エピロヲグ
ここは…どこだ…。天井…。体中に違和感がある…。点滴…? ここは…病院なのか…? なんで…。僕は、一体…。
「お…本当に目を覚ましやがった。おい1162番。俺だ、わかるか?」
1162番…って…。そうか、僕の事か…。この声は…ザンギエフか?
「う…ゴホッ…ゴホッ…」
僕は声を出そうとした。が、途端に咳き込んでしまった。どうやら、呼吸器のマスクをあてがわれており、その為に口内から喉の奥まで、乾燥してしきっている様だった。粘膜がきしむ、鈍痛…。
「おい、呼吸器を外してやれ。あと、水を飲ませてやってくれ。水だ。水…そう。そう。サンキュー。…おい、水だ。飲め」
「う…ゴク…ゴク…ゴク…。ふぅ…」
ペットボトルに挿し込まれたストローから幾許かの水を飲み、僕はようやく、声を出せるようになった。
「話せるか? 自分の状況がわかるか?」
「うぅ…。ゴホ…ゴホ…。わ、わからない…」
ザンギエフの問いに、僕は声を絞り出して答えた。本当にわからないのだ。なんだか…長い夢を見ていたような気がする。
「わからんか。まあ、無理もないな。とりあえず、お前が目を覚ました事で地政学が変わる可能性がある。あとは、スキルの消失と寿命の回復の確認だな」
地政学…? なんの事を言っているんだろう。それに、スキルの消失と言ったか…。
僕は、まだ判然とせず、焦点が充分に定まらない視線を、ザンギエフに向けた。まずは、僕のおかれている状況を確認しなければならない。
「ス…スキルの消失…だって? ぼ…僕は…薬を投与されたのか…?」
「その通りだ。3日前に点滴で投与した。へっ。投与したが、お前は昏睡状態だった、って訳だ」
3日前…。僕には、その前後の記憶がない…。
「な…なぜ、僕は生きている…」
「なんだ? 死にたかったのか。だが、それは国家が許さん。お前の治験結果がこの国の未来を決定づけるからな」
「治験…。治験…。なんで…僕が…なんで…」
僕は、思い出していた。治験を受けられる可能性があるのは、1人だけだった筈だ。本星崎、豊橋、ゴブリン、そして僕。僕は…僕は、降りるつもりだった。僕は、自分だけが助かるなんて選択肢を、考えてもいなかった。それなのに…。
「…なんだ? 1162番よ、お前、泣いているのか? 悪いが、ここは屋内だ。目に染みる雨など降っていないぞ」
「うぅ……ううううぅううぅぅぅぅぅうぅぅぅぅ…なんで僕が生き残ってしまったんだ…」
「お前が何を思っているか知らんがな。お前は、生き残るべくして生き残った。そして、これからも生きなければならない。少なくともあと60年は頼むぞ」
60年…。スキルが発現してから、長らく自分の将来の事なんて考えた記憶がない。そもそも、将来なんてなかったからだ。いきなり与えられても困惑してしまうだけだが、そんな将来を与えられたのは、僕だけだったのだろうか。
「ぼ…僕以外に、治験の対象になっているのは…?」
僕は、救いを求めるかのように、尋ねた。僕以外のメンバーが、誰か生き残っている可能性を、少しでも信じたかったからだ。
「へっ。妙な事を言いやがる。お前以外に、誰かいるのか? どいつもこいつも、死んだ連中ばかりだ。おっと。1111番と2117番は死んではいないか」
「上小田井くんと…呼続ちゃんか…。…残ったのは…本当に、僕だけなのか…? でも、どうして…どうして僕の寿命が、治験に間に合ったんだ…?」
「…1162番よ…。お前は一体、何を言っているんだ? 2182番がお前の崩壊フェイズをパスさせたからだろ?」
僕の崩壊フェイズを…パスさせただって…? だめだ…覚えていない…。スキル攻撃の影響だろうか。
「…2182番というのは…」
「なんだって?」
「2182番というのは、誰の事ですか…?」
「へっ。俺も普段は呼称番号しか使わないからな…。あれだ…高校3年生の…えっと…堀田か。そうだ、堀田だ」
「……堀田さん…。そうか…。あの時、『神』に呼びかけて…。『神』が応えたから、スキル発現したのか…」
