十種神宝の秘密
この作品は、拙者のブログ「三文クリエイター」に掲載したものを改稿したものです。
興味がある方は、そちらの方もよろしくお願いします!
餓鬼狩り (第一回)
プロローグ
古ぼけた賽銭箱の上に、人の首が二つ。
若い男女の首が、寄り添うように置かれていた。男の首には顎がなかった。惨たらしい男の首の傍らには、髪の長い女の首。女の首には眼がなかった。
鴉が鳴いた。
右の眼が潰れている鴉が、赤い鳥居の上で鳴いた。
潰れている右の眼は、コールタールと、黄色い腐什を混ぜ合わせたような脂で彩られていた。
左の眼は潰れてはいない。怪しい光を湛えている。蛍のよう光る眼は、体内に充満しているどす黒い感情を、そこから噴き出しているかのようだった。
鴉が羽ばたいた。さして広くもない境内を飛び回った。境内を飛び回り、やがて苔むした手水舎に細い脚を下ろした。
手水舎の窪みには、辺りの清涼な涼気を映し出すような水が湛えてあった。
鴉は頭を垂れ、水面に自分の醜い貌を映し出した。しばらくの間おのれの貌を見ていた。
曇り空から照らされる鈍い午後の陽光が、鴉の羽を、どす黒く光らせる。
鴉は飛び立ち、対座している八つの灯篭の中を潜り抜けた。灯篭を潜り抜け、土くれがはみ出している石畳の上に、羽を休ませた。
石畳の上に降りた鴉は、対になっている狛犬を、かわるがわる視た。
右側の阿形の狛犬の口の中に肉片があった。
女の細く滑らかな手の指であろう。五つ、六つ、血に染まってそこに置かれてあった。
左側の狛犬に眼をやると、吽形の狛犬の胴に、腸らしきものが巻きつけてあった。
人の腸なのだろうか。吽形の狛犬の周辺には、腸の持ち主だったと思われる無残に引き裂かれた女のワンピースと、ズタズタになって原型をとどめていないピンク色のハンドバックが散らばっていた。
樹齢三百年とも言われる御神木の周辺には、男物の緑色のジャンパーが、ぼろきれのように切り裂かれてあった。
鴉は一声啼くと、曇り空の中に入り込んでいった。
I県鹿沼市東小路広場の公園に、夜でもこんこんと水を噴きだしている噴水があった。
噴水の中央には三メートルほどの白い女神像が置かれている。女神像は、左肩にくすんだ桜色の壺を載せていた。壺はネック・アンフォラと呼ばれるものだった。壺から溢れ出た水が、女神像の体を濡らし、白い女神像の足元、ロココ調の台座を打つ。夜の闇に響く水の音は、闇に黒く染まった公園を、より陰湿にしたものにしていた。
噴水から、五メートルほど離れた場所に石造りのベンチがあった。昼にここに訪れる人々が、食い散らかしたのであろう。ベンチの上に、喰いかけのウインナーと、半分食べた鮭の切り身などの、くずが散らかっていた。
夜の闇が、おぼろに光った。
光の中から少女が現れた。少女は一人ではなかった。一匹の大型の犬が少女の傍らに寄り添っていた。
少女は、淡いクリーム色の胴衣と、紺色の袴をその身に着け、真っ直ぐに胸まで伸びた長い黒髪を風になびかせていた。白陶器のようななめらかな白い肌と、憂いを帯びた切れ長の瞳は、この少女だけが持つ可憐さを引き立てせているようにも見えた。
大型の犬は、赤色に近い茶色の毛並を持っていた。頭と胴に青い鋼鉄製の防具をつけている。白い鼻先と太い眉が犬の精悍さを際立たせ、巻き毛の尾と三角耳が、精悍さの中に親近感を抱かせているようだった。 少女に同伴している犬は秋田犬の特徴を備えてはいるが、秋田犬ではない。違う種の犬だろう。いや犬ではないのかもしれない。辺りを用心深く窺っている姿は、犬というより、人の立ち振る舞いのようだった。
少女と犬は、噴水の前に立った。ロココ調の台座を凝視する。
「……間に合わなかった」
少女が悲しそうに呟いた。傍らの犬がうなり声をあげる。
「いいのよ……。呂騎」
少女は、辺りを見渡した。
「奴らは、もうここにはいない……」
少女は睫毛を揺らした。左手で、犬の頭部を軽く撫でる。
犬の瞳が怪しく光る。犬の瞳に十字の光が灯り、やがて、少女と犬は忽然と姿を消した。
男が一人、夜の公園にやってきた。近くにある飲み屋街で、一杯ひっかけてきたのだろう。千鳥足で歩くその姿は、いまにも倒れそうだった。
一陣の風が吹いた。寒気を伴った風だ。寒風は公園の花壇に咲き誇っている紫色のヒメスミレや、赤いチューリップの花弁を、容赦なく散らす。
