トリアの少年 15歳
石造りの、堅牢な城。
一段一段、階段をあがっていく。どこまでも、まるくまるく、螺旋階段は空にもとどいてしまうのではないかと思うほど永遠に続いているように見える。
だが得てして、こういう旧い建物には魔法がかかっている。永遠と思えば永遠になってしまうが、近くに望むものがあると思えば――思惑通り、ほどなくして木製のどっしりとした扉が現れた。
久々に見るそれの高い位置にあるノブを、苦労しながらもなんとか掴んで、開く。錆の音を響かせながらそれは中へ通してくれた。
日当たりの良い、広い部屋だ。と言ってもそれは目の前の一面ほどんどがガラス張りになっている場所のみで、右手を見れば迷路が広がっている。
それは、高く高くそびえる本棚の迷路だった。
どの棚も日光に当たらないよう、こちらに背を向けて立っている。ひと区画だけくりぬかれたようにぽっかりと迷路への入り口を示していた。
中に入ると、薄暗い中を灯りがぼんやりと照らしている。ガス灯でもなく、電気でもなく、昔ながらの『本につく虫』の灯りだ。読まれる本がそこにある限り半永久的に点いている妖精の光は、新しい客を歓迎してやや光度を増したようにも見える。
これがまだ点いているということはどうやら間に合ったらしい。
配置がずいぶんと変わったらしい迷路をなんとか通っていくと、やがて出口が見えてきた。こちらも薄暗い迷路の中にたった一か所、外の明るい世界を覗かせている。もし、あの向こうの景色も変わっていたら、どうしようか。
「待った?」
少年の声が響く。
太陽に照らされて明るい部屋の真ん中には、噴水がひとつと椅子がひとつずつ、置かれていた。
噴水からは水でない透明な何かが音もなく流れ出て、どこかへ消えている。椅子は真っ白で、やわらかく、椅子の持ち主を物言わぬその腹に包み込んでいた。
そびえ立つ本棚の壁は、この城の主人に背を向けて沈黙を保っている。今しがた、その内側に広がる迷路を通って出てきた人間の声に、城の唯一の住人はしばし無反応のままだった。
しかし、ほとんど読み終えていた本をぱたりと閉じ、顔をあげる。
「……遅い。もう読み終えるところだった」
見た目はシャツとベストをかっちりと着た長身の男性だ。しかし、その髪の色は人間の持たないはずの、一角獣の白銀。見る時々によって色を変化させる瞳にも、黄金の欠片がちりばめられている。
彼は魔法使いだった。
「これでも急いで来たんだけどなぁ」
その魔法使いに物怖じもせず話しかけるのは、普通の人間、というより、少年だ。大陸の東の方の民族が持つ黒の瞳、同じく黒い髪は肩口につかない程度にざんばらに伸びている。彼は襟口のよれた服が肩の方までずれてくるのを少し引っ張ってから口をひらいた。
「大陸のあっちがわからこっちまで、ほとんど横断だよ。子供がひとりで長旅するの、大変だったんだぞ」
それで、と少年が続ける。
「何年経った?」
男がよどみなく答える。
「百二十年」
「え、そんなに?」
それで地図が違ってたのか、と少年は驚いたように言う。
「真ん中あたりの国が三つ四つ潰れて新しい国ができてた。あれ何?」
「私が知るわけないだろう」
「そう言うとは思った。でもそうか、百二十年も経ったら世界地図も変わるかあ。……ま、また辿り着けたし、何でもいいや」
少年はそう言うと、ふいに身震いをした。気味が悪そうにあたりを見回す。
「ここ、音がほとんどないから来るたびに変な気分になるな。もう出ようよ」
「静寂を嫌うのは人間の欠点のひとつだな」
魔法使いは一言そう呟いて、本を椅子の上に置くと立ち上がった。
右手をすぃと上げてくるりと返す。すると、彼らの後方の壁に音もなく滝が現れ、水が退くと共に重厚な金属の扉が出てきた。
「さすが魔法使い様」
「扉に触ると火傷するぞ」
「次に来るときは人間でも開けられるようにしといてって言ったのに」
「これは私では変更できない」
そう言いながら、魔法使いは銀にゆらめく扉に右手を溶かした。次の瞬間、周りの景色が階段の途中に形を変え、背後に移動した扉がするりと溶け落ちる。
「じゃ、降りるか、この階段…」
「長いと思うから長くなる」
「知ってるよ」
少年が一段一段下りる隣で魔法使いは二段を一歩で下りていく。
「俺、今度は『レル』って名前になったぜ」
「へえ」
「おまえは相変わらず名無しの魔法使い?」
「そうだな」
少年は傍らの魔法使いを見上げた。
「俺以外に友達つくらないの?」
「城を訪ねて来る者がいない」
「そりゃあそうだろうな」
とりとめもない雑談が螺旋の空間に響く。やがて、カツ、カツ、と響いていた足音が同時に止まった。
彼らの目の前に、今度は明るい色をした樫の扉があった。
「今回は階段が終わるの、早かったな」
「君がやってくるのは遅かった」
「悪かったよ。百年もかかるとは思わなかったんだ。戦争ばっかりで」
今度は少年が両手で扉を開ける。
暖炉に煌々と薪が燃えていた。テーブルに向かい合うように椅子がふたつと、広いキッチン。
まるで15分前に誰かがやってきて、心地よい部屋を整えたかのよう。
「いやー、やっぱりいいな、人間の体で人間の部屋に入るの」
伸びをしながら入ってくる小さいシルエットの後ろに背の高いそれが無言で続いた。話を聞いてくれているのがわかっている少年は、言葉で返事が来ないことには構わず喋り続ける。
「前は鳥だったし、その前は鹿だっただろ。直接喋れなかったし、久々に人間やりたいなって思ってさ。でも食べる物なくなったりとか、兵士に取られちゃったりとかで大変だったよ。やっぱり戦争はろくでもないや。平和が一番だな」
そう言いながらキッチンの方に向かって、戸棚を順番にあけていく。
「さてと、お腹空いた…んだけど、食べ物の貯蔵はもうなくなってるよな」
魔法使いは少し首をかしげて、右手を持ち上げる。キッチン台にどたどたと音をたてながらタマネギが四つほど転がり落ちた。それを見た少年は渋い顔をする。
「ちがうんだよなあ」
「食材だろう」
「魔法で作った食べ物とちゃんと育てたのとは全然ちがうんだってずっと言ってるだろ」
まあいいか…これしかないなら、とタマネギを手に取って、他の品物を魔法使いに指示していく。ごとごとと落下音が続き、食器と調理器具のほかには何もなかったキッチンが一気に騒がしくなった。
「今回は東の方にいたから東の方の料理も覚えてきたんだぜ。魔法使いが知らない食材もあるし今日はシチューにするけど、おいおい作ってやるよ」
「シチューで良い」
「毎日シチューは俺が飽きるの。人間の希望を優先してくれよ」
やれやれ、とため息をついた少年が、「ああそういえば、」と思いだした風に手を叩く。
「俺のエプロン取ってある?三百年前くらいにつくったやつ」
「そこに」
「やった!これ気に入ってたから、また着られると思って楽しみにしてたんだ」
「趣味が悪い」
うるさいなーと魔法使いの苦言を一蹴して、脚立を使って高い位置にある扉を開ける。戸だなにしまってあったエプロンを手に取り手早く身に着けた少年は、腕まくりをすると、城の主人へ向き直り笑ってみせた。
「それじゃ、またしばらく厄介になるぜ、魔法使い」