利己主義によって人類は滅亡する
利己主義によって、人類は滅亡する。
もし、自分さえ良ければいいという考え方が広く人々の心に浸透していけば、その結果として必ず、人類は滅亡することになる。これは、直観的な予言ではなく、論理的に導出して証明できる事実だ。
それが事実であってしまう原因の一つとして、人間という動物の心の性質がある。それはすなわち、正常性バイアスや自己正当化のために、現実そのものではなく願望を現実として認知してしまう心の性質が、それである。
利己主義に陥っていくほどに、言葉や思考から、社会的な責任観念は失われていく。不都合に見えた外的刺激に対して、単に正常性バイアスや自己正当化を補填する反射として、一貫性のない言葉や思考で反応する動物になる。社会は、現実を見ることができない個人の集合になっていく。結果として、集団的な戦略的な防衛能力を喪失していく。人間同士背反し、部分部分が簡単に買収される構造になる。
社会的な責任観念なるものが、歴史的な人類には備わっていただろうか?
最下層の大衆は古代から常に、自身の寝食を得るために精一杯だったかもしれない。しかし、自己犠牲は英雄の徳として常に語り継がれたし、広く人々を愛することこそが人の上に立つ指導者の資格だとも見なされた。血統や民族や祖国は誇りを伴って意識され、それらへの一定の献身が人間の道だと語り継がれた。個人としての私利私欲のために人生を送ることは、それ以上ない恥だと考えられてきた。
時代は変わり、倫理主義を言う人々がむしろ侮蔑されるようになった。それは、敗戦国である日本において最も顕著だった。日本人は背骨を抜かれて衆愚と化し、国力は失墜した。愛国心を言えば嘲りを受ける国が誕生した。強い国に挑戦した歴史は愚かだったと、正しい選択をすれば悲劇は避けられるのだと願望する、それは正常性バイアスがもたらした認知だ。正しく賢い人々が惨めに苦しんで死んでいく現実には、人々の心は耐えられないのだ。
しかし、倫理主義が無価値だと人々が思うことと、現実に倫理主義が無価値だということは異なる。利己主義に溺れてうまくいくと人々が思うことと、実際にそうであることはまったく異なる。愚かな人々が地獄に向かって行進していく時、それが地獄への行進だと自覚しているとは限らない。
ならば、正義だとか良心だとか思いやりこそが価値だと感覚する人々は、社会を理解する力に恵まれたエリートだと言える。
大衆という知的障害者達は、例えば東京大学に行く人々が賢いと思っている。
現実には、学歴と知力は相関しない。
もちろん、学歴とある種の知力は相関して、数理的な思考能力や言語的な記憶能力といった既存の学校で測りやすい知的能力は相関するが、それは人間の知力のまったく一面にすぎない。
現代の社会は、学歴による階級社会だ。官僚にも、企業の役員にも、報道にも、教員にも、権力ある地位にほど高い学歴の人々が就いている。しかし、彼ら彼女らが、社会や歴史について語る時、その程度は一様に低い。例えば、現代の社会が利己主義に堕落していくことの弊害を深く理解している人々は、まずいない。それは当然であって、学歴による階級社会、あるいはそもそも、現代における知力の定義は、市場原理や技術発展が必然的にもたらしたものにすぎないからだ。
例えば、物質的な経済発展と人間の精神的な幸福は異なる。もしも技術が発展すれば、個人を箱に入れて管に繋げば、形式的な長寿は可能だろう。しかしそれは、歴史的な人類が思い描いた幸福ではない。友人や恋人が鞭打たれ悲鳴を上げていても平気なように人々の思想を作り替えていけば、隣人が屠殺されても個人はストレスを感じなくなっていくが、それは歴史的人類が思い描く幸福ではない。なぜなら、自然選択によって形成された本能には、近縁な遺伝子が不幸になっていくことへの危機意識が備わっていたからだ。
つまり例えば、人間同士が背反し、人類社会の部分部分が買収されることは危険だと、歴史的な本能やエリートとしての矜持は語る。
例えば、人類の格差が増大したとして、超富裕層は民衆を愛しているだろうか?
