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塔に登るひと 14歳



 一歩、一歩と、石の階段を上がっていく。

 足元の白い景色は、いくら足を進めても変わり映えがしない。

 ああ、まだずっと先だなと考えて、ふと微笑んだ。──そう思ってしまったが最後、この塔は二度とあの扉を見せてくれないというのに。

 ぼたり、と音がした。

 暗い森を抜けて、石造りの城の幾多の廊下を渡り、この塔への入口へなんとかたどり着いて、しかしこれでは、この先に進めない。

 また、ぼたり、と。

 彼の歩みは一歩、また一歩と、遅くなっていく。

 ぼたり。──歩みを止めた彼の足元に、濃い赤が垂れた。

 どさり。

 一瞬前まで白と赤のコントラストを作り出していた石段へ、身体が落ちる。

「あぁ」

 呟くような自分の声が思ったよりもか細くかすれていて、彼は目を閉じる。

 まるで死にかけているようだ。…実際、もう死ぬのだった。

 何度目か、何百回目か生まれ変わって、今度の彼は何も持たないただの少年だった。

 魔術師になった頃の記憶はあっても、その魔術を使うだけの力がない。富豪の子息として生まれたときは人に報酬を支払って足でも食料でも調達できたが、それもない。

 それでも、彼は、身一つでここまで来たのだ。

 ここへ来るまでに川で流され、山で崖崩れに巻き込まれかけ、森で獣に噛まれ、左の腹に大きく開いた傷とそれを囲むようにした紫色の痣を何とかごまかして、長い廊下を気をつけて通り、目当ての隠し通路を見つけた。

 旅立ったときには、それでも服の替えやわずかな銀貨、それと本を一冊、布の鞄に詰めてきたが、それも全て失ってしまって、それでも、塔までは来た。

 だが、ここが限界だった。塔の魔法は、ただの人間を冷たく拒む。

 この塔のどこかにあるはずの扉を通り、さらに高い天井までぎっしりと本の詰められた大迷宮を通りぬけたその先に、魔法使いがひとり待っているというのに。

「あぁ、でも、本に血がついたらって怒られるかなぁ…」

 力なく、彼の手がせめてどこかへ爪を立てようと空を掻く。あの部屋もこの階段と同じく真っ白なのに、魔法使いの待つ場所まではあまりにも遠かった。なんとなく、次が最期の呼吸だとわかる。

「……きみに会いたい、魔法使い」

 あの何もかも白い部屋で、ひとりきりで本を読んでいる、そのページをめくる手を、彼は閉じていく瞼の裏に思い出した。




※ ※ ※



 来ない。

 魔法使いは、今しがた読み終えた本を閉じる。厚い表紙と何ページもある紙の束は、ぱたり、とかすかな心地よい音を立てた。

 背後にある噴水からは、音もなく水ではない透明な何かが流れている。

 壁も天井も床も白く、白い窓の外すらも、真っ白な光景が広がっている。それが雲なのか、何か魔術を使っているが故のものなのか、魔法使いは興味がなかった。

 そもそも、この部屋のものすべてに興味がない。噴水から出ている液体には、一度だけ触れてみたが、特に何も起きなかった。たぶん人間の体には良くないものなのだろうということくらいはわかったが、それ以上の印象を抱かせるものではなかった。

 一つだけあるとすれば、「来ない」ことだった。魔法使いから見れば部屋の奥の方に、天井まで高くそびえる本棚がある。それは唯一、この部屋で白くない代わりに、魔法使いの方へ暗い茶色の背を向けている。表側、つまり本が収納されている側は、魔法使いの住む城の中でも一番の傑作である、魔術図書館の大迷宮の一角を作っていた。

 その奥から、やってくるはずなのだ。人間が一人。何度も生まれ変わっては、そのたびに約束だと言って魔法使いに会いに来る、珍しい人間だ。

 それが来ない。

 前に来た頃から、すでに二百年ほど経っていた。

 特に何を思うわけでもない。魔法使いは、その生において特に何か欲を持つこともなく、大半、否、ほとんどを読書に費やしていた。その読書ですら、興味がある、ないの話ではなく、ただ大昔にそう定められたのでそうしているだけだった。

 会いに来るたび、人間はこの真っ白な部屋で本を読む魔法使いのことを寂しそうだと言ったが、寂しいという感情も魔法使いの中には存在していなかった。

 その人間がなかなかやって来ないので、魔法使いは、中断されることもなく、ひたすら読書をしているのだった。

 ただ、「来ない」年数くらいは数えていた。




ひとつまばたきをして、小指の爪ほどの小さな鈴を鳴らして本の虫を呼ぶと、きゃらきゃらと笑いながらやってきた。人間には声ならぬ声として映るらしいが、魔法使いには彼女たちが何を話しているのかもなんとなくわかる。

『もう読み終わったの?』

『面白かった?』

『戻しておきましょう』

ただし、彼女たちは決して対話をしようとしてくれるわけではない。好き勝手に喋り、魔法使いの手から分厚い歴史物語の本を取り上げた。

 ふわりと本が浮き上がると、ピン!と小さな音を立て、その本が消えた。虫たちが元の本棚へ戻したのだった。

「次は哲学書あたりだとありがたいのだが」

 一人、白紙金(プラチナ・ペーパー)で出来た頭飾りをつけた虫が、ちらりと頷いたように見えたが、大して期待はできなかった。

 きゃらきゃらと本の虫たちが去っていき、しばらくして小さな音とともに本が一冊、魔法使いの手元へ降ってきた。哲学書ではないが、錬金術について書かれた本だった。もしやすると、今この世の中にある哲学書は読み尽くしたのかもしれない。

 先程の分厚い本と比べるとページ数も表紙もほっそりと慎ましやかな本だ。角鹿の革と思しき表紙を開くと、中はここ二百年ほどで随分珍しくなった羊皮紙だった。少し前の本を読みはぐっていたか、どこぞの貴族の手遊びなのだろう。

 魔法使いは、白い部屋でそれを読み始めた。

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