老いた司書 62歳
「ああ、ありがとう」
白髪頭の、しわの目立つ顔をゆるませ、老人が礼を言う。『本の虫』がきゃらきゃらと声のない声をあげて笑ったように見えた。彼女らから本を一冊受け取って、老人は息をつく。
本を開いて、題名と作者、本が作られた年を確認する。ついでに、ぱらぱらとめくって、どんな本なのかも確かめる。昔よりはずっと目が悪くなってしまったが、まだ文字は読める。
見上げれば、周囲は天井までいっぱいに本棚が敷き詰められている。全て窓に背を向けていることや、縦横無尽に入り組んでいることから、まるで薄暗い迷路のように見えた。
「またここか」
声が聞こえて、老人は振り返り、目を細めた。
「ああ、魔法使い」
「またそんなことをしているのか」
老人の様子にも特に反応を見せず、魔法使いは無表情に聞いてくる。老人は、うなずいて周囲をぐるりと見回した。
「うん。昨日の続きから整理しようと思ったんだけど、棚がどこかへ行ってしまってね」
「ここの本棚はじっとしていないからな」
「気まぐれだもんねぇ、ほんとに」
老人は穏やかに笑った。
魔法使いの居城——本人は特段、住んでいるつもりなどなく、ただ必要であるからそこに居ただけなのだが——の高い高い塔には、今の世界ではその仕組みを解ける魔術師など一人もいないだろうと思われるほど、複雑な魔法が幾重にもかけられている。
その一つが、この『祝福の大図書館』と呼ばれる、塔の床面積には到底収まりきらないはずの、不思議な広大な迷宮図書館だった。
ここには、世界の全てが詰まっている。
人類がはじめて書物を作り出したその日から現在に至るまで、果てしない時間の中で作られた、ありとあらゆる本が納められているのだ。
どういう原理なのか、原本とそっくりそのまま同じもう一冊の本が、その本が完成した瞬間にはすでに図書館内に存在している。その数はとうに数えきれない。中には、とうに焼失し、あるいは破り捨てられ、あるいは焚書の憂き目に遭い、この世からなくなったはずの本すらある。ここの存在が知れたなら、世界中の読書家、あるいは魔術師、あるいは学者、もしくは悪党の輩も、目の色を変えて自らのものにしようとするだろう。実際、どこからか聞きつけて無謀にも『白い森』や魔法使いの居城を目指す者もいないわけではなかった。
だが、魔法使いにとってそれは、興味のないことだった。
彼はただ、ここにある本を全て読み終えることだけを永遠に続く一生の目的に据えられていた、それだけなのだった。
そんな魔法使いに、「本の目録を作ろう」と言い出したのは、何度目かの生まれ変わりをし、この城へやってきて間もない、29歳の青年、ソノリエだった。
「今度のぼくは、ここに来る前に帝国の図書館で働いてきたんだ。魔法使いも、手当たり次第に読んだのでは大変だろう」
魔法使いは、肯定も否定もしなかった。
一切、興味がなかった。
魔法使いの態度をよそに、ソノリエは仕事を始めた。
それが、三十二年前の話だ。
問題があるとすれば、迷宮図書館の迷宮たりえる要素がその構造だけでなく、本棚自体が気まぐれに入れ替わったり、移動してしまうことだった。
ソノリエの根気強い調査の結果、本棚の中身自体は移動していないことと、本の順番が出版(あるいは製作)年代順であることは辛うじてわかったが、ソノリエが全図書の目録を作るというのは、ソノリエ自身から見てもまるで間に合わない作業だった。
「三十年前にも言っただろう。動くものに印をつけようと意味がない」
魔法使いは、数十年にわたり繰り返してきたやりとりを、数十年を経てすっかり老いた人間とまたやる。老人は、やはり数十年前のものと同じ答えを返した。
「そうだけど、ねえ。試してみたいじゃないか」
せっかくこんな素敵な図書館があるんだ、とソノリエは手を広げてみせる。左手首に、帝国図書館の司書である証の白紙金で作られた腕輪が揺れた。
「ぼくが生きているうちには、無理そうだねえ。せめて棚ごとに印をつけて、管理できるようになれば…。『本の虫』たちに手伝ってもらえれば何とかなりそうだけど、そのためにはまず彼女たちに増えてもらわないと」
「何年かかるんだ、それは」
「さあ。でも、ぼくには時間があるからね。何回か生まれ変われば、それに近いことは出来そうだよ」
「時間を無駄にする」
「いいじゃないか。ぼくたちにとっては、あり余っているものだ。たまにぼくが働いてた図書館にいた本たちにも出会えるし、いい仕事だよ」
『本の虫』が魔法使いの目元のすぐ先をかすめて通り過ぎる。
魔法使いにとっては作業である読書という行為を、食事に値する行為として生きている彼女らの存在も、不可思議だ。
本の虫といい、ソノリエの仕事といい、理解の出来ないことばかりだった。
「私は一刻も早くここにある本全てを読み終えたいだけだ」
魔法使いは淡々と呟いた。
「そして死ぬ。出来る限り早く」
老人は、腕をおろして魔法使いを見上げた。
「そんな気持ちで本を読まなくちゃいけないなんて、寂しいよ」
魔法使いは、老人をじっと見つめてから、首をかしげた。
「その寂しいというのが、三十年聞いているがどうもわからない」
「……まぁ、魔法使いはそういうやつだったね。いつかわかるよ。そのためにも、もっと本を味わって読んでくれるようになると嬉しいんだけど。ぼくとしてはね」
「わからなくていいのでさっさと読み終えたい」
うーん、どうすればいいのかなぁ、とソノリエが唸る。老人になった今でも、彼は魔法使いに読書を楽しませるという不毛な夢を諦めていないようだった。やはりこれも魔法使いにとっては意味のわからない思考回路で、理解が出来なかった。
魔法使いは、今回もまたその理解を諦めることにした。そのへんの本棚からまだ読んでいないものを三冊ほど適当に引っ張り出すと、それを読み終えるために、城内の読書室として使っている部屋へ下っていった。
あとに残った老人は、短くひとつため息をついて、節くれだった指を動かし、また本の迷宮から本を取り出しては、目録をつける作業に戻っていった。