襲撃②
ある程度の距離が出来て、現在地は森の中。今は打ち捨てられた小さい森林公園、その駐車場。
グールの追加は、今のところ無い様子。レイチェルは警戒を怠らないまま、エージの手当てを続ける。
「……ぅ、ぁ」
「我慢して。もう少しだから」
有り合わせの布切れ、なけなしの抗生物質、止血帯もひとり分と無い。けれど、それでどうにか間に合わせる。
血塗れで横たわる身体。生き地獄に等しい苦痛を味わっている筈なのに、エージは身じろぎもしない。
静かに、堪えたように呻くだけ。それで処置はすこぶるしやすいけれど、にわかには信じがたい。
「キミ、良く生きてるね……羨ましいほど頑丈だ」
「…………っ」
「──ごめんなさい、不謹慎だった。辛いよね? でも、頑張って」
頑張って、と。それしか言えない。結局のところ、これは自分のわがままの報いなのだろうから。
復讐と、嘯いたところで何も出来ない。他人の人生を巻き込むばかりで。
「……ごめんね。わたしの子供の、復讐に巻き込んで」
謝るつもりは無かった。実際、町の住人の何人かはこの男に殺されている。
でも、その記憶が無いのなら。意識もない記憶も無いでは、例え同一人物でも、それを責め尽くすことを出来はしない。
──ひと通りの手当てを終えて、レイチェルは再びトラックの運転席に座る。エンジンは点けたまま、当然だ。
車内は手術室の様相で、シートには拭った血の痕が沢山。包帯や布切れがそこらに散らばるし、いやが応にも血が臭う。グールは来なくても別の動物が寄ってきそうだ。
いやに感じる不安を払うように、レイチェルはトラックを出発させた。ちらりと見遣る時間は午後5時と15分。定刻通り、昼過ぎに出発していたとして、目的地までの道中で夜営をするはず。
夜のグールは凶悪極まる。しかも街の住民は多くが老人か子供、戦える人間がある程度の数がいても不安要素は多い。
早めに休息へ入る筈だ。寝ずの番を立てて、周囲警戒を怠らない、教えた通りに。
それが裏目に出てしまう。今夜のグールは明らかに違うのだから。昼日中に、活動的に襲い来る個体が、住民の離れた街に現れるような状況なのだから。
更なる目的を果たそうと躍起になるのは、想像に難くない。夜通しの強行軍を押しても、皆を安全な所へ逃がさないと。レイチェルは冷静に考え、トラックのスピードを上げる。
冷静に、自分が焦っていると分かった上で。生まれた街、育った街、大切な家族の思い出が眠る街。もちろん、其処で共に暮らした住民達も、何より大切だ。
「奪わせない、これ以上は絶対……!」
陽が傾き、夜がすぐそこへ迫る。がたがたの畦道を抜け出て、整備の行き届いていないアスファルトの路面に、トラックは転がり出た。
もう数キロ先、そこまで進めば打ち捨てられたモーテルがあった筈だ。安普請の代物だけれど、休息するには持ってこい。そこを過ぎれば次の休息地は山を二つ越えた辺りの駐車場になるだろう。設営の時間を考えれば、今夜はこのモーテルしかない。
アクセルを踏みしめ、所々ひび割れた路面を駆けた。畦道より振動はましになったけれど、それでも悪路だ。
──助手席の彼は良く頑張っている。雑な処置しかしていない傷から、じんわりと血が滲んでいる。
ひどい激痛だろうに。冷や汗をかくばかりで、呻き声も上げない。
上げられないのかもしれないが。
「がんばって……もう少しだから……!」
励ましの言葉もそこそこに、トラックのエンジンは唸る。曲がりくねった山道を抜け、麓から下るに従い道は緩やかになっていく。森の密度は低くなり見通しも良くなってきた。
もう少し、もう少し。その言葉は自分に掛けているようだった。レイチェルは深刻な眼差しで、森の切れ間を見つめている。
その視界を、トラックと似た速度で駆け抜ける影。森を駆け抜ける、肌色をした何か。こちらには、目もくれず。
「……やめてよ」
森を抜けた。ここから先はしばらく平野だ。
大きくは無いモーテルまで良く見える。そんな位置。
実際、その様子は良く見えた。
「やめてよ……!」
空には星がちらつきだした。山間に位置する現在地は、夜の訪れは必然、早い。
だから、良く見えた。こじんまりとしたモーテル、部屋数も数える程度の小さい建築。
その、黒煙を吐いて燃え落ちる姿。
「う、あぁ、あ!!」
