7章:ラプラスの悪魔はシュレーディンガーの猫の夢を見るか(第15話)
「上小田井くん…。わたしたち、どうなっちゃうのかな?」
「創薬がストップになっちゃったら…本当に戦争になっちゃうのかもしれない…」
「わたしたち、殺されちゃうのかな?」
「そうだね…。戦争になっちゃったら、スキルを持っているぼくたちは、真っ先に殺されちゃうかもしれないね。…もしかすると、証拠隠滅のために、おじさんたちに殺される可能性もあるかも…」
「…そっか…」
「呼続さんは、怖くないの?」
「怖いよ。怖いけど…わたし、もう2回も死にそうになって、助けられているから…」
「あ…そうだよね」
「…わたしのかわりに2人も死んじゃったのに…わたしは生きてるんだよ。だから…本当を言うとね、生きている事も、怖いんだ…」
「…………」
「…………」
「…ぼく…少し前に読んだ本で、すごく印象的なシーンがあったんだ。ファンタジー冒険物語なんだけれど…」
「印象的な…? どんなお話だったの?」
「ちょうど、ぼくと呼続さんくらいの男の子と女の子が、鳴海さんたちよりちょっと年上くらいの大人たちと一緒に、大冒険をするんだ。けれど、旅の途中の迷宮で、針が沢山ついた天井が下がってきて、押しつぶされるトラップにひっかかちゃうんだ」
「うんうん…」
「男の子と女の子は、2人とも魔法使い。仲間を助けるための、あるアイデアを思いつく」
「…どうなっちゃったの」
「それが…2人は、お互いに石化の魔法をかけて、石になるんだ。天井を支える形で石化した2人のおかげで、仲間たちは助かったんだけれど…」
「2人は、ちゃんと元に戻れたの?」
「戻れない。2人は、戻れない事を知っていて、仲間たちに何も言わず、2人で犠牲になる道を選んだんだ」
「…かわいそう…」
「冒険の仲間たちの中で、一番年下の子供だった2人がこんな決断をした事が、ぼくにとっては凄くショックだったんだ…。えへ、読んだ日は、なんだか胸がモヤモヤして、寝られなかったな」
「そうなんだ…」
「それでね…呼続さん。もし、このお話が本当だったとしたら…」
「え?」
「本当にあったお話だとしたら、どう思う?」
「そんな…とってもかわいそうで、泣いちゃうな…。でも、その決断をした2人は、とっても偉かったと思う」
「ぼくも…同じ気持ち」
「上小田井くん、優しいもんね」
「…ねえ…呼続さん。もし、ぼくと呼続さんの2人で、この物語の男の子と女の子みたいに、石になって、鳴海さんとか桜さんとか、もっともっと、この国の多くの人の命を助けられるとしたら…」
「ん?」
「もし、助けられるとしたら…呼続さんは、どう思う?」
「上小田井くん…それって、わたしが石になれるかどうか…って、そういうこと?」
「…そうだね」
「上小田井くんと一緒に?」
「うん」
「そっかぁ…。うん。石に、なれるよ。上小田井くんと一緒だったら、なおさらね」
「ほんとに、本当に?」
「どうしたの? 上小田井くん」
「…ぼく、沢山の人を犠牲にしなくても、ちゃんと量子コンピュータを動かして、薬を作れるようにする方法を、知ってるんだ」
「ほんと? そうなの? 上小田井くんってば、すごいね!」
「でもね…。でもね。これをするためには、ぼくと…呼続さんの2人が…犠牲にならなくちゃいけないんだ」
「犠牲に…? 死んじゃうってこと?」
「……死んじゃうかどうかは…わからない。生きてもいるけれど、死んでもいるような感じかな。…あまり意識がないまま、永遠に彷徨わなくちゃいけないかも…。確率論の世界で…」
「…そっかあ…。石になれるかって…そういうことだったんだね」
「うん…」
「上小田井くんの考えている方法について、教えてくれる?」
「うん、もちろんだよ。でも…ちょっと難しい話になっちゃうかも」
「いいよ。きかせてほしいな。よくわからないかもしれないけれど、それでもいい。ききたいな」
「わかった…。じゃあ、ぼくの考え方をお話するね」
「うんうん」
「薬を研究するために量子コンピュータを動かすんだけれど…ぼくだけの力でやると、1年間も時間がかかっちゃうし、本当に多くのスキル者を犠牲にしなくちゃいけないんだ」
「さっき、おじさんが言っていた事だよね?」
「そうだね…。でも…ここに、呼続さんの力が加わると…多分、1年も時間がかからずに計算できるようになるし、スキル者を1人も犠牲にしなくても済んじゃうかもしれないんだ」
「…それって、本当に?」
「うん。でも、これには、2つの事をしなくちゃいけない」
「2つ…」
「1つ目は、呼続さんのスキルをぼくのスキルと組み合わせて、量子コンピュータを動かす事」