春の花たちの残骸が、男の汗ばんだ頬にひっついた。男は頬に取りついた花びらをごつごつした掌で取り払った。
石造りのベンチに座って、夜空を仰ぎ見る。
夜空に半熟卵を蒸したような満月が、一つ浮かんでいた。
男は、体の中に滞在しているアルコールを吐き出すような、長い溜息をついた。
(なにも変わらない……。なにも変わらない……。毎日一生懸命働いても、同じような日々が続くだけ……。この先、良いことなどあるものか……)
男は自嘲すると、石造りのベンチから立ち上がった。ふらふらと歩き、女神の像の噴水の前までたどり着く。へりに両手をつき、ロココ調の台座を見た。
ロココ調の台座の上に、バスケットボールのようにも見える異物が、三つ置かれてあった。
男は澱んだ眼を、それに向けた。
(なんだ? なにが置かれてあるのだ)
見慣れたものがそこにあるのだが、男にはそれがなんなのか分からない。
(これっ、こんなところにあっていいのか)
男はアルコールで麻痺している頭を二、三回 叩いた。ロココ調の台座に近づく。男はそれを手に取ろうとした。手が途中で止まった。男はその場に尻もちをついた。口をわなわなと震わせ、髪の毛を逆立てる。ションベンでも漏らしたのだろうか、足元が黒くにじんだ。
台座に置かれていた三つのもの……。
「ひっっー」
男は悲鳴をあげると、這いつくばって、その場から逃げた。
男の見たもの……。それはいたいけな幼児の三つの首だった。
1
三日、経った。
週末……。午後九時過ぎ。ウ二漁やアワビ捕りに使うザッパ船が数隻たむろしているだけの簡素な漁港で、二人の刑事が、一人の男を追いつめていた。
男は、この街ではあまり見られない黒い山高帽を目深に被っていた。顔を覆い隠すような白いマスクを着用し、灰色の薄汚いトレンチコートを無造作にはおり、マスク越しにせせら笑っていた。
男の傍らに黒い犬がいる。犬はその姿から甲斐犬と思われた。低くうなり、男を追いかけてきた刑事たちを威嚇していた。
二人の刑事は、この男を一時間前から追っていた。
一時間前、男は警ら中のパトカーの前にいきなり飛び出してきた。パトカーを制止させるとボンネットの上に飛び乗り、しゃがみこんで、パトカーの中にいる刑事たちを嘲笑した。
刑事たちは、あわててパトカーの中から外に出た。男はボンネットから飛び降りる。トレンチコートをひるがえし、黒い犬と共に、その場から逃げたした。
男と黒い犬は、浜の近くにあった荒れ果てた鉄工場跡に入っていった。男と犬を追った刑事たちは、腰まで伸びていた薄緑の雑草を、脚で乱暴に蹴散らし、投げ捨てられていた錆びた空き缶を踏みつけながら、男と犬が逃げ込んだ鉄工場跡に入って行く。
男は、構内に散らばっておいてあるダクタイル鉄管の上に腰かけていた。
刑事たちが、男の様子をうかがうと、男は、こちら側に背中を見せたまま、けだるそうに首を左右に揺らした。
二人の刑事は、男に慎重に近づいて行き、声をかけた。
男は目深く被っていた黒い山高帽を脱ぎ捨てた。マスクを乱暴に取り外し、立ち上がって、灰色のトレンチコートを刑事たちに向かって投げつけた。
「きさま、どういうつもりだ」
二十代前半と思われる若い刑事が、投げつけられた灰色のトレンチコートを払いのけた。
男が、雄たけびをあげる。
大気を震撼させるような凄まじい雄たけびとともに、男の顔が変異してゆく。
男の黒々とした髪の毛が赤茶色に変色した。赤茶色に変色したそれが針のように硬くなり、逆立った。瞳が金目になり、鼻先が大きく全面に突き出た。口が耳まで大きく裂け、サメの歯を思わせるような鋭い牙が、口の中に並んだ。
変異していったのは、顔だけではない……。
全身の筋肉が異常に隆起し、男の身長と体重は倍以上に膨れ上がっていった。
まるで、ヒヒ……。いや、猿人か。
それは、伝記や神話に登場する化け物の姿にそっくりだった。
「ひっー」
若い刑事が、身の危険を感じたのだろうか、慌てて、ホルスターから拳銃をとりだした。
続けざまに拳銃を撃つ。鉄工場跡に死を予感させる轟音が響いた。
「なぜ、撃った? まだ相手が何者か分からんだろうが……」
五十代前半と思われる中年の刑事が、若い刑事の暴走を制止した。
「若い奴は、事を性急にしすぎる……。こんな至近距離で拳銃を撃つだなんて……。急所に当たったら、死んでしまうだろうが……」
三発の拳銃弾をくらい、化け物がその場に倒れている。倒れた猿人は、死んでしまったのだろうか?