悲惨な表情で、レイチェルのトラックは最高速度を叩き出す。後ろからグールの群れが迫っていて、それらの全てがまっすぐ現場へ向かっている。あの火災に向け、あの猟場へ向けて。
その意味ではレイチェルも同じ。このピックアップトラックは、古いけれどまだまだ現役だ。馬力もある。みんなのところへは直ぐに着く。まずは生き残っている人を集めて、助けて。グールも迫ってるから何よりスピードを。
乗せられる数は限られる。使える車はどうなっただろう。せめて何人かは脱出していてくれれば。
それで、その後は。その後は──
「……あっ!」
急ブレーキ。慣性で車内はもみくちゃになる。それも仕方がない。
モーテルまで50メートル弱、といった地点だった。道路の上をヨロヨロと歩いている人影が見える。足取りは弱々しく、表情は虚ろ。燃え盛る炎を照明代わりに、レイチェルへ映し出された姿は、自身も見知った人間。
「カルロスッ!」
トラックを降り、感情のまま駆け寄る。猫っ毛の短髪、はっきりとした顔立ち、若々しい体躯には保安官補佐としての制服にバッジ。
警察機構なんて、もうほとんど意味は無いのに。けれども、そうある姿勢が大事なのだと威勢良く宣言していた口の端から血が滴る。
「あ……レ、レイチェル、保安官……?」
「何があったの!? みんなは!?」
レイチェルが走り寄れば、カルロスは安堵するように膝から崩れる。倒れる途中で受け止めるけれど、背中から腹から溢れる血潮が、その肉体の現状を伝える。
「グ、グール……グール、が……」
「喋るな! 今、傷を……」
「みんな……みんな……死にました……死んじゃっ、て……」
か細い声が、密やかな絶望を伝える。けれども、今のレイチェルに出来る事は奥歯を噛み締めるくらいだ。まずはカルロスを保護する、その目の前の一事に集中するレイチェルは、素早くカルロスへ肩を貸してトラックまで引っ張る。
「大丈夫……大丈夫だから……」
自分でも分かっている。すぐ目の前の火災、その炎の下が如何な惨劇の場と相成っているか。こうして逃げ出せた者が、結局のところ一人しかいない意味が。
移動に使ったであろう大型トラックもスクールバスも、ひしゃげて火の手を上げている。
分かっている。何もかも、絶望的な状況という事は。
それでも、うわ言のように、レイチェルは言う。
「大丈夫……きっと、みんな……生きて……」
「どうしてですか?」
カルロスが、イヤにはっきりとした口調で言った。
トラックはすぐ傍。けれど治療はまだしていない。今さっきまで、息も絶え絶えだったのに、明瞭な台詞。
カルロスは、そんなきっぱりとした声音で続けた。
「どうして、レイチェルさんはみんなと死ななかったんですか?」
「──え?」
唐突な言葉に耳を疑って、続く衝撃に反応が出来なかった。
ざくりと脇腹を貫く、切りつけられたような感覚。咄嗟にカルロスを手放した事で、どうにか致命傷は免れた。
いや、そんな事はどうでも良い。
「……いや、いや。そん、な」
レイチェルは混乱している。衝撃も、切り傷も、カルロスへ肩を貸していた側から来ていた。グールは居なかった筈だ。それなのに。
「どう、して……?」
事ここに至って、それは意味のない問い掛けだ。どうしてもなにもない。
目の前で、カルロスだったものが変貌する。ぐずり、ぐずりと肉の内側を隆起する何か、皮膚を破り服を引き裂き、自重で自我を押し潰すように何かがめくれ上がる。
「ご、が、ぎ…………死、死し死死んだ……死んだ……ミンナ死んだ……ドウシテあなたは……シナナ………」
それきり、カルロスのカルロスだった部分は事切れた。もはや良く見知った、蠕動する異形の塊は、ゆらりとレイチェルを見遣る。 そうして、ただ真っ直ぐ迫って来た。
「つ、あッ!」
半歩ほどもない距離だ。グールの体格なら身動ぎひとつで埋まる。レイチェルに許された反応は、せいぜい声を上げる程度。
次の瞬間には、グールが覆い被さるようにレイチェルを拘束した。そのか細い四肢からは想像出来ないほど強烈な膂力が、レイチェルを錆の浮いたボンネットに押し付ける。
「ぐ、が……!」
首と右肩、しっかりと押さえ付けられ身動きが取れない。じたばたと暴れてみても、その拘束は揺るがない。
酸素が無くなっていくのが分かる。なのに頭は明瞭で、どういう状況か分からない現在地でも、明確に分かる事があると告げている。