それを示すためには、超富裕層は民衆を誰よりも愛しているがゆえに超富裕層になったのか?、と問いを入れ替えればいい。
そしてその命題は、明らかに事実ではない。現代的な超富裕層は一般に、技術的なイノベーションなどで経済的な利益を得たにすぎない。すなわち、技術発展に貢献した者が権力を手にする構造がある。それは言い換えれば、技術発展に貢献した人々から順に、技術が王に任命しているのだ。つまりは、現代社会とは、人間が主体になって駆動されているものではない。超富裕層すらが、何を自覚する知力も持たず、技術の利益のために民衆を裏切る走狗として隷属させられる傀儡にすぎない。
すなわち、悪意に満ちた権力者なるものは実在しない。悪しき権力者は単に、大衆的な愚かさに満たされているだけだ。
そのような状況に置かれたエリートは、人類の破滅を回避したいと思う。
それは、民衆の幸福が破壊されれば次は自分の立場が危うくなるという手段的な利己心ではなく、民衆の幸福そのものを守らんとする直接的な欲求だ。
なぜなら、そうでないならば自己欺瞞に逃げればいいのだから、正義の価値を知る真理に到達することはない。そしてまた、正義の価値を深く感覚できないなら、そもそも真の意味でのエリートではまったくない。
すなわち、エリートは、公的な、言わば人類としての自我を持っている。
そしてすでに述べたように、人類の滅亡を回避するためには、大衆が利己主義に堕落していく事態を避けることが、絶対条件となる。
そしてそのためには、世俗的な利己主義に堕落した既存の権力構造を是正せねばならない。
例えば、金銭や学歴、ひいては外見などが価値と見なされて、その世俗的な価値観を恥だとまるで思わない思想を、是正する必要がある。人間の内面の思いやりや親切心こそが、それらにずっとまさる価値だと、民衆一般に通念される文化をかつて以上に取り戻す必要がある。
そこにおいて、民族主義や国家主義が一定の正当性を備えることは、当然に必要なことだ。民主主義的な発想や、人権思想や個人の自由が一定の制約を受けることは、欠かせないことだ。
言論の自由という意味では、日本や米国には一定の自由があるのに対して、中国やロシアはずっと劣っているように見える。体制のメインストリーム以外の議論が封じられてほとんどできない状況は、危機に弱い不健康な社会を導くものであって、致命的にまずいことだと思われる。
そうして、言論の自由がないと仮定したところの中国やロシアが、権威主義的な専制や圧政を行っているとしよう。民主主義を批判することは、自然と、その観点からの批判を受ける。
しかし、そのような批判に対して自説の正当性を論理的に示すことはなお簡単だ。
なぜなら、良心の多寡は、資本主義や社会主義といった体制の属性よりもずっと、根本的な価値だからだ。
西側の体制に正義があると謳われても、もしもそこにおける民衆の良心が利己主義へと没落していくならば、その正義を言葉通りには受け止められない。そうかと言って、東側の社会における民衆においても、硬直した体制崇拝の半面、利己主義への堕落が見られるなら、自動的に東側が肯定されることもない。
それは自然であって、共産主義は、大衆主義であり、大衆主義だという意味で実に民主主義だ。資本主義も共産主義も、利己的な大衆にとって耳触りの良い哲学を並べる。それらは、大衆が利己的であることを悪く言わない哲学として、近代に新しく登場したのだ。
よって時代をさらに遡るなら、市民革命の正当性を疑うことになる。王や貴族は邪悪であって、人間は平等であるべきだと訴えた市民革命が、その言葉通りに善良な合理性を背景にしていたのか、疑うことができる。
そして、同じ論理で、歴史的な市民革命の絶対的な正当性は崩される。
なぜなら、市民革命が合理的な善意を動力とするものであったならば、市民革命の歴史を経て社会思想はむしろ利己主義から遠ざかっているはずだからだ。良心の大切さや、良心に恵まれた人々ほど地位を得ることの大切さは、庶民において当然の事実として通念されているはずだからだ。
