プロローグ
──接続、と。そんな声だけが聞こえた。
「げぇ、あ、が!!」
雨が降っている。歩いている。それだけは分かる。
しかし足元は覚束ない。視界は朧気で、喉の奥は燃えるように熱く、痛い。ついさっきまで、まるで地獄にでも居たかのよう。
どこもかしこもズタボロで、今にも倒れてしまえる。この瞬きを終えた、すぐ後にでも。
だのに足は止まらない。
何故だか分からないほど、身体を前へ押しやる力は強い。その作業だけで酷い激痛が走るなか、それでも前へ強く、深く。
浅い木立の合間を、不恰好な様子で進む姿は不気味だろう。この世のものでは無い何かで、怪物の類いに見えてもおかしくない。
その最中、立ち枯れた古木に肩がぶつかる。よろけて、膝から崩れ落ちる。
力が入らない。前へ進む意思はあるくせに、この身体は立ち上がる力も絞り出せないらしい。
「はぁ……! はぁ……! はぁ、あ!」
呼吸が苦しかった。心臓が耳元で五月蝿く我鳴る。
生きている、ただそれだけしか出来なかった。しかもそれも、直ぐに終わってしまいそうな様子で。
雨に濡れそぼった前髪が、顔に張り付いて気持ち悪い。身体に上手く力が入らない所為で、髪を払う力が捻り出せない。
鼻腔を占める、草と土の匂いだけが鮮明だ。両目は像を結ばず、両手足に力は注がれず、触覚でさえ機能しているか分からない。聴覚だって、呼吸と鼓動の喧しさに支配されていて、雨音すら聞き分けられない。
まして他の音なんて──
「……っ、め……!」
何か、聞こえた。草葉に滴の落ちる音じゃない。当然、心臓や気息の音でもない。
「だめ! はやく逃げないと! もうグールが……!」
声、だった。切実な、切迫した声色だった。
閉じるはずの両目を無理矢理こじ開ける。身体を持ち上げるはずだった力は首と顔面に。声は頭の方向から──つまり目の前から有ったのだから。振り仰ぐように、頭をもたげ。
「痛っ、つ!」
「あぁ、ケリー! だめ、早く立って、早く!」
「うう、ああ! だめ、だめ、助けてレイチェル! 助け」
声が二つだ。ひとつは女で、ひとつは幼い。
そして続け様、おぞましい鈍い音。ばきり、ぼりん、と。小動物の骨でも噛み砕くような嫌な音。
「あ、ああ……あああああ……!」
恐れが、怯懦が、空気で以て伝わる。何が起きたか、何が起きていないか、想像に難くはなく。
ぼんやりと、あまりにゆっくり、視界は像を結ぶ。首だけ見上げた先の惨劇。
然程遠くもない空をたなびく黒煙、灰色い雲底を照らす赤い炎。そこを光源として、木々と草原に影を落とすのは異形の「何か」だ。
人の倍はある身の丈の壺。人の手のような触手が胴体から生えていて、蜘蛛の巣のように身体中を血管で覆う。壺の口にはずらりと歪な歯が並んでいた。
歪んだ歯列は赤黒く染まっている。
そして、その目の前に居る。しりもちを着いた、人影がひとり。
「──っ、ぁ」
──接続、そんな声を聞いた。
瞬間、何かが木立のあわいを駆け抜け、弾けた。
///
数日前の雨も止み、外は冷たい快晴だ。
時は10月も半ば。時すでに、北米大陸が異世界と成り果てている、今日この時。
──その男を荒縄で縛り上げる、ここはボロボロの掘っ立て小屋。馬糞の臭いが今でも漂う、元馬小屋。
そうした中で、レイチェル=メイトランドは張り詰めた気配を緩めた。もう大丈夫、なんてことは決してないけれど。
20平方メートルほどの小屋。中には土と枯れ草のベッドがあるばかり。入り口には馬を導く為の大きな引戸と小さな勝手口だけ。勝手口は施錠しているから、レイチェルは引戸を背にする形で腰を下ろしている。
使い古しのカーゴパンツも、お気に入りのブーツも汚れるまま。10月とはいえ馬小屋の中は温かいから、どうにもじわりと汗をかく。汚れたブラウスと自前の赤茶けたブルネットも、そろそろ手入れをしたい頃。
けれど、そんな事には構えない。もう3日も、この小屋の中に詰めていても。
理由は、目の前に居る。ボロ切れを着せられ縛り上げられた男。黒いざんばら髪、やや痩躯な肉体の青年が、引き起こした惨劇を、目の当たりにしたから。