僕は、理解した。なぜ、僕が生き残る事ができたのかを。ゴブリンは…60日以上あった筈なのに…。間に合わなかったのか…。誰かの為に、スキルを浪費したのか…。
これでよかったのか…。みんな、こんな結末で、本当によかったのか…。なんで僕だけが生き残った…。
「とにかく、お前のために死んでいった仲間たちの為にも、精々長生きしてくれ。そして、体力が戻ったら、とっとと退院してくれ。お前の入院代には国民の血税が投入されているからな。その後は経過観察だ。寿命の回復が確定したら、お前には国家のために色々と働いてもらわなければならん」
「きいてもいいですか?」
「なんだ。俺は忙しい。アニメ好きの上司の機嫌を伺わなければならんからな」
「僕たちにスキルが発現した時…」
「昔話ならまたにしてくれ」
「スキル発現した時に、防衛省が殺害対象にしていた人数は、何人でしたか?」
僕は、確認しなければならないと思った。僕の中の記憶と、周りの人たちの記憶の差分を。僕だけが覚えている仲間たちや、僕だけが覚えていない仲間たちがいないかを。
「いちいちそんな事は覚えちゃいない。お前達の仲間全員である事には間違いないがな。1162番、2182番、2156番、2115番、1111番、2164番、2155番、2178番、2117番ってところか。何人だ…?」
「9人です…。ありがとうございました」
「へっ。じゃあな」
「本当に、ひとりぼっちになってしまったんだな…」
僕は校舎の屋上で、夕日が沈むのを眺めていた。わざわざ屋上まで来る必要なんてなかったが…以前に、何度かこうして眺めていたような気がした。いや、誰かが眺めているのを、僕が見ていただけだったような気もする。
与えられてしまった人生で、僕は何を成せば、死んでいった…あるいはいなくなってしまった仲間たちに顔向けができるのだろう。みんな、それぞれ、自分の将来に対する夢のような物があったんだろうか。堀田さんは絵画が得意だったけれど、全員分のコスプレ衣装を作るくらい器用だったし…左京山さんはDTMが趣味だった。本星崎は左京山さんの影響でDTMを始めたけれど、自ら進んで文藝部に入るほど、物語を書くのも好きなようだったしな…。そういえば、本星崎は、当初は僕たちの敵だったんだっけ…。すっかり忘れてた。豊橋はバイクで日本縦断したい、みたいな事を言っていた気がするけれど…あいつの活躍の場は日本じゃなくって海外かもしれないな。神宮前は、あの性格に似合わず生徒会の役員だったし、リーダーとして人を導いていきたいという思いがあったのかもしれない。伊奈は結局よくわからなかったけれど…防衛省での生活が長かったから、将来の自分なんて思い描いた事はなかったかもしれないな…。ゴブリンは……あんないいヤツが、死ななければいけなかったなんて…。もし、あのスキルが寿命に関係なく使えたのなら、ゴブリンはきっと人々を幸せにする為に使ったろうな。…はは。もし、みんなそれぞれに、そんな将来の可能性があったとしても、既に失われてしまったし、僕のこの小さな腕では抱えきれないな…。
「ん?」
不意に、ポケットの中のスマホが鳴動した。バイブレーションは小さく2回。電話ではない。メッセージだ。
「……左京山さんから…だって? そんな…どういう事だろう。左京山さん…あの時、他にも未来に送っていたメッセージがあったんだろうか…」
メッセージのスレッドをタップすると、中身を読むことができる。だが…タップするのが怖かった。書かれている内容に対してというよりも、これをずっと開かないでおけば、せめて左京山さんだけは生き続けてくれていると錯覚できるのではないか、という淡い期待があったからだ。だが、開かないわけにはいかない…。
「桜…? 左京山さんからの直接のメッセージじゃないのか?」
メッセージは、桜という名前から始まっていた。どうやら、この人物が文章を書いたようだが…。左京山さんに依頼して、送ってもらったのだろうか? 未来の僕に対して? …よくわからない。
メッセージの中身は、次の通りだった。