撃たれたショックで、痙攣を起こしているようだが、死んでいるようには見えない……。
「吉川さん、そんな悠長なことを言ってていいんですか? 相手は化け物ですよ。化け物」
若い刑事が、そう言った。
「化け物でも、口ぐらいはきけるだろう」
吉川が横柄に応えた。
数々の修羅場を潜り抜けてきた吉川からみれば、今年、署に配属されたばかりの高井戸は、犯罪事件のいろはのいの字も知らない、坊ちゃんにしか見えないのである。
「こいつから事情聴取する気だったんですか? どうやって?」
高井戸が言う。
「化け物が、人の言葉を話せるわけないでしょう」
うつぶせに倒れている化け物の姿からは、知性の片鱗が感じられない。獰猛で猛々しい化け物が、人の言葉を話せるとは思えない……。
「たとえ、口はきけなかったとしても、なんらかの情報が得られたかもしれん。なにせ、人の格好をして歩いていたんだからな」
「しかしですね……。吉川さん……」
高井戸は、吉川に何かをいいかけた。その時……。高井戸の言葉を遮ったものがあった。
「そんな小口径の銃弾では、俺は死にしないよ……。もっともマグナム弾でも、俺を殺すことはできやしないけれどな」
高井戸の言葉を遮ったのは、目の前に倒れていたはずの、猿人の化け物だった。
猿人の化け物は、立ち上がった。ニヤリと嗤い、額に食い込んでいる拳銃の弾丸を、爪で穿り返した。
「馬鹿な!」
二人の刑事は、異様な光景に肝を冷やした。
「ここんところに、弾が当たったから、軽い脳震とうをおこしかけたがな……」
猿人の化け物は、コキコキと頭を揺さぶって見せた。
「おまえは何者だ」
と、吉川が言う。
「俺か? 俺はそっちの若い奴がいうように人間じゃあないモノ……。つまり、化け物ってこと」
猿人がニタニタ嗤いながらこたえた。
「俺のかわいい餓鬼どもが、腹をへらしているところに、おまえらが現れたんでな……。おまえらを狩って、俺のかわいい餓鬼どもに食べさせてあげるのよ」
「な、なんだと……」
吉川と高井戸は、猿人が発した言葉の意味を、うまく咀嚼できなかった。
餓鬼どもに、俺たちを喰わせる!? 人を食するのか? 俺たちは、その餓鬼とかという奴の餌なのか?
「おまえらが、女か子どもだったら、この俺様がじきじきに食してやるがな。……男どもの硬い肉では、俺様の口にはあわんよ」
猿人は、そう言いながら、吉川と高井戸に近づいて行く。
吉川と高井戸は、その場から逃げ出すことができなかった。迫り来る死の予感に身体が強張ってしまっていた。
殺される……。この異様な姿の化け物に殺される……。この化け物は俺たちのことを殺して、餓鬼とかいう奴に食わせると言っている……。俺たちを殺して……。
死への予感は、吉川と高井戸を恐怖の虜にしていたのだ。
猿人は、猫の糞のような異様な臭いのする息を吐き散らした。
「わああああっー」
若い高井戸が、恐怖に耐えきれなくなり、甲高い悲鳴をあげた。
「ふん」
猿人は、高井戸の悲鳴を鼻であざ嗤った。恐怖にすくんでいる高井戸の脚を、丸太のような太い右足で払う。鈍い音が鉄工所跡に響いた。骨の砕ける音だろう。猿人の一撃はいとも簡単に高井戸の両足の骨を砕いたのであった。
「これで、逃げることもできないだろう……。若い奴は、逃げ足も速いからな」
猿人が言った。
「この、化け物めがー」
吉川が拳銃を、取り出した。
「これでもくらえ」
拳銃を、一発、二発と撃つ。
「そんなオモチャ、俺には通じないと言っただろうが……」
猿人は、吉川の右手を拳銃ごと握った。そのまま握りつぶす。
「うっ、ううっ……」
右手を握りつぶされた吉川の、くぐもった声が、猿人の鼓膜に届いた。猿人は海鳥が鳴くような奇声ををあげて嗤った。
嗤いながら、右手を握り潰されてうめいている吉川の左脚を、右手一本で持ち上げ、そのまま吉川を地面に叩きつける。
「おまえは、そのままそこで、しばらく寝ていろ」
猿人は、両足を砕かれ、耐えがたい苦痛を漏らしている高井戸の所に行き、高井戸の顎を、汚らしい爪先で持ち上げた。
