リンカーン
──旧シアトル。それはここ十年で呼び習わす通称だ。
現在の名は「リンカーン」。土地として、ほとんど縁も所縁も無いけれど、それは解放者の謂いであるからして。
ひとつの、決意の現れ。この狂ってしまった世界に於ける、人々の現況と反抗を端的に示している、一種の標語のようなもの。
らしい。
「──で、僕らはこれからそんな街を落とすわけだけど……行ける? トシさん?」
「…………」
無造作に生い茂る藪林が在る。辺りは暗く、夜であり、虫の鳴く声も風雅に響く。遠くには、厳重な壁と警戒で守られた大きな都市。
それを見つめる、自然体で佇む人影が二つ。その後ろに、明滅する電光の塊が一つ。
発電機と、幾つかのブラウン管テレビとが乱雑に括られたガラクタが放つ明かりに、人影たちは照らされる。一人は巨躯を誇る金の長髪。
和装、羽織袴の上からでも分かる、筋骨の整った体躯。体格は女性のそれで、顔に付けるは鬼を模した般若面。
他方、残りの人影──小柄な少年がコロコロと笑う。白髪の猫毛、丸縁の鼻眼鏡、同じ羽織袴で風を切り。
「あはは、いや全く。京の都から随分遠くに来たものだねぇ。どこもかしこも奇妙奇天烈で愉快に過ぎる。この「てれび」っていうのもそうだし、向こうに見える摩天楼もそう。お陰で咳も引っ込んだや」
「…………良いのか、具合は」
「ばっちり。というか、良すぎる良すぎるなぁ。トシさんだってそうじゃない? 鬼子としての躯体は万事順調?」
「癪だが、な…………問題は、ないな」
「まるで無いねぇ。いまの僕らなら、きっと二人だけでも落とせるでしょ。京都守護職が聞いて呆れるのは確かだけど」
あははは、と。けたけた、楽しげに笑う少年はしかし、ぎらりと瞳を輝かせ。
木々の合間から見える、眩い尖塔を見据える。そこはかつてのシアトルよりも規模は小さく、グール対策の為に厳重な武装都市と成り果てて、いまや街のシンボルだった巨大な尖塔を中心とした部分しか、シアトルと呼ばれないらしい。
そう聞いている。情報なんて、それだけで十分。
「…………刻限だ」
巨躯の彼女は言う。荘厳さすら感じる声音に、少年はかつてを思い出して背筋を正す。
「うん、そうだね。行こうトシさん。早く皆も呼んで呼んであげないと可哀想だ」
気楽に返して、腰に差した得物をそっと確かめる。指に馴染んだ拵えに、少年は笑みを深くする。
──そして歩き出す。軽妙で軽快に、隣町にでも遊びに行くような涼やかさで。
その数時間ほど後の事実。旧シアトルに渦巻く惨劇を、たった二人で引き起こすなど、毛先ほども感じさせずに。
少年はふと、気付いたように首だけ振り返る。後ろには未だ明滅するブラウン管。
それへ向かって手を振る。親しげな様子で、大きく弧を描いて。
「それじゃ、行ってくるよ「局長」! 吉報楽しみにしててね~~」
夜風に羽織が翻る。撫でるような風が、はたはたと二人の装束を揺すった。
袴、雪駄、洒脱な和装。羽織は派手な浅葱色の、ダンダラ模様。
背中に背負うは、「誠」が一文字。
これは栄次郎が目覚める、数週間前の出来事である。