「わたしのスキルって…。わたしのスキルじゃ、コンピュータを動かす事はできないよ?」
「コンピュータはぼくのスキルで動かすから安心して。呼続さんのスキルでやって欲しいのは、量子的ゆらぎを『ゼロ』にする事なんだ」
「量子的…ゆらぎ…?」
「ぼくのスキルの最大の弱点は『観測』をしないと量子の場所を確定できない事と『観測』の精度がよくないこと。これのせいで、10,000量子ビットを動かしても1年もかかっちゃうんだけれど…。呼続さんのスキルは『ラプラスの悪魔』なんだ。このスキルは、量子的ゆらぎを完全になくす事ができるスキル…。もっというと『観測』そのものを不要にしてしまうスキル…」
「それって…つまり、どういうこと…?」
「訂正アルゴリズムを使わなくても、ものすごく正確な計算が、恐ろしい速度でできる事になるんだ。もしかすると…1年かかる計算が、それこそ1週間とか、そのくらいでできちゃうかも」
「そうなんだ! それって、凄いよね…。あれ? 1週間でおわるなら、本星崎お姉ちゃんとか鳴海お兄ちゃんとか、みんなの命を助ける事ができるのかな…?」
「残念だけど…計算が早く終わっても、薬を作るのにはそこからまだ何ヶ月もかかると思うから、それは無理だと思うな…。でも、多くの人が助かるのは間違いないよ」
「そっかあ。じゃあ、わたしたち、頑張ってやらなきゃね。あ…でも、もう1つの事…って」
「うん…。そっちが、ぼくたちが『石になる』って事なんだけれど…」
「…うん。おしえて」
「ぼくが量子コンピュータを動かすと、1分で1人以上のスキル者を犠牲にしなくちゃいけないのは、さっきおじさんが言った通りなんだけれど…。これを回避する方法があるんだ」
「回避する…方法?」
「うん。それは…。それは『ぼく自身と呼続さんを、確率論的世界に閉じ込める』こと」
「上小田井くん…わたし、よくわからない。よくわからないけれど、それをすると、上小田井くんとわたしは…死んじゃうの?」
「死んじゃうかどうかは…正直ぼくにもわからないんだ。でも、死んだのと同じことにはなると思う。これをやると、ぼくと呼続さんは、確率論的世界から、2度と戻る事ができなくなる…。だって、存在を確定するための、唯一の『観測者』である、当のぼくが、いなくなっちゃうわけだからね」
「そっか…。そうなんだ…」
「あの目隠しの女の子を『観測』した時に、気づいたんだ。確率論的世界では、ぼくたちが想像していたようには時間が経過していない、って事に。であれば、量子コンピュータを動かしたままぼくたちが確率論的世界の住人になる事で、崩壊フェイズを迎えずに、長時間計算させる事ができる」
「上小田井くん、この扉を開ければいいの?」
「前に一度だけ、おじさんに案内して貰ったことがあるんだけど…この扉は、ぼくのIDカードや生体認証では入れないんだ」
「じゃあやっぱり、鍵を壊す必要があるってことなんだね」
「うん。またおじさんに叱られちゃうかもしれないけれど…。仕方がないよね」
「ふふふ。叱られる時には、わたしたち『石』になってるんだよ」
「あ…えへ、そうだったね」
「…じゃあ、扉を開けるね。…えいっ」
「…うまくいった?」
「うん。もう開くと思うよ」
「…あ、本当だ。すごいスキルだね。音も何もしなかったのに…」
「扉に大きな穴を開けて、入れるようにする事だってできるよ」
「そっか、そうだよね。でも、それだとすぐにバレちゃうね」
「うふふ。そうだね」
「これが…この国を助けるコンピュータ? なんだか、古めかしいね」
「あえて、古いコンピュータを流用しているからね」
「大人の人がいなくても、大丈夫かな?」
「誰もいなくて、好都合だよ。アルゴリズムを起動させたり、CPUを量子コンピュータに切り替える作業をする人が必要だけれど…置き手紙をしておくつもり」
「そっかあ」
「呼続さん…。いよいよだけど…。心残りはない?」
「ない…と言ったらウソになっちゃうかな。そうだね…もう一度だけ、本星崎お姉ちゃんと、クリームコーヒーを一緒に飲みたかったかな」
「クリームコーヒーを? えへ。呼続さんらしい心残りだね」
「うん。でもね、わたしが上小田井くんと一緒に頑張る事で、また平和になって、本星崎お姉ちゃんがクリームコーヒーとか、酸っぱいものとかを、左京山お姉ちゃんみたいなお友達と一緒に楽しめる世の中になるんだったら、それでいいかな…って」
「…呼続さん…。ぼくは、本当は、呼続さんには生き続けて…」
「ん? なあに?」
「…ううん。なんでもないよ。じゃあ、量子コンピュータの電源を入れるよ…」