「若いの、おまえから料理してやるか」
猿人は、高井戸の横っ面を叩き、銀縁の眼鏡を張り飛ばした。鋭い爪で高井戸の紺色の背広をはぎ取ると、高井戸の右腕を、強烈な力で捻って、むしりとった。絶叫をあげて苦しむ高井戸を横目にして、むしりとった高井戸の右手を無造作に地面に投げ捨てる。
「そう、吠えるなって。吠えたところで、誰も助けにこんよ」
猿人は、高井戸の左腕に手をかけた。
「こっちの腕も、引き抜かなくちゃあなあ~」
猿人は、息も絶え絶えになっている高井戸の左腕も、右腕と同じようにむしり取った。それを頭上に放り投げる。錆びついたパワーロールクラッシャーの上に、むしりとった左腕が、ゴトリと音をたてて落ちた。
猿人は、両腕を失った高井戸の胸ぐらを掴んだ。一閃の手刀で高井戸の胴体から首を切り離した。首は路上を転がり、気を失っている吉川の前で止まった。
猿人は右手を頭上に挙げた。指を鳴らし、狼の遠吠えのような声をあげた。遠吠えに呼ばれ、どこからともなく数匹の奇怪なモノが、その場に出現した。
十歳ぐらいの子供の背丈の大きさのそれは、前頭葉が異様に大きかった。身体に比べて明らかに大きすぎる頭部の頭頂部は見事に禿げ上がっており、側頭部にだけ、ゴワゴワとした白い剛毛が生えていた。身体は鉛色で、粗末な衣類を腰の周りにだけつけていた。骨と皮だけがめだつ身体に、妊婦のように膨れ上がった腹部が、奇怪なモノの醜さを、見事に演出していた。
餓鬼、食肉……。
この場に現れた餓鬼の名は、肉しか食することができない、食肉というおぞましい餓鬼だった。食肉は、長く伸びた両手の爪をガチガチ鳴らして、赤子がひきつけを起こした時のような鳴き声をあげた。
食肉たちの赤くただれた醜悪な口元から、大量のよだれが流れる。長く細い、蛇みたいな舌を出して唇を嘗めると、また赤子がひきつけを起こしたような鳴き声をあげた。
猿人は、高井戸の腹部に両手を突っ込んだ。両手を突っ込み、腹部を押し開いた。高井戸の腹部から大量の血潮が溢れ出る。猿人は、腹部の奥から、紫色の脾臓をとりだし、それを食肉たちに投げ与えた。次に肝臓ををとりだし、まだビクビクと動いている心臓を、むしりとった。
「おまえら、食前のデザートは、人の臓器だったよな」
猿人がそう言うと、食肉たちは奇声をあげてはしゃいだ。
奇声をあげて喜ぶ食肉たちの蛮声が、昏倒している吉川の脳裏に届いたのか、右手を潰され、地面に叩きつけられていた吉川の意識が回復した。
「こ、こんなことが……。こんなことがあってたまるか……」
意識を回復した吉川の見た光景は想像を絶するものだった。
地面にぶちまかれている大量の血。バラバラにされた吉川の肉体。顔面を真っ赤な血に染めて、腸を、むさぼり喰っているおぞましき食肉と呼ばれる餓鬼たち……。
「うぐぐっぐ……」
吉川は、胃の中のものを全て吐き出した。
「目覚めたか……。目覚めたところで、数分後には、こいつらの餌になってしまうがな……」
猿人が言った。
「そこまでにしなさい! 私の目の前で、これ以上の残虐な行為はさせないわよ」
猿人と食肉と呼ばれる餓鬼の前に、一人の少女と一匹の犬が現れた。
少女は、長くつややかな髪を風になびかせ、凛とした瞳で、猿人を睨み付けている。
「那美……。やっと現れたか」
猿人が言った。
「雁黄、やっと現れたとは、どういう意味?」
那美と呼ばれた少女が応える。
「すべては洪暫さまの計画どうり……。洪暫さまの思惑が当たったわ。食肉、行け!」
雁黄に指図された食肉たちは、那美に一斉に襲いかかった。
那美は跳んだ。胸元から若草色の香袋を取り出す。香袋の中から鴇色の勾玉を取り出すと、それを宙に投げた。
「いでよ光破剣」
叫ぶ那美。鴇色の勾玉が輝いた。勾玉が剣になる。龍の形をした鍔が柄の部分に現れ、刃の末端から切っ先にかけて白く輝いた。刀身からプラズマが弾き出ているのだ。
一匹の食肉が鋭い爪で、那美の顔面を切り裂こうとした。那美は光破剣を頭上から一気に振り落した。那美の顔面を切り裂こうとした食肉が、その面を真っ二つに斬られる。那美は、反す刀で、左側から、那美を手にかけようとした食肉の胴を斬り割いた。