「鳴海くん。あたしだよ。桜だよ。どう? びっくりした? あたしがどうやってこのメッセージを送ったかですって? それは秘密です。って言わなくても、鳴海くんにはわかっちゃうかな? えへへ。わかっても言わないでね。学校の体育館倉庫に、大切なノートを忘れちゃったの。探して、預かっておいてくれない? 『小説用メモ』って書いてあるんだけどさ。中身は絶対に見ちゃだめだよ? だって…そのノートが、この物語のすべての始まりだ…ってこととか、どうしてあたしが、同人イベントの時に作品を出さなかったのか、とか、バレちゃうからさ…。って言ったら、見ちゃうかな? 鳴海くんの事だから。でも、見てしまったら、あなたも『隙間の偽善者』です。えへへ、お任せします」
大体、この桜って誰だろう。この口調…まるで僕と近しい関係だったみたいじゃないか。気味が悪いな…。女の子か? それに…体育館倉庫だって…? なんだってそんな所にいかなければならないんだろうか。…スキル攻撃をしかける罠じゃない…よな。
色々な不安が、一度に僕の頭の中で渦巻いた。もう、僕が相談できる仲間たちは、誰一人としていないのだ。もし、スキル攻撃を受けるとしても、ひとりで状況を判断し、考え、対応しなければならない。そして、今の僕には、すでに数値化のスキルも残っていない…。はは。そうだよ。今更なんだ。今更、僕が殺された所で…。いや、それは、ダメだ。僕の命は既に、僕だけの物じゃない。
体育館倉庫のむせるような、すえた独特の匂いは、なんだか嫌いじゃない。ひんやりとした空気は、まるで時間が止まっているかのような錯覚さえ覚えさせる。こんな所に、なんで「小説用メモ」なんてノートを忘れるんだろう? と思ったが、その理由はすぐに知れた。そうか。体育館倉庫の奥の、最上段の棚に色々な書類が置かれているのだけれど、その棚の一部が、文藝部の過去冊子保管場所になっているのだ。文藝部…。この桜という人は、文藝部員だったのだろうか…。でも、それだったら僕が知らない筈がない。だって、夏の同人イベントで冊子を作ったし、僕はそこに作品を投稿しているのだ。ただでさえ部員数が少ない文藝部において、誰か知らないメンバーがいるとは思えないし、もし、桜という人物が本当に文藝部員であれば、同人イベントの冊子に、作品なり、名前なり連ねているに違いない。
夏の冊子も保管してあるのかな…。冊子…冊子…。あった。
「…ああ、懐かしいな。堀田さんデザインの表紙…。あの時、堀田さんに手伝ってもらって、コスプレしたんだっけ…。神宮前もいて…。命が狙われるとわかっていて、よくやったよな…。はは…僕の作品も載ってる」
桜という人物の作品は掲載されていない。つまり、僕たちは夏に文藝部として活動をしたのに、桜とは接触していないという事だ。なんだろう。すごく不思議だ。左京山さんのメッセージ…。もしかして、パラレルワールドから送られてきたのかな…。
だが、すぐに、そうでは無い事を、僕は思い知った。
「『小説用メモ』…って…このノートか。名前が書いてある…。名前は…桜…か。間違いなさそうだ」
桜が指示したノートは、確かにそこに存在していた。
僕は…躊躇した。そのノートを、開くべきか、開かざるべきか。さっきのメッセージ。桜という人物は僕に対して「中を見るな」と言ってきている。しかし、メッセージの書き方は「中を見ろ」と言っているようにもとれる…。
…はは。この「小説用メモ」を開いて見た時点で、僕も、隙間の偽善者って訳か…。でも、偽善者だから、内容に干渉できないや…。できないから、この中で何が起きても、僕はどうすることもできない。しかし…する必要もないのか。彼らは、彼らの人生を生き、そして死んでいく。それは彼らの出来事だし、その「死」の定義も、彼らが決めることなんだ。…それは、僕自身も、この人生において、同じなのか…。
僕は、桜の「小説用メモ」をカバンにそっとしまうと、体育館倉庫を後にした。
僕にはまだ、これから、みんなのためにやらなければならない事があるのだから。
おしまい