農家の長女 16歳
魔法使いが初めて口にした料理らしい料理は、シチューだった。
元来、魔法使いという生き物は食物を摂取する必要がない。彼には大気に満ちる魔力があったし、魔鉱石や植物など、特定の物質から魔力を得ることもできた。魔法使いにとって、生存のためには睡眠も食事も必要なく、休息すら必然ではなかった。
そんな彼の目の前で、張り切ってエプロンをつけ、包丁を握る者がいる。もう何度目か忘れてしまったが、生まれ変わるたびに彼に会いに来る奇特な人間だった。今度の名をノアジェといい、亜麻色の髪に明るい緑の目が似合う少女だ。
少女の、食に対する執着は魔法使いにとって異常といえるものだった。
「魔法使い!畑をやるわよ」
彼女は、いつものように図書館の最奥までやってきたのだが、その手には農作物の種を抱えていた。
魔法使いにとってもさすがに想定外の事態だったため、「それはどうした」と問うた。いわく、少女の生家が営んでいる農場の作物だという話だった。
魔法使いは至極簡単に、自分にとって食物の摂取は不要であることや、人間の生活に必要な食物ならわざわざ育てなくとも魔法使い自身が創り出せることを説明した。以前何回か、いや何百回か繰り返したのと同じように。
しかしいつもなら不満そうな顔をしつつも引き下がるはずの人間は、目を閉じてその一連の言葉を聞き流すと、「でも作ったことはないでしょう?」と自信満々に言い放った。その声は、何もかも真っ白な空間に広く響いた。
「だから、作って食べるの!今までやったことのない、いわば実験よ。もちろん、検証してくれるでしょう?」
魔法使いは、首をかしげた。
ノアジェは本気だった。
魔法使いがずっと首をかしげながら下まで降りると、そこには少女が苦労して自力で持ってきたと思しき農具さえ用意してあった。
城の周辺でやるというので、この『白い森』でどうやって作物が育つのか、と魔法使いは不思議に思ったが、それはノアジェの「さあ魔法使い、まずは土を畑ができるようにするのよ」という言葉で、魔法使い自身が調整させられることになり、解決した。
土を作り、それをノアジェの持ってきた農具でひたすらたがやし、畝をつくり、種をまき、魔鳥よけと魔獣よけの結界を張り、毎日水をやり、虫がいれば払い——魔獣ですら楽には暮らせない『白い森』で植物に虫がつくというのは不思議なことであったが、かえって魔力のない植物に集まったのかもしれない——、雨や風の日には作物が倒れないようまた魔法をかけ……魔法使いは、不要な工程に首をかしげながら、ノアジェに言われるまま作物づくりを手伝った。正直、作物が無事に育ったところで料理とやらを摂取する気は毛頭なかったが、ノアジェのあんまり真剣な気迫に圧されたのと、少女の言う通り実験の検証を行うことに興味が出たこと、一番は暇だったからだ。魔法使いは人間がいるいないに関係なく、いつだって暇を感じていた。
ノアジェは、そんな魔法使いの態度を分かっていながら、ずっと魔法使いに手伝わせていた。何か作業をするたびに、手順やその意義を丁寧に説明しながら、自分も泥だらけになって、できる限り手作業で作物を育てた。
数か月が経ち、『白い森』には長い冬がやってきた。それはしかし、彼女らの育てている農作物にとっては実りの時期であった。
その日、朝からどこかへ出かけていたノアジェは、本当にどこまで行ってきたのか、大荷物を両手に帰ってくるなり、壮大な実験の仕上げに取り掛かった。
「収穫はまあ、いいでしょう」
ノアジェはそう言うと、景気よく魔法を使って熟した作物たちを一気に収穫した。
台所まで持っていくのにも、ノアジェは魔法を使った。魔法使いがこれまでの方針との相違を不思議に思いそれを口にすると、「だって、これまでは育てる楽しさを知ってほしかったけど、今は何よりおいしさを知ってほしいもの」と答えが返ってきた。
到着するなり、ノアジェは魔法使いに「テーブルと椅子を創っておいて」と指示した。
「とりあえず2人が座れるだけの小さいものでいいわ」
魔法使いは、言われた通りに小さなテーブルをひとつと、椅子をふたつ出した。さすがに野菜のように自分の手から出すには大きすぎたので、呪文を使いながらおおよその形を作り、細部を整える。