しかし現実には、平等主義の訴えは、私益を願ってのものにすぎなかった。そのためにそれは、実態としては平等主義ではなかった。
そのような反階級的で個人主義的な平等主義の由来を歴史を遡って検討すれば、例えば西洋キリスト教の長い歴史は見逃せない。
そしてキリスト教思想を検討すれば、それが少なくとも半面で、個人主義への堕落にすぎなかったと分かる。なぜなら、階級を全面的に否定する思想は、正義感の美徳やその血統を否定するものであって、実に大衆主義そのものだからだ。
つまり、キリスト教は、信じた人々の気分が良い代わりに邪悪であって、キリスト教国家である米国がかつて日本に核爆弾を落としたことも、偶然というより必然だ。
ならば、エリートが、人類の滅亡を阻止するために民衆の良心を助長したがったとして、そこにおいて戦うべき敵は、数千年の昔から存在して、人々に毒を注入しつづけてきたことになる。
そのような相手に勝てるかと言えば、勝てる見込みはそもそもない。日本がかつて米国に対して戦った戦争と同様に、ただ、真理に近い者として生まれた責任を果たすのみだと言える。それは、負けたら失敗だとか、死んだら失敗といった性質のものではない。
現代世界の人々にもそれなりの良心があると思う人々もいる。
太平洋戦争が邪悪な戦争として不当に唾棄されたとしても、世界そのものは一応前進していて、破滅の危機が目前に迫ってなどいないと思う考え方もありうる。
しかし現代は、愛国心に真剣なウェットな人々が地位を与えられる時代ではない。
現代は、人情で駆動されているというより、ルールで駆動されていて、その方向性は今後も変わりそうにない。そこにおいて、人情こそが大事だと信じる人々は、目立たないかもしれないが、確かに淘汰されつつある。一方で利益を得ているのは、保身や技術力を大切に思い、それらに注目して生きる生き様に満足を感じる人々だ。
よって、エリートの血統は、淘汰されつつある。知的で善良な若者から順に、今日も戦線で戦死しつつある。
世界は、進歩などしていない。
それをいくらか理解した、妥当な社会思想が人々に行われれば、太平洋戦争等の日本の近代史に対する評価も必然的に是正されるに違いない。
よって、それが事実上わずかにも是正されていない、国内および国外の現状は、人類が順調に破局に向かっている足跡を示している。
極めて知的かつ極めて合理的に判断しても、戦争になることはある。そこで無数の人間が死ぬこともある。戦争に負け、敗戦国として不利な立場で生きていかなければならなくなることもある。
あるいは、軍事的な意味でなくても経済的な戦争は常に行われていて、赤い血が流れ出るのを目にせずとも、お金の分配を通して人々の血は流されている。人類はいつだって戦争をしている。同盟国とはいえ、お友達では決してない。ある種の敗戦国は、そんな現実を見ることもできないほど精神が幼稚になる。非武装中立主義なるものを唱えたりする。
自分さえ良ければいいと思う人間の言葉の、なんと無責任なことか。
学校へ行けば、生徒も教師もみな、私利私欲に生きている。
社会に出れば、同僚も上司もみな、私利私欲に生きている。
私利私欲に生きることを恥だと思う日本人は、見当たらない。
卑怯を恥だと思うのが日本人だったのに、日本人がもう見当たらない。
卑怯だと罵っても痛痒を感じない相手に、罵るべき言葉もない。
正直な者ほどサンドバッグにされて、やがて死んでいく。
誠実な者ほどサンドバッグにされて、やがて死んでいく。
善良な者ほどサンドバッグにされて、やがて死んでいく。
知的な者ほどサンドバッグにされて、やがて死んでいく。
そんな世界は変えなければならない。しかし、変えられない。
生き残った人々は、賢いから勝利して生き残ったと思って、死んでいった者を見下して笑う。
国のために散っていった若者達を愚かだと笑う。
馬鹿が。