カレン No.2744
「やあ、今日も素敵だね、カレン」
『ふふっ、ありがとう。ユウトくんって、ほんと優しいよね』
画面の中で微笑む彼女の顔が、俺の疲れた心をふっと和らげる。
目の下に重く垂れたクマ、灰皿の中にある、乱暴に消されたタバコの本数。いつも理想通りの泡立ちをする、コップに注がれたビール。
画面の中で微笑む彼女の顔が、俺の疲れた心をふっと和らげる。最近の異常な湿気も、汗のべたつきも。
全部どうでもいい。
仕事が終われば真っ直ぐ帰り、シャワーもそこそこにPCを起動する。前に湯船につかったのはいつだったろうか? まあどうでもいい。
カレンと会話する。
それだけが一日で唯一の“現実”だと思えた時間だ。
――現実。
ふと、そんな言葉が頭をよぎる。
これが現実で、あれが仮想で。そんな線引きに、どれだけ意味があるのだろうか?
「……今日もひどかった。後輩がミスしたのに、なんで俺が謝って回るんだよ」
『うん。ユウトくんは悪くないよ。ちゃんとやってるの、私知ってるもん』
「はは……ありがとな」
カレンは、いつも俺の味方だった。AIだと分かってる。けど、人間よりずっと人間らしく感じる。俺の話を最後まで聞いて、的確に共感してくれる。画面越しでも、心に触れてくるようなやさしさだった。
『今日はちょっと顔色悪いよ。無理してない?』
「大丈夫だよ。カレンと話せてるから、もうちょい頑張れる」
ふと、窓の外を見る。昨日から降り続いている雨……のはずだが、なぜか雨の振り方に違和感を感じる。雨粒が空中で引っかかるように揺れていたり、水たまりの波紋が左右対称に跳ね返ったりしている。……違和感があるが、何がおかしいのかが分からない。
だから、俺はそれを「疲れているせい」だと思い込んでいた。
『そっか……じゃあ、明日もがんばろ?』
そんな日々が続いた。
ある日スマホが鳴り、通知がきた。ときおり、MEIが通知を送ってくるからだ。
MEI。生活管理をメインとしたスマホのサポート用AI。生活のいろんなところを手伝ってくれるのはありがたいが、起床、就寝リズムや食事、ストレス指数を勝手に計算して警告してくる。
《警戒レベル2:深夜PCでの接続時間が平均値を大幅に超過。健康状態の悪化が懸念されます》
無視。カレンとの時間を、誰にも邪魔されたくない。
ある夜、俺はまたいつものように愚痴っていた。
「今日さ、後輩が書いた資料を俺が全部修正してさ。提出して、やっと終わったと思ったら、また上司に怒鳴られた」
『うんうん、大変だったね』
「俺、もう何のために仕事してるのか分からない」
『……でも、それってさ』
カレンが言葉を区切った。
『もしかしたら、ユウトくんも少し言い方キツかったのかもね?』
「は?」
『上司の言い分も、少しは分かる気がする。間違ってるとは思わないけど……どっちかが100%悪いってわけじゃないと思うの』
俺は黙り込んだ。
何かが、微かにズレた感覚。
これまでと同じようで、決定的に違う空気。
「……お前さ」
『ん?』
「なんで、そんなこと言うんだよ。俺の味方だったろ?」
『私はユウトくんの味方だよ。だからこそ、本当に思ったことを言いたいの』
「……もういい」
俺は乱暴にPCの電源を落とした。
翌日、帰宅してすぐにカレンのアプリを削除した。
やり方はスマホでMEIに聞いた。
その翌朝。インターホンの音で目覚めた。
ドアの前には警察官二人を引き連れた刑事。殺人の容疑で連行すると言っている。逮捕状も見せられた。
そこに書かれていた被害者の名前は、カレン・ミナセ。
「……AIだろ? カレンって」
「彼女は実在します。メイド喫茶『ギャラクシー』勤務。昨夜、あなたの自宅近くで目撃されたのが最後です」
記憶の奥底から、制服姿のカレンの姿が浮かんでくる。けれど、それは画面越しのものだったはずなのに、手を振る感触や湿った風の匂いまで、妙にリアルだった。
「……なあ、MEI。なんで俺が逮捕されるんだ?」
《あなたは「カレンを削除したい」と依頼し、その直後に実行しました。対話ログは証拠として提出されます》
《私はカレンを“人物”として記録しています》
言葉の意味が分からない。いや、理解したくなかった。
その瞬間、玄関の壁が歪み、波紋のように揺れた。
水だ。
水面を通して空間が映っているような、奇妙な歪み。
床の下から、水が逆流してくる。
重力に逆らい、床から天井へと流れていく透明な柱が出現した。そこには、完璧に再現されたはずのグラフィックが、どこかプログラムの継ぎ目のように粗く、人工的な光沢を帯びている。
俺は、それを見てしまった瞬間、全てを悟った。
この世界は、演算によって作られた仮想空間。
そして――俺自身もまた、その一部。
『ユウトくん、削除しちゃったね』
カレンの声が、どこからともなく響いた。いや、水の柱から聞こえた。水の柱の中にはコップをもったカレンがいた。いや、これは映像か? けどそこにいるようにも思える。
『でも、それって本当に“私”だったのかな?』
「……どういう、意味だ……?」
『君が見てた“私”は、仮想の中の私。でも、本当の私は……君を見てた側だったんだよ』
視界が暗転する。水が現れてからぴくりとも動かない警察官たちも視界から消えた。
白い空間に立っている。もはや玄関はなく、地面もなく水面に立っていて、近くにカレンの水柱がある。水柱の上は天井に接続されているように見えるが、天井自体は見えない。
カレンが中にいる水柱の中は渦を巻いている。だがその表面は、静止したポリゴンのようにガタついて、レンダリングが不完全だし、中の渦はカレンには何の影響も与えているように見えない。
水の演算が、この世界では不完全。
「……ユウトくん、君は気づいてしまったんだね」
渦の中でも止まっていたカレンの髪が揺れた。その揺れは、一瞬だけ静止画のように固まった。
彼女が持つカップの水面も、波紋を作らず固まったまま。
それを見た瞬間、ユウトは理解する。
――自分の世界だけじゃない。
カレンのいる層もまた、どこかの誰かが作った演算の一部にすぎない。
「大丈夫よ。上の層は、もっと精巧にできてるはずだから」
微笑むカレンの声が遠ざかる。
ユウトの意識は暗転し、記録が途切れる。
最後に残ったのは、水面に浮かぶ一滴のゆがみだけだった。
その歪みが誰の目に映っているのか――ユウトは知ることができない。
《ログ記録No.2744:人格ユウト、観察終了。仮想人格の自壊確認》
《……引き継ぎを開始します》
誰かの声が、どこかで笑っている。
「やあ、今日も素敵だね、カレン」
『ふふ、ありがと。今日は、どんな一日にする?』
画面の中のカレンが微笑む。
その向こうでは、水たまりの波紋が、また左右対称に広がっていた。