「──お前は、何なんだ?」
ひとりごちるレイチェルの疑問は、誰からも返ってくることはない。当然だ、ここに居るのは相手と自分の二人きりで、相手の男は荒縄で柱にくくりつけられたまま動かない。
3日3晩、そのままだ。携帯食糧と水を自前で持ち込んだレイチェルと違い、男は呼吸する以外の行動を取ってはいない。
放っておけば早晩、朽ちるように死ぬ。レイチェルはそれを、見届けるためだけにここに居る。
──どん、どん。
背中の扉を叩く音。慎ましやかな衝撃。レイチェルは縛られた男から視線を外さず声で応える。
「なに? 糧食?」
「そうだ。お前さんの家から着替えも持ってきた。そろそろあんたの服も我慢の限界だと思ってな」
そう言って、顔ひとつ覗ける程度の小窓が開く。小窓から差し込む陽光は朝の匂いを湛えていて、その手前で視線を投げ掛ける髭面の老人を逆光で隠す。
無事にまた、朝を迎えられた事に、レイチェルは内心でほっとする。“やつら”は夜に活性化する。太陽が昇れば、一先ず安心して良い時間だ。
「入って良いか?」
「駄目よ、ティム。何があるか分からないんだ。無駄な人死には出せない」
と、掛けられた言葉を一蹴。ティムと呼ばれた老人は渋面。
大きく、これ見よがしのため息をついて、まったく、と。そうしたワガママは聞き飽きたと言わんばかりに、老人は首を左右に振る。
「お前さん、ここしばらく寝てないだろ? 街はこないだの襲撃でもなんとか保ったが人手が足りん。まして住民から信任された保安官のお前さんが、ここでよく分からない根なし草の野郎を見張る意味などないだろ?」
「意味ならある。それはわたしだけが知っていれば良い。街の治安維持、警備はカルロスに任せてあるから大丈夫。若いけど、諸々の手順は理解しているし」
「たかが大学出たての若造に何ができる」
「その大学も閉鎖されて随分経つ。彼もいっぱしの警官になった、ということで良いんじゃない?」
押し問答に過ぎる。ティムがそう判断するのに時間は掛からなかった。この女性がどれだけ頑固かはとても良く理解している。なにせ、本当に小さい頃からそうなのだから。
こうと決めた事を曲げない、曲げられない。それが正しいと信じているから。たとえ銃を突き付けられ、命も尊厳も脅かされようと、この女傑は相手の目をまっすぐ見据えてこう言うだろう。
ノー、と。なので、クルーズとしては強行手段に出ざるを得ず。
レイチェルの言い付けを無視して、老人は大扉備を引き開ける。
「ちょっと、ティム……!」
「そいつが何なのか知らんが、お前さんを待ってる連中もいるんだぜ? 今も“グール”がここに向かってるかもしれないって恐怖と戦ってるんだ。警備主任の保安官様が現場を離れるのは良くないだろ?」
態度の大きさと体格が比例するような、恰幅の良い身体を鹿皮のベストで包む老人が言う。ジーンズ、テンガロンハット、レバーアクション式のライフルを担いで。
見てくれはまったくのカウボーイ。おまけにここは、北米大陸で言えば西部にあたるロッキー山脈の麓。
「……グールは昼間に活動しないでしょ。それが分かってるから、ティムはここまで来れた」
「それでも、可能性はゼロじゃないだろ保安官? 大規模な補食活動が夜に集中してるだけで、昼間でも食われるやつは食われる」
──堂に入りすぎだなと、レイチェルは呆れ顔。扉の向こうに見える黒いピックアップトラックは、つまるところ現代の暴れ馬である。
もはや追い掛ける牛も、襲ったり襲われたりする幌馬車も、どこにもないけれど。牛が絶滅したのでなく、牛を囲えるほどの農家は早晩、消え失せている。
よくある環境の激変だの乱獲だのでなく、あいつらの所為で。
──グールめ。
「それで?」
「うん?」
「言いたいことがあるなら単刀直入に言うべき、と。そう教えたのはあんたでしょ、ティモシー=クルス。何の用なの?」
「へいへい、保安官殿……んじゃ、結論から言うぞ」
老人──ティモシー=クルスは盛大なため息を落として、肩に提げたライフルに手を掛ける。慣れた手つきでストラップの紐を外し、鈍い色の銃身が陽光を反射して。
