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路地裏の老人

作者: 胡姫

ある晴れた日のことだった。何某は市場での買い出しを終えて帰宅する途中、どう間違えたのか細い路地に迷い込んでしまった。これまでにないことであった。何度も来ているが市場で迷ったことは一度もない。奇妙なことだと思いながら何某が路地を行くと、夕闇の中に一人の老人が蹲っているのが見えた。

老人は白髪痩身、鶴の如き風貌でどこか仙界の人を思わせた。よく見ると老人は路上に童子が遊ぶような文様を描いているのだった。やや大きな丸が一つ、小さめの丸が二つ。孫と遊んでいるのかと思ったが近くに子供らしき人影はない。それどころか人の気配は絶えている。不思議なほど静かな路地であった。

帰途を急いでいた何某は行き過ぎようとしたが、ふと心ひかれるものを感じて老人を顧みた。すると意図せず白髪の中の半眼と目が合った。

「お爺さん、何を描いているのだい」

何某は声をかけた。白髪の中の老人の目が笑った気がした。

「天下のことを占っていたのだよ」

「ほう、天下とは豪気だね」

「それを踏んではいけないよ」

何某の足元に大きめの丸があった。

「踏んだらどうなるのかい」

老人は長い白髭を揺らした。笑ったらしかった。

何某は踏まないよう気を付けたつもりだったが、うっかり大きな丸の一部を踏み消してしまった。ちょうどふたつの小さな丸と交差するあたりであった。これはいけない、と老人を振り返った何某は、思いがけず老人から小さな果物を差し出された。

「お若いの、蜜柑はお好きかね」

皺だらけの手から差し出された蜜柑を、何某は受け取った。勧められるままに橙色の皮をむくと柑橘の香りが路地裏に漂った。口に含むと蕩けるほど甘い。食べたことのないほどの美味であった。

「誰にも言ってはいけないよ」

何某は頷いた。すると夕闇も路地も消え、何某は昼下がりの市場の喧騒の真ん中に忽然と立っていた。


「…ということがあったすぐ後に赤壁の敗戦があったもんでね、なんか気になっちまって。俺が踏み消しちまった大きな丸は、もしかしたら魏王様の領地じゃなかったかとね」

「ふうん、そんなことがあるもんかね」

「だってよ、魏王様が負けるなんて誰も思ってなかったじゃねえか。爺さん、天下を占うって言ってたんだぜ。もしかして俺は魏王様の勝ちを踏み消しちまったのかなあ」

「夢でも見たんだろうさ」

「そうかなあ。でも誰にも言うなってあの爺さん…あ」

何某が何かを思い出したように声を上げるのと、口から血を吐いて倒れるのはほとんど同時だった。仲間が慌てて助け起こした時にはもう、何某はこと切れていた。


本当は言わないつもりだった、と何某の唇が動いたが、それに気づく者はなかった。

死後、何某の腹からは、臓腑の代わりに大量の蜜柑が出てきたという。


               (了)

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