三匹目の食肉は、那美の背後から、那美に迫った。那美は振り返りもせずに、後ろから襲いかかった食肉の腹に、光破剣を突き刺した。
「でやゃぁー」
那美は気合と共に、光破剣を食肉の腹から引き抜き、三匹目の食肉を倒すと、四匹目の食肉の首を光破剣で斬り飛ばした。那美の斜め後方にいた五匹目の食肉は、那美に一刀両断に切断された。
「ぎゃぁあ~ ぎゃぁああ~」
仲間が無様に切り刻まれたのを見て、怖じ気ついたのだろうか。残った数匹の食肉たちは、那美の周りから後退し始めた。
「ふん、やはり、おまえらでは歯がたたないか」
雁黄が言った。
「この俺様がじきじきに相手をしてやるか」
雁黄が、食肉たちを後ろに退けて、那美の前に立ちはだかった。
「一つ訊いてもいい」
那美が言った。
「なにが訊きたい」
雁黄が言う。
「おまえたちは、闇に生き、闇の中でしか生きてゆけないはず」
「昔はな……。が、もう、その必要はない」
「必要がないだと!」
「那美、俺たち蒜壷一族は、おまえの秘密を暴いたのさ」
「私の秘密を暴いた!?」
「わざわざ目立つ殺し方で、人を殺してやったのは、おまえをおびき出すためにしたこと」
「私を、おびき出すために……」
那美の背筋に、緊張の影が忍び寄る。
かつて雁黄ら、蒜壷一族は蒜壺一族を狩る者として那美に怯えてきた。、那美を天敵として、闇の中で生きてきたはず……。
その蒜壷一族が、なにゆえに?
「私を、おびき出して、どうするつもりなの。私はおまえたちには決して負けないわよ」
「どうかな? 俺たちは洪暫さまの元で、おまえのことを調べ上げ、凄まじい修練を積んできた。今の俺たちは、おまえに負ける気などさらさらない。……もっとも、俺たちは、おまえを殺すつもりもないがな。おまえを生け捕り、おまえが隠し持っている十種神宝を奪うだけさ」
十種神宝……。
古の昔、それは古代の豪族物部氏が、その始祖と言われる天神から授けられた宝と言われているものである。十種類のそれらの宝は、それぞれ、はかりしれない強大な力を持っていたという。
雁黄が狙っている十種の神宝とは、物部氏が、天神から授かったという、十種の神宝のことを指すのだろうか?
「十種神宝って、なに? 私はそんなもの知らないわよ」
那美が言った。
「とぼけるな……。洪暫さまが、おまえが秘めていた秘密を、ほとんど解き明かした。おまえが三百年経っても、少女のままの姿でいられる秘密もな」
雁黄は、せせら嗤うと身体を宙に躍らせた。宙で身体を反転させ、那美に迫る。
那美は光破剣を構えなおした。
雁黄が、黒く醜悪な爪を、那美の体に振り下ろす。那美は光破剣で、その爪を弾き返す。雁黄が、口から、膿みのようなねとねとした溶解液を吐き出す。那美は、素早くそれをよけ、光破剣を水平に薙ぎ払う。光破剣は、雁黄の胸に一筋の赤い傷を作る。が、致命傷には、ほど遠い……。
異臭が鉄工場跡に充満する。腐った柑橘系の果汁の臭いと、活火山の噴火口からもうもうと湧き出る硫黄のような臭いが、鉄工場跡に満ちてゆく。雁黄の口から、放たれた、膿のようなねとねとした溶解液は、那美の傍らにあった強化プラスチック製のコンテナを、溶かし始めているのである。
吉川は、この場から、直ぐに逃げ出したかった。恥も外聞もかなぐり捨てて、一目散に逃げ出したかった。が、体がいうことをきかない。地面に思い切り叩きつけられたショックで、体が悲鳴をあげている。
吉川の前に、一匹の犬が立ち止まる。那美の相棒、呂騎だ。
呂騎は、吉川に近寄って行き、吉川の頬を嘗めた。
「くすぐったい。嘗めるなよ。くすぐったいじゃあないか」
吉川は、笑いながら泣いていた。右手は無残に潰されている。地面に思い切り叩きつけられた体は、動かせそうもない。
このまま、俺は死んでしまうのだろうか……。まだまだ、やりたいことがいっぱいあるというのに……。
吉川は、眼を閉じた。
