7章:ラプラスの悪魔はシュレーディンガーの猫の夢を見るか(第3話)
「はい。はい…。ええ、そうですな。ええ…。1111番はあなたが期待している以上に優秀といって差し支えないでしょうな。問題は要求仕様です。さすがに誤り訂正精度となると…。はい。ええ。ええ、その通りですぜ。…ふむ。なるほど。やはりそうなりますか…。わかりました。まあ仕方ありませんな。ええ。ええ。はい。はは、本気ですか? それを私にききますか…。そうですな。今期のお勧めは…ええ、邪神ちゃんってところですな。ええ。シーズン1から観ることを…。原作? いや…この話はこのくらいにしておきましょう。それよりも、施設の扉が故障ですぜ。これじゃ機密情報がガバガバになってしまう…。まあそうですな。内部にスパイでもいない限りは、ってやつですか。へっ。だったら、私を真っ先に疑ってはどうですか? ご趣向ってもんで…いや、やめときましょう。ええ、わかりました。そうします。では」
「結局、どうなりましたか?」
「お前の観測スキル精度の向上を待つのは、なしだ。今のアルゴリズムで1年かけてやる。…あの上司、本気でアニメにハマりやがった…」
「えへ…大人でも、アニメが面白いんですね」
「知ってるか? 実写とアニメでは、視聴時に反応する脳内の箇所が異なるらしいぞ。脳の様々な場所を活性化させる特権は、なにも子供だけのものじゃない」
「そ、そうですか…。でも、大人になってもアニメが楽しいというのは…ちょっと安心しました」
「へっ。それは、お前が大人になるまで生き延びる事ができれば、の話だがな」
「そうでしたね…」
「お前はいい子だ。できれば生き延びさせてやりたい。だが、その前にお前は、この国が外交をするにあたっての論理武装と、多くの幼いスキル者を延命するために、量子コンピュータを動かすんだ」
「ええ、わかっています。頑張ります」
「いいだろう。創薬が成功してお前の寿命が人並みになったなら、とっておきのアニメを紹介してやろう。いや、ゲームの方がいいか。俺は実はアニメは詳しくないんだ」
「詳しくないっていう人の方が、詳しいって言いますよ」
「一般論で俺を縛り付けるな。詳しいか詳しくないかは俺が決める。それよりも、施設の扉だ。故障してやがった。知ってたか?」
「いえ…。ぼくは、あまり出入りする事がないので」
「そうか。そうだったな。知っての通り、この施設に出入りするためには、この首から下げているストラップに入っている認証カードに加え、虹彩認証が必要だ。虹彩認証が通らない場合はパスコードで代替できるが、パスコードはアドミニ権限者しか知らない。つまり、俺だ」
「厳重だという事は、よく理解ができました。その扉が、故障したんですか?」
「故障だ。認証を通らなくても、開いちまう」
「認証システムが故障したんですか?」
「違う。認証システムは正常に動いている。むしろ、物理的な鍵の方が故障している。つまり、今、認証システム自体は最高にハイテクなオモチャと化している訳だ。あとで遊んでもいいぞ。ああ、むやみにエラーを起こさせると、セキュリティの人間が飛んできて、稼働費という名の税金を無駄にするから、それはやめておけ」
「物理的に故障してるなんて…。おじさん、ものすごく強い力で開け締めしたんじゃないですか?」
「俺がか? それはない。俺は物を大切にするタチだ。扉の開け締めをする時は、初潮を迎えたばかりの娘を抱える父親の心境のようにデリケートに扱うが俺の流儀だ」
「そ…そうですか。だとすると、不思議ですね」
「そうだ。不思議だ。とにかく、修理の手配はした。もっとも、この施設の場所を知っている人間は限られているし、出入りする人間はもっと限られている。そして、当然だが監視カメラは万全だから、少し調べれば壊れた理由もわかってくるだろう」
「わかりました…。じゃあ、ぼくはこの件については、あまり気にしないようにしますね」
「ああ。そうしてくれ。心配事はできるだけ少ないほうが、人生は豊かになるだろう」
「それで…量子コンピュータの稼働開始ですが、いつから実施しますか?」
「まだだ。1年間継続して動かすにあたり、お前にあてがう必要のあるスキル者の命がいくつになるかの計算が終わっていない」
「あ…。そうか…。そうでしたね…。気が重いな」
「失われる命よりも、救われる命の事を想像して気を軽くしてくれ」
「そう言われても…難しいですよ…。人の命ですもの」
「お前はリストラという言葉を知っているか」
「リストラ…ですか? 解雇のことですか?」
「正確には違うが、とりあえずその認識でいいだろう。俺の友人で、民間企業の人事部の部長をしていた人間がいる」
「していた…ですか」
「いいぞ。日本語は主語も時制も曖昧な奥ゆかしい言語だが、論理的に物事を考えるためには、細かな言葉の機微を捉え損なわないことだ。そして、その通りだ。そいつは、今は人事部の部長ではない。なぜか。業績の悪化に伴い、多くの人間をリストラしなければならなかったからだ」
「リストラをしたら…部長をやめなければならないんですか?」
「そんな規則はない。だが、リストラが意味するところを少し深読みすれば、理由は明確だ。リストラで解雇された人間たちには、当然、本人の生活があれば、家族の生活もある。誰をリストラするかを選定し、実行する事は、まさにその本人および周辺の人間を露頭に迷わす事と同義だ。自殺する者もいるだろう。俺のように殉職さえ厭わない仕事人間であれば、まるでロボットであるかのように冷淡に解雇通知を連発し、そして自分自身は罪の意識に苛まれる事もなく、のうのうと、その会社に居座り続けるだろう。だが、そうではない多くの人間は、良心の呵責に耐えられなくなる。…まあ、ロボットが冷淡というのは全くの偏見だがな」
「リストラをした人は…最後は、自分自身をリストラしてしまう、という事ですか?」
「大義があれば、人は大抵の悪事には目を瞑れる。要は、使命感だ。いいか。俺たちには大義も使命感もある。そして、他の人間には代替できないかけがえのない人材だ。だから、多くの不憫な子どもたちをリストラする事になったとしても、自分自身だけはリストラしてはダメなんだ。わかったか?」
「…わかりました」
「へっ。ならいい。俺は、既に、あまりにも多くの命をリストラしてきちまったからな…。今更止まれないし、今更自分自身をリストラできないってわけだ」
「でも…ぼく、これから1年…ここから出られないのか…」
「1年だ。365日だ。地球が1回公転する時間だ。どうした? 量子コンピュータに拘束される前に、やっておきたい事でもあるのか?」
「そうですね…。許してもらえるなら、もう一度みんなと会っておきたいな…。だって、ぼく、ここで1年間過ごして、次に外に出た時には…おそらく、鳴海さんも、桜さんも、豊橋さんも、呼続さんも…その他のみんなも、もう死んじゃってますよね…。それは残念だな」
「なるほど。それには同情してやる。色気も何もない1163番の見舞いだけでは不憫というものだろう。…そうだな…。一応の量子コンピュータ稼働の目処はついたんだ。少し長めに、お前の外出許可をとってやるとするか…」
「本当ですか?」
「俺の権限では決められんが、上司がアニメに夢中になっている時間くらいは外に出してやる」
「ありがとうございます!」
「くれぐれも、お前の命は、既にお前自身だけの物ではないことを忘れるな。1162番を監視役につけるだけなら税金もかからんが、そうもいかん。自衛隊員を何人か待機させる。お前の自由時間の1時間は、高校生バイトの100時間以上の価値に等しい事を忘れるな」