綺麗な小鳥
その日、魔法使いは一つの確信と共に目覚めた。
ベッドから出て、ひとつ腕を振ると寝巻はあっという間に紳士服ひとそろいに変わる。白いシャツの袖はカフスで留まり、襟とクラバット、グレーのウエストコート。その上に着るコートはダークブルー。ボトムスはトラウザー、靴はこだわりなく黒。本を読むとき邪魔になるので手袋はしない。
魔法使いにとっては少し古い程度の認識だったが、かなり……歴史の本に出てくるような、古い流行のデザインだった。しかし、どうせ客人に見せるわけでもなし、他人に──稀にやって来るただひとりの来訪者に文句を言われない限り、魔法使いにとっての衣服は着ることができる、という以上の利点を持たない存在に違いなかった。
自室から出てきた魔法使いが向かったのは、階段をいくつかあがり、そこからまた少し降りた先にある部屋だ。
常に冷え冷えとしている場所も多いこの城内では珍しく暖炉がある部屋で、火を入れている限りは一年中暖かな場所である。入口を入って右手のところから本棚が所狭しと敷き詰められ、日に当たらない壁際を選んでずらりと整列する。窓辺近くに書き物机と椅子がしつらえてあり、そのすぐ隣にも窓に背を向けるようにして小柄な本棚が佇んでいた。
これを人間が見れば書斎と名付けるだろう。暖炉側の壁を除外すればほぼ唯一と言っていい、本棚がないわずかな一角は、日の当たる窓辺。
そこには、扉が開きっぱなしの鳥かごがひとつ、置かれていた。
鳥かごに近づいて確認すると、やはり彼の察知した事実は、事実としてそこにあった。
「おはようございます、ご主人。…どうしたんです?」
ふと、背後から声がかかる。これまで人の気配はなく、ここへやってくる靴の音もしなかったにもかかわらず。当然だ。やってきたのは人ではなかった。
魔法使いは少しだけ振り返る。
そこにいるのは、いかにも、という姿の悪魔だった。
服は人間のものと変わらない。燕尾服だ。眩しいほど白いホワイトタイに蝶ネクタイ、襟付きのダブルのベスト、側章二本のスラックスは燕尾服と同じ闇に溶けそうなほどの黒。
はっきりと人間と違うのはその顔だ。額に六つも角が生えている。全体に赤黒い鱗が生え、鼻と口は大きく突き出していて、口を開くと牙が生えていた。明るいグリーンの目玉には、縦に長い瞳孔が居座っている。まばたきをした。薄いまぶたが上下ではなく左右に動く。
トカゲのような、と魔法使いはいつも思っているのだが、本人に言わせるとドラゴンらしい。手袋が革製なので上手く誤魔化されているが、手や足も、真っ黒な鱗で覆われ、鋭い爪が備わっているに違いなかった。
名をバダルバ。地獄では有名な一族の六男坊だと名乗っている。数百年前にとある理由で喚んだのが、そのまま居着いてしまったのだった。
足音一つ立てずに歩いてくる悪魔から目を離し、魔法使いは視線を机上へ向ける。
「行ってしまった」
「はい?……あ」
首をかしげて魔法使いの方へ近寄り、同じように鳥かごをのぞき込んだ悪魔が、驚きともため息ともつかない声をあげる。
「お亡くなりになったのですね…」
鳥かごの中には、その名前にふさわしく、鳥が一匹。ただし、落ちていた。力なく、命なく、ぐったりと形容するには軽い身体を投げ出している。
薄いクリームの体色と、脚が靴下を履いているかのように途中から白い。じっと閉じてしまっている目は、開くとトパーズの輝きを見せるはずだった。ヒリンという種類の鳥だ。機嫌がいいと名前の響き通りの美しい声で囀るので有名だった。最近、貴族が遊びのために捕まえすぎて数を減らしていると本で読んだ。
魔法使いは、その小さな身体を持ち上げた。すっぽりと右手に入ってしまう。乾いていた。
「残念でしたね」
「鳥にしては長生きしたほうだろう」
悪魔の言葉にそう答え、魔法使いはそこらにあった手巾で鳥を包む。なぜか、これで遊ぶのが好きだったのだ。
今度の『彼』とは、言語で意思の疎通が図れなかった。魔法使いの知識は、大部分が読んできた本に依存している。どんなに人の世界から離れた場所に棲んでいても、あくまで、人の世界の生き物だった。鳥の言葉を理解することはできない。
それ故に、よくわからないことも多かった。なぜ突然怒って羽をばたつかせたり、反対に魔法使いが何もしていないのにきれいな声で歌い出すのかも、日によって好む食べ物が違うことも。
わざわざ長い時間をかけてここへやってきて、幸せだったかどうかも。
「しかし」
とバダルバが重たそうな顎を開閉させて言う。どうやって発声しているのか魔法使いには未だに謎だったが、いつもちゃんと、少ししゃがれたような低い声が聞こえるのだった。
「死体が残るのは珍しいですね。いつも、気に入った神が魂ごと連れていってしまうのに」
「あれは鳥が嫌いだから、天上へは召したくなかったんだろう」
「そうなので?」
私は聖典を読まないもので、と、神や天上とは正反対の場所にいる悪魔が、ある意味当たり前のことを言う。
魔法使いがそれを聞きながら何の気無しに窓から外を見ると、今日はいくぶん機嫌が悪そうな曇天が広がっていた。
「……一番古い聖典の、5章38節だったか、鳥に出し抜かれ、怒って天上の生物から外したという話がある。だから鳥は天上に憧れ空を飛ぶのだとか」
「本当ですかねぇ」
「さあ。この目で見たわけではない」
興味がなさそうに呟いて、魔法使いは部屋の入り口へと身を翻した。後ろからバダルバがついてくる。
「スコップを」
「はい。ただいま」
早いうちに埋めてやらねばならない。
そうしないと、次に会ったときに怒られるのは確実だと、魔法使いはそんなことを考えた。