第1話:初めてのまかない ~貧しき食卓の、心温まる救済~(第一部)
「……は? 異世界?」
耕介の声が、湿った土と草の匂いが満ちる森に響いた。視界の端に、撮影スタジオの最新型オーブンレンジの煌めきが、まだ残像のようにちらつく。ついさっきまで、完璧なキッシュの焼き加減に集中していたはずだ。それが、今、彼は見覚えのない巨大な樹々の根元に横たわっている。
「いやいや、まさか。夢か? ドッキリか?『突然異世界に転移したおっさん、料理で無双!』なんて、安っぽい企画、冗談だろ?」
自分の頬をぺちんと叩く。じんわりと痛みが広がる。夢じゃない。ドッキリにしては、あまりにも現実がすぎる。携帯電話を取り出すが、画面には「圏外」の文字が虚しく光るだけだった。
「くそっ、腹減ったな……」
極限状態にもかかわらず、まず思考が食に向かうのは、もはや職業病だ。だが、この森で、一体何が食べられる? 彼の知識は食材の調理法に特化しており、毒草や食べられる木の根の見分け方など、サバイバル術は皆無だ。
立ち上がろうと足に力を入れたその時、「きゅぅ……」と、か細い鳴き声が聞こえた。見れば、足元にモモンガのような小動物が転がっている。フワフワの茶色い毛並みに、黒曜石のように大きな瞳が、不安げに耕介を見上げていた。
「お前……どこから来たんだ? 怪我でもしてるのか?」
耕介が問いかけると、小動物は彼の指先に鼻先を寄せ、くんくんと匂いを嗅ぎ始めた。その嗅覚が、耕介のポケットの中の非常食、干し肉に反応しているのが見て取れる。
「これか? 食べるか?」
耕介が干し肉を差し出す。小動物は恐る恐る近寄り、小さく一口かじる。
「きゅぅうううぅううぅううううっ!!!」
小動物は全身を震わせ、幸福に打ち震えるような絶叫を上げた。その小さな体は、たちまち至福の表情で目を閉じ、そのまま耕介の指にしがみつく。そして、なんとその体から、**ほんのりと、しかし確かに金色の光が放たれ始めた**。光はすぐに収まったが、小動物は耕介の指にぴったりとくっついたままだ。
「なんだ、お前……。そんなに美味かったのか? まさか、この干し肉に魔法でもかかっていたのか? いや、それとも、お前が……」
耕介は呆然としたまま、この小さな生き物の尋常ではない反応に興味が湧いた。光を放つ。それは、ただの野生動物ではない。
「よし、お前。俺と一緒に来るか? 名前は……そうだな、さっきから『もぐもぐ』って鳴いてるし、干し肉も勢いよく『もぐもぐ』食ったから……**モグモグ**でいいか?」
「きゅっ!」
モグモグは元気よく鳴き、耕介の腕を伝って肩へとよじ登った。その温かさと、手のひらに収まるほどの小ささに、耕介の心が少しだけ和らいだ。孤独な異世界で、初めての「仲間」ができた。
耕介とモグモグの、異世界での漂流生活が始まった。モグモグの鋭い味覚探知能力は、この未知の森で、耕介にとってかけがえのない道標となった。
「モグモグ、これ、食べられるか?」
耕介が泥だらけの根菜を差し出す。モグモグはくんくんと匂いを嗅ぎ、首を振った。「きゅー」と不満げな声。どうやら食用には向かないらしい。
「よし、じゃあこっちはどうだ?」
次に差し出した、真っ赤な実には、「きゅるるる!」と興奮した声で飛びついた。
「なるほど、お前は味覚が鋭いのか……。助かるな、これは」
モグモグの助けを借りながら、耕介は少しずつ安全な食材を見分けられるようになっていった。だが、火を起こす術も、調理器具もない。生の果物や根菜ばかりの食事に、元フードコーディネーターの魂は悲鳴を上げていた。
「ああ、鍋一つあれば……フライパン一つあれば……。せめて、塩でもあれば、もっと美味しくなるんだが……」
そんな生活が、一体どれほど続いたのだろう。数日か、あるいは一週間か。空腹と疲労が限界に達し、耕介とモグモグが森の奥で力尽きかけていた時だった。
遠くから、微かに煙が立ち上っているのが見えた。かすかに、人の声も聞こえる。
「モグモグ! 行くぞ!」
耕介は最後の力を振り絞り、煙の立つ方へと歩き出した。モグモグも肩の上で「きゅきゅー!」と励ますように鳴いている。
茂みを抜けた先に広がっていたのは、小さな集落だった。そして、その集落の外れに、温かい光を放つ一軒の建物が見えた。木製の看板には、拙い文字で「**木漏れ日の食卓亭**」と書かれている。
耕介は、その看板を見た瞬間、なぜか涙が溢れそうになった。この異世界で、まさかこんなにも、温かい「食」の匂いを、人の温もりを求めることになるとは思わなかった。
「す、すみません……!」
耕介がガラガラと宿屋の扉を開けると、中から温かい煮込み料理の香りが漂ってきた。食堂には数人の客がいて、皆がそれぞれ質素な煮込み料理を食べている。だが、その顔には、満ち足りた笑顔ではなく、どこか諦めや疲労の色が浮かんでいるのが見て取れた。
奥から出てきたのは、まだ10代半ばくらいの、黒髪の少女だった。
「はい、いらっしゃいませ……って、旅のお方ですか? 随分と、お疲れのようですが……」
少女は、耕介の泥だらけの姿と、肩の上のモグモグに、少し驚いたように目を丸くした。
「ええ、少し、道に迷ってしまいまして……。もしよろしければ、一晩、泊めていただけませんか? そして、何か、温かいものを……」
耕介が頭を下げると、宿屋の女将らしき女性が厨房の奥から顔を出した。彼女はがっしりとした体格で、腕を組み、鋭い視線で耕介を品定めしている。
「お母さん、この人、すごく疲れてるみたい。お腹も空いてるって言ってるよ?」
少女が心配そうに言う。
「……フン。まあ、いいだろう。ただし、タダ飯は食わせられんぞ。何か働いてもらうことになるが、いいか?」
女将の**ベアトリス**は、見た目は少々恐いが、その目はどこか情があった。飢えに苦しむ者を追い返すほど、冷酷ではなかったのだ。耕介は、その言葉に安堵し、深く頭を下げた。
「はい、喜んで! 私、料理なら、少しばかり心得がありますので!」
耕介の言葉に、ベアトリスは鼻で笑った。この宿屋で出せる料理など、たかが知れている。彼の言う「心得」が、この異世界でどれほど通用するのか、彼女には想像もつかなかった。
こうして、日向耕介とモグモグの、異世界での新たな日々が始まったのだった。