呂騎は、吉川の潰された右手を嘗め続けた。嘗められた吉川の右手が、ほんのりと桜色に光り、おびただしく流れ落ちていた血が止まった。心なしか痛みが和らいだ気がする。
「ん!? 」
吉川は、眼を開けた。彼を優しい眼差しで見ている呂騎に気づく。
「おまえ……。俺を介抱してくれているのかい」
吉川は怪我をしていない左手で、呂騎の頭を撫でた。人に馴れているのだろうか、呂騎は黙って、吉川に頭を任せている。
吉川の眼から、一筋の涙が溢れた。
黒い犬が、吉川を癒している呂騎の前に現れた。雁黄の相棒、黒堕だ。黒堕は、うなり声をあげた。心臓を素手で掴みとられるような陰惨なうなり声だ。臆病な人間が聴いたなら震え上がり、卒倒するだろう。
呂騎が鼻で嗤う。黒堕の陰惨なうなり声は、呂騎になんの脅威を与えていない。黒堕のうなり声は、呂騎にとっては、赤子の産声に等しいのだろう。
黒堕は、呂騎に飛びかかった。呂騎が、黒堕を軽くかわす。軽くかわして、黒堕の首筋に噛みつく。
黒堕は、首筋に噛みついた呂騎を振りほどこうともがいた。が、呂騎の強靭な牙は、がっちりと黒堕の首筋に食い込んでいる。外れそうにもない。
激しく動き回り、なんとか呂騎の牙を外そうとする黒堕。黒堕の首から鮮血が流れ落ちる。
「雁黄、あのまま放っとく気。あのままだと黒堕は命を落とすわよ」
那美が言った。
「ふん、放っとくさ。黒堕はただの犬ではないんでな。自分でなんとかするだろうって。……それより、自分の心配をしたらどうだ」
「心配? 一体、何を心配するの。私は、おまえたちに負ける気はしないわ」
「ずいぶん、自信たっぷりだな」
「あたりまえよ。私の陰に怯え、闇の中でしか生きてこれなかったあなたたちが、いくら、私を調べ上げようとも、私にかなうわけないわ」
那美は、あえて雁黄を挑発した。挑発することで、雁黄の動揺を誘っているのだ。
「ほざけ!! きさまなんか……、きさまなんか、俺の溶解液でぐちゃぐちゃに溶かしてやるわ」
雁黄は、再び、口から溶解液を吐いた。首を360度、振り回し、辺り一面にふりまく。
「どうだ。どうだ。どうだ。よけきれないだろう」
雁黄は執拗に溶解液を吐き続けた。
那美は、自分に降り注ぐ溶解液をすべて弾き返していた。光破剣をくるくると回し、自分の周りに障壁を造り、溶解液を退けているのだ。
「単純な攻撃ね。単純な攻撃は命取りになるわよ」
那美は、雁黄の一瞬の隙をついて、背後から雁黄に、光破剣を振り落した。
「うぎゃぎゃあぎゃああぎゃ~」
雁黄の左腕が、光破剣で斬り落とされる。
「おのれ~ よくも、よくも……」
雁黄は、息も絶え絶えになりながら、右腕を頭上にあげ、指を鳴らした。
すると、新たなる餓鬼が現れた。外観は食肉という餓鬼に似ているが、新たに現れた餓鬼は食肉ではない。新たに出現した餓鬼は、針口という口径が異常に小さいが、腹部が太鼓のように大きい、世にもおぞましい姿の餓鬼だった。
那美の前に現れた新手の餓鬼、針口。その数、約二十数匹。二十数匹の針口が、口から炎をチロチロ出しながら、那美に迫った。
「針口ね。食肉の次は針口を出してきたか」
「そうよ、針口よ。おまえなど、針口の地獄の業火で焼かれるがいい」
雁黄が、血まみれになった左腕の付け根の部分を抑えながら言う。
針口の攻撃が始まった。二十数匹の針口が、炎を吐きながら、那美に飛びかかってゆく。
「遅いー」
那美は、いとも簡単に針口の攻撃を退ける。
針口は、那美の正面に立つことができない。突風のような那美のスピードについてゆけない。針口が那美を確認し、攻撃態勢に移った時、針口の首が地面に転がり落ちている。那美にとって、針口の緩慢な動きは、のろまな亀のようなものなのだ。
「黒堕、いつまで手間取っている」
雁黄が、黒堕の首にくらいついている呂騎に蹴りを入れた。強烈な雁黄の蹴りに、呂騎が黒堕から離れる。
「いっとき、退散する。来い、黒堕!」
「逃げる気」
「ああっ、これ以上、ここにいても意味がないんでな」
雁黄は、身をひるがえした。
「逃がさないわよ」