まもなく、10年ほどは使っていそうな、木目の風合いを残したテーブルと椅子とが用意された。
「完成した」
「ありがとう。座って待ってていいわよ」
「料理を手伝わなくても良いのか?」
「まあ待ってなさい。今日は私が作った料理を振る舞うの」
ノアジェの手元では、野菜をほとんど切り終えて、鍋に移しているところのようだった。魔法使いは、手伝う必要がないと言われたので、納得して椅子に座り、待つことにした。
やがて、ノアジェの「よし、できた!」という歓声とともに、皿とスプーンが二つずつ運ばれてきた。
「はい、魔法使い。これがシチューよ」
とろみのついたホワイトソースの中に、ニンジンやジャガイモをはじめ、育てた野菜がふんだんに入っている。ノアジェがひとつずつ指さして教えてくれた材料の中に牛乳と鶏肉が入っていることを理解し、魔法使いは今朝のノアジェがどこぞの市場まで食料の調達に行っていたのだと納得がいった。
「本で読んだことなかった?シチュー」
「地域によっては頻繁に出てくる」
「でしょう?」
いそいそと魔法使いの向かいの席に座りながら、ノアジェはうんうんと頷いてみせる。
「これから魔法使いは、シチューの出てくる本を読むとき、どんな味か思い出せるのよ。素敵じゃない?」
正直、魔法使いは初めて食べたシチューの味をあまりよく覚えていない。
ノアジェに「どう?美味しい?」と聞かれて、「わからない」と答えたことと、
「毎日食事をすることの利益は薄い。ものを食べるのは時々でいいだろうか」
食べ終えてからそう言って、少女を思ったよりがっかりさせてしまったことの方が印象に残っている。
あとは、魔法使いが何気なく思いついたことが一つ。
「料理にはこれが入り用なのではないか?」
右手の袖を捲って、肘の上までを露わにすると、そこからスルスルと布がテーブルに落ちた。
目を丸くした少女の前に、魔法使いは本で読んだ形通りに創ったエプロンを広げてみせた。
「いいの?」
「必要かと思ったのだが」
「料理終わったのに、今更?」
「さきほど思い出した」
にべもない魔法使いの回答に、それでもノアジェは嬉しそうにエプロンを抱きしめて、にっこりと笑った。
「今度はこれ使って、もっと美味しいシチュー作ってあげるからね」
※ ※ ※
「……まさかきみが使うとは思わなかった」
魔法使いが、台所に立つ少年にか、ぽつりとつぶやく。地獄耳の少年は、それを独り言にして済ませることなく、ひょいと顔を向けて抗議してきた。
「なんだよ、べつに使ったっていいだろ、同じ俺なんだし」
そう言う彼は、エプロンをつけていた。淡いピンク色の、フリルのついた、今時ランディエル公爵家のメイドでもつけないような可愛らしいデザインだ。今は鍋の火を止めて、料理の具合を確かめているところだった。
「きみがいいならいいが、人間にとっては違和感のある服装なのではないか」
「服…まあ、変っていう人もいるかもね。ここには魔法使いしかいないからいいの。あと名前!」
レルって呼べよな―、と文句を垂れつつ、少年は大きな鍋つかみを両手にはめて、木を一本まるまる使った大きな木製のダイニングテーブルに鍋を運んできた。
「さ、できたぞー」
蓋をあけると、もくもくと湯気が立つ。
そこには、美味しそうな具沢山のシチューが出来上がっていた。
「「いただきます」」
木のスプーンを手に取り、魔法使いははじめの一口を口へ運ぶ。
「どう?」
すでに何口か食べて満足そうに頷いていた少年が、魔法使いにも感想を求める。
魔法使いは、しばし逡巡してから、何回か——何百回か、繰り返してきたいつもの回答を口にした。
「きみのシチューは良い出来だ」
「またそれかよ」
少年は呆れたように返しながらも、心なしか嬉しそうに笑った。
「やっぱり、創るより自分たちでイチから育てた野菜のほうが美味しいだろ」
「美味しさという基準はわからないが、創った野菜よりも育てた野菜のほうが質が上がるのはわかる」
「おかわりもあるからな。たくさん」
「あとでいただこう」
少年がニンマリとほほ笑む。左隣の席には、何百年も前から使われ続けてきたエプロンが静かにその背にもたれかかっていた。