レイチェルの前に差し出される。この動作の意味を一瞬、図りかねている間にティムが言葉を繋いだ。
「街を放棄する。その男を始末して街に戻ってくれ、保安官」
///
それはきっと、遠い記憶だ。あるいは、ただの夢想か。
──すげ、ぇ! やっ、り一番……
──え、じ。お前が、ここを、この道場……
──、のようにな。これは、誰かの為の……
ああ、分かってる。
夢の言葉が反響する。我鳴るようではあるけれど、居心地は悪くない。同時に、自分の意思を再確認できる。
この身は、きっと。
「──なのよ! もう、何も、残ってないのに……!」
そんな、得体の知れない夢から醒めて、涙声。それが寝覚めの、最初の所感。
身体中が気だるい、血の巡り方さえのろのろと遅く感じる。そもそも空腹が限界まで来ていて、喉が心底から乾いていて。
この上、縛り上げられている様子だ。柱に後ろ手で、無理やり座らされている状態。両足は自由だけれど、胡座の姿勢が長かったのか下腿全般の感覚が薄かった。
「……酷だとは思う。本当にすまない。だが町民会議で決定したことなんだ。先の襲撃で“ワームエンジン”が壊れてしまったのも決め手だ」
「でもだからって……!」
「それに旧シアトルまで行けたら、どうやらすこぶる腕の立つ自警団に守ってもらえるらしい。確か、シンセ、なんとか言う組織だったか……何でも並みのグールなら相手にもならないらしい。よっぽど訓練されてるのか、装備が良いのか……いずれにしろそいつらに保護してもらえれば、あるいは」
「あるいは、なに? やり直せるとでも? ここまでぐちゃぐちゃにされた合衆国で? この異世界と化したアメリカで? 何もかもぶち壊されてしまったのに!?」
「レイチェル……」
「出来るわけがない! 夢を見る時間はとっくの昔に終わってるのよティム! 合衆国はもう元には戻らない、山向こうから来るあの化け物どもが良い証拠よ! 東海岸、いやさロッキーより東側から最後にあった通信は何時だった!?」
感情のまま、ぶちまける女性の怒り。猛る音量の中に、沈鬱とさせる空気を孕んで。
涙声、まさしくその通りだ。どうにか、視線だけをその方向に向けるが、髪が邪魔だ。よく見えない。
「……これはもちろん、強制じゃない。お前さんの身の振り方はお前さんが決めることだ、俺じゃあないからな……だから、昼までは待つ。決心が着いたら広場に来てくれ」
男の声はそう言い残して踵を返した。薄ぼんやり見える視角で、男が空間から消えたのを確認する。あとに残るのは二人きり。
縛られた自分がひとり、見慣れない“鉄砲”を持った、赤毛の彼女がひとり。
「…………」
固唾を飲み込んだ沈黙。佇んだまま、動かない、その人。
──状況はよく分かる。
自分とは、つまり邪魔者。メシも水も、何時どこでだって限られる。人がひとり増えればその分、何がしかの「割り」は存在する。
それを解消するに、取るべき手立ては単純明快。
「……やって下さいよ」
「ッ!!」
息を飲み、とっさに構え、引き金に指を置く。流れるような一連の動作に熟練の技を感じる。既にかなりの空間はあるが、それでも半歩ばかり距離を取るのはまさしく戦士の予備動作。
ちゃんとしていると言うか、きちんとしていると言うか。それなり以上に、戦場を知っていると直感する。
そんなひとが、涙声を浮かべるのは、何か思うところがある。
だから。
「弾も……勿体ないでしょう? 適当に、腹でも切らせてくれれば……良いんで……」
喉がからからで、上手く声が出ない。唾液もまともに出ないほど水分が抜け落ちている。
だから意志が、きちんと伝わってくれるかどうか。こちらはちゃんと、死出の覚悟は決まっているんだ。
「どうして、そんな……」
困惑した様子で聞かれた。あるいは、当然なのかも知れないけれど。
なので、いま思う、正直なところを応えよう。
「……あんまり……涙は、得意じゃなくて……」
「────っ、」
ぐうううううううううううううううう………
おいおい、って感じだ。
何故にここで鳴りやがるのか、おれのお腹よ。