──グールとは、もしかして人間の成れの果てではないか、ということ。
そして、もうすぐ自分が死ぬんだということ。
「あ……あ、ぁ……」
声が出ない、息も出来ない、何も出来ない。
身体の力が抜けていくのが分かる。目の前のグールは涎を垂らして、レイチェルへ空洞のような口を開けた。
──みんな、みんな……
頭を過るのは顔だ。愛すべき人々の顔、あの大災害からずっと、みんなで頑張って暮らしてきた日々の、細やかな名残。
──ごめんね。
そうして、最後に見えたのは。
「ご……めん、ね……」
今、行くね。ジャック。
ああ、分かってる。
──しゃおん。
唐突に、まるで空気が冴え渡るような。そんな、凛と澄まされた音が聞こえて。
グールの身体は両断された。
「ッ!」
「邪魔……!」
覆い被さっていた筈の身体は真横に真っ直ぐ切り裂かれ、上半分はぼとりと落ちる。もう半分は、台詞と共に蹴り飛ばされた。
レイチェルを押さえ付ける両手は離れ、くたりと崩れる身体はしばらく、空気を求めて大きく喘ぐ。
その傍らで、ピックアップトラックの幅広のボンネットに、その男は立っていた。
「く、は、あ……エ、エー……ジ?」
見間違いだろうか、それとも酸欠からくる幻覚か。今まで乗っていた車両の天井は無くなり、傷だらけで瀕死の男がボンネットに立ち竦む。
いや、立ち竦むというより、もっとずっと強烈に。エージは炎を睨みながら、業火のような怒気を放っている。
その凄絶な瞳はどこまでも、夜空のように澄んでいた。
──まるで、あの夜の様だ。
違うのは、照らす炎のお陰か、エージの姿が良く見えること。黒いモヤが集合したような、袖口の広い羽織を纏い、右手に鈍く光を返す長物。
片刃の刃物。華美な装飾は無く、ただ無機質に研ぎ澄まされた鋼。
刀、と。そう言われる装備の筈だ。疑問は、どこにそれを隠していたか、という事。
「──あぁ……エージ、やっぱり、キミは」
「ッ!!」
ゆるりと身を屈めて、エージは跳躍する。 向かう先は、目の前で渦巻く火炎の中。ごうごうと燃え盛る熱量のただ中を高く、高く。今は形を無くしたモーテルの上空に、人間の身体ひとつで飛翔した。
黒羽織がたなびく。憤怒に似た表情は、その苛烈さのまま透徹を極め、刃を振り上げる。
光を返す、白刃。炎を介して閃く。眼前の熱量をまるで意に介さず。
星の一条、煌めくように、 振り下ろした。
「──はぁあああッ!!」
瞬間。
波濤のように、衝撃が広がった。衝撃は炎を蹴散らし突風を巻き。
宣告のような決然さで轟く。あまねく全てに呼ばわる様な、まるで鐘の音の衝動が。
目の前で凝視するレイチェルに。炎に巻かれ逃げ惑っていた生存者に、今まさにグールに襲われんとする子供たちとこれを庇うティムに。
そしてグールは、いま現場へ向かっている個体を含めた、その場の全個体が動きを止めた。
ピタリと、空気が沈黙する。炎が鎮まり、代わりに現れる困惑と瞠目が、瓦礫を足場に佇むその男に注がれる。
「…………ハァ」
男は小さく息を吐くと、ゆるゆると瓦礫を下った。気安く、見知った道を戻るような感覚のまま、ゆっくりとレイチェルへ近付く。
進む度、反射で閃く刃を隠そうともしない。見てくれは物騒に過ぎるけれど、ちっとも危険な空気を感じない。
状況は異質で、最悪なのに。後ろの暗闇からは今も、レイチェルはグールの気配とおぞましい臭いを感じている。
明確な、いのちの危機。なのに今は、どういうわけだか安心が勝って、レイチェルは力無くその場でへたり込んだまま。
顔だけあげて、視線は眼前の男へ。自分の目の前まで来て止まるその人に、レイチェルは少し、躊躇うように問い掛ける。
「…………君は、何者なの? エージ」
「──まだ記憶は鮮明じゃないですけど……ようやく、自分の名前は分かりました」
「名前……?」
エージは無手だった左手を掲げる。キラキラと、一瞬だけ粒子が舞い、刀と同程度の長さで設えた棒が現れる。
鞘だろうか。簡素で艶めく黒いそれに、エージは刀を仕舞い込む。
キンッ、と。涼やかな音がした。そうして何かを、締めくくるような、終着の音。
「おれは、栄次郎……千葉 栄次郎。そう呼ばれた、只の一人の剣士です」
夜風が渡る。言葉は響く。
その声音が、これから起こる、多くの出来事の始まり。それを二人が知ることになるのは、もっとずっと後の事だ。