「馬鹿め、おまえの周りを見てみろ。腹を空かした餓鬼どもが、吉川という男を襲おうとしているわ」
那美の光破剣を逃れた針口たちが、吉川に向かおうとしていた。動けない吉川は、針口にとって、恰好の餌にすぎやしない……。
「おのれ」
那美は、跳躍し、吉川と針口の前に降り立った。
光破剣が、風と共に針口の胴体をぶった斬る。
一匹……、二匹……、三匹……、四匹……。吉川の前に瞬く間に、針口の惨たらしい死骸が積み重なった。
呂騎が吠えた。那美に、雁黄と黒堕がそこからいなくなってしまったことを告げる。
那美は、呂騎の傍らに駆け寄り、呂騎の頭を撫でた。
「説明してくれっ! あの化け物は、いったい何なんだ。あんたらは何者だ。餓鬼という生き物は空想上の怪物ではなかったのか!?」
と、吉川が言った。
「私は……」
那美は、悲しそうに眼を伏せた。
「教えてくれっ! あんたは何者だ。あの化け物は、なんなんだ。人の……、人の肉を……、高井戸の肉を喰らった餓鬼という生き物は、どこから湧いて出たんだ」
吉川は、涙ながらに、那美に訴えた。
生意気な口ばかりきいて、どこか人を小馬鹿にしているような態度をとっていた高井戸。世代間の違いが生む、感情の擦れ違いや、価値観の違いのせいで、度々衝突することがあったが、吉川にとって、高井戸はかわいい部下だった。
「なあ、教えてくれよ……。高井戸は、なぜ、死ななければならなかったんだ。あいつはまだ二十五なんだぞ。死ぬには早すぎるだろうが」
吉川の慟哭は続く。
那美は、吉川の後方に立った。吉川の額に手をかざす。
「へっ?」
那美の両手の掌から、淡い桜色の光が放射される。桜色の光は地べた寝そべっている吉川の体を包み込んだ。
吉川は、温泉にでも浸かっているような感覚に陥った。冷え切っていた体が、ポカポカと温まり、急速に痛みが和らいでゆく。
この娘は、この俺を介抱してくれているのか……。あの犬と同じように、優しく、俺を包み込んで……。
「うっううっうっ……」
那美が与える治癒効果は、呂騎以上のものだった。瞬く間に、吉川の身体が癒されてゆく。
「なあ、あんた。なぜ、応えてくれないんだ。そこで醜い死骸をさらしている餓鬼とかという……」
那美は答えない……。悲しそうな顔をして、艶やかな睫毛を揺らした。
音が聞こえる。肉が焼け焦げるような音だ。
「な、なんだ、これは……」
吉川は、那美によって命を絶たれた餓鬼たちの死骸の変容に、眼を奪われた。
餓鬼、食肉。餓鬼、針口。二つの種の餓鬼の死骸が、音をたてて溶け始めているのである。
「生を絶たれた餓鬼は、溶けて、やがて塵となって跡形もなく消え去るのみ。その痕跡さえ残さない……」
と、那美が言った。
廃れた鉄工場跡に散らばった食肉と針口の合わせて三十体にも及ぶ切り裂かれた無残な餓鬼の死骸が溶けてゆく。奇怪な首や、肌黒い胴や、筋くれだった手足が、ジュウジュウと朽ち果ててゆき、吐き気をもよおす臭気を辺りに漂わせながら、やがて塵となって消えて行った。
「刑事さん……、あなたの潰された右手は、もう元には戻らないでしょう。けれど、身体の方はすぐに回復する。あと十分もすれば、立ち上がることができるようになる」
「……おまえが、俺の身体を直したというのか?」
「私は、人が本来持つ回復力に力を送っただけ」
「おまえは、何者?」
吉川が、再び問う。
「あなたたちが、私と、蒜壷一族を知れば、あなたたちはかつてないほどの衝撃を受け、遅かれ早かれパニック状態になるでしょう。私は、人間社会の混乱を避けるために、蒜壷一族に関わってきた人間の記憶を消してきた」
獰猛な怪物にしか見えない蒜壷一族。醜悪な化け物にしか見えない餓鬼という生き物。
人は、この怪物たちを決して受けいることができないだろう。
「俺の記憶も消すのか?」
吉川が言う。那美はうなずいた。
「そうか……。俺の記憶も消すのか……」
何か思うことがあるのだろうか? 吉川は、左手をズボンのポケットに突っ込んだ。吐く息は、まだ荒い。
「ひとつだけ教えてくれ……。若い男と女が殺された神社の事件と、幼児が惨殺された公園の事件は、奴らがやったことなのか?」
