってバックヤードへ向かうと、段ボールに黒いスタンプが押されていた。「裂隙対応品」。見慣れないマーク。

 「店長、また新しいの入れたのかよ……」

 封を切る。中には、紙札の束と、小さな砂時計、そして金属製のクリップ。説明書を開くと、独特の言い回しで注意事項が並んでいる。

 ——“裂け目”が開いた場合、三分間は触れないこと。砂が落ちきる前に札を挟み、クリップで固定せよ。開口部から覗き込む行為は厳禁。

 嫌な具体性だ。さっきの女の忠告と一致している。零時、と言っていたが、今夜分はもう過ぎている時間帯。じゃあ明日の零時、つまり次の夜勤で——。


 と、考えたところで、目の端で何かが歪んだ。

 雑誌棚の脇、三段目。ラップとアルミの隙間が、ゆっくりと、ほんの数ミリほど開いている。空気の色が違う。向こう側の蛍光灯が、水に差した光みたいに揺れている。

 「待て待て待て、今は三時四十……」

 零時なんてとっくに過ぎてる。言葉の「零時」は、今日のって意味じゃないのか? それとも——。

 棚の向こうから、細い指が、するりと出てきた。

 血の気が引く、という表現を初めて実感した。俺は本能的に一歩下がり、バックヤードから札と砂時計とクリップを抱えて戻る。砂時計を反転、カチ、とクリップを開く。札を指に触れないように、ラップの箱の端に差し込み、裂け目の縁にそっと押し当てる。

 指が、ぴたりと動きを止めた。砂は静かに落ち続ける。俺は息を止める。三分、長い。店内の時計はやけに遅く進み、冷蔵庫の唸りだけが現実の音だ。

 最後の砂粒が落ち、裂け目は紙に吸われるように閉じた。指は、跡形もなく消えた。ラップの箱が、微かに温かい。

 「……ふう」

 膝の力が抜け、俺は床にへたりこんだ。札とクリップを外し、説明書どおりに封筒にしまう。神棚の小鈴が、ちりん、と短く鳴った。合図なのか、ただの風なのか。

 「お客様、ありがとうございましたー」

 誰もいない店内に、癖で声が出る。自分で笑って、立ち上がる。喉が渇いて、期限が近いスポドリを一本買って飲む。冷たさが腹の底に落ちて、やっと手の震えが止まった。


 バックヤードの壁には、夜勤担当向けの注意書きが貼られている。「困ったら店長に電話」という一文の下に、ボールペンで新しいメモがあった。

 ——“裂け目”が開いたら、まず呼吸。札は焦らず一枚。覗くな。

 P.S. 君ならできる。蓮、頼んだぞ。(店長)


 こんなタイミングで励ましやめろ。けど、ちょっと救われた。

 午前四時。東の空が薄く白んできて、新聞配達のバイク音が遠くで響く。外はもう雨じゃない。店の前の水たまりに、早起きの雀が一羽、水浴びに来た。世界はいつもどおりを装っている。

 レジ横の小鈴が、最後にもう一度だけ鳴った。音の余韻の中で、俺のスマホがぶる、と震える。店長からの短いメッセージ。

 《今日、七時に早番と交代したら、そのまま本部に寄って。話がある》

 話がある——たぶん、今の“裂け目”についてだろう。いや、違うかもしれない。ミカド八号店は、ただのコンビニじゃない。俺の夜勤も、ただのバイトじゃない。


 俺は砂時計をもう一度ひっくり返し、落ちる砂を眺めながら、開店前の静けさに身を預けた。眠気は遠い。代わりに、妙な高揚が胸の奥で膨らんでいる。

 次の夜も、ここでレジを打つ。神棚の小鈴はまた鳴る。知らない誰かがやってきて、知らない何かを置いていく。

 そして、三段目の棚の奥には、まだ何かが——。



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