「そう……。蒜壷一族のしわざ。ただ……」
「ただ、なんだ?」
「奴らは、決して犠牲になった人間を、人前にさらすようなことはしなかった。それが、なぜ?」
人に、その存在を知られてはならない蒜壷一族は、殺した人間を食しては、その遺体を巧妙に処分してきた。その処置を行うことで、いままでその存在が隠してきたのだが……。
那美は、眉をひそめた。
「呂騎、お願い……」
那美が言った。呂騎が、吉川の前に立つ。呂騎の眼に紫色に輝く十字の眼光が宿る。あやしく光る呂騎の眼光に魅せられて、吉川の意識が遠のく。呂騎が、吉川の記憶の中から、ここであったことを消しているのだ。
「警察には、直ぐに連絡を入れるから、刑事さんは、そこでぐっすりと眠っていてね」
那美が吉川の肩に、そっと手を置いた。吉川が、すやすやと眠り始める。
「呂騎、雁黄の跡を追うわ」
那美は短く、そう言った。
寂れた鉄工場跡に吉川を残して、那美と呂騎は、再び姿をくらませた。
2
吉川は、I県鹿沼市の郊外にある県立鹿沼総合病院の一室で目覚めた。
吉川が収容された病室は、特別室のようだった。バルーンカテーテル、べースメーカー、などの、最新式の医療機器が、部屋に置かれ、二十四時間病室を監視するカメラまでついている。
事件を重く見た警察側が、病院側に頼んで、特別に用意したのに違いない。
(医者は、もうこの右手は元には戻らないと言っていた……)
吉川は、左手で右手を擦った。
骨という骨が粉々に砕けていた右手。神経と筋肉がいたるところで寸断され、手の施しようがなかった。
吉川のゴツゴツした逞しい右手は、いくどともなく凶悪な犯罪者を、締め上げてきた。サバイバルナイフを滅茶苦茶に振り回す狂犬じみた若い奴を、締め上げった時もあった。前科五犯にも及ぶ凶暴なヤクザを組み伏せたときもあった。長年逃げ回っていたコソ泥を捕まえたときは、達成感に酔いしれ、固く右手を握りしめたものだ……。
もう、その右手は使い物にならない。
吉川は眼を閉じた。
(……しかし、なぜだ? なぜ、俺の右手が潰されているのだ。俺は高井戸とパトロールに出ていたはずだ……。高井戸と、浜通りを警らしていたはずだ)
吉川の脳裏から、雁黄という化け物に出遭ってしまったという記憶が、すっぽりと消えていた。餓鬼という化け物と出遭った事実も、那美という少女に命を救われたことも、頭の中から消え失せていた。
病室のドアをノックする音がする。見舞いに、誰かが来たようだ。
「気がついたか?」
吉川の返事を待たずに、病室の中に入って来た男たちは、吉川の意識が回復するのを、ずっと待っていたようだった。
待ちくたびれたような顔をしている。
「武井警部……。室緒」
吉川の病室に、やってきたのは、同じ署に勤務する同僚と上司だった。その後ろに医者らしき男が立っている。
「一体、なにが、あったのかね?」
武井警部が言った。
「なにがあって、どんな状況で、高井戸くんは殺されたんだ?」
高井戸は署内でも屈指の猛者と言われている男だった。柔道三段はだてではない。町を歩く顔見知りのチンピラが、高井戸を見つけると、すごすごと道をゆずるのだ。
その高井戸が殺された!?
「高井戸くんを殺し、君の右手を潰したのは誰なんだ?」
武井警部の質問は、続く。
「君は現場にいたんだろう。どんな奴が、高井戸くんを惨殺したんだ?」
吉川は、武井警部の話しが耳に届かないのか、ぼんやりとしている。
武井警部は、吉川を凝視した。
(まだ、意識がはっきりしていないのか?)
よく見ると、吉川の瞳に、薄い膜がかかっているようにも見える。焦点がぼやけていて、武井警部の顔を把握していないのかもしれない。
「警部……」
吉川が、ぼそりと言った。
「なんだ?」
「俺……。ずっーと眠っていたんですか?」
吉川はベッドの脇のサイドテーブルに備え付けられてあるカレンダー付のクロックを、見ながら言った。
「ああっ、君がここに運ばれてから、二日ほど経っている。君はまる二日間、眠り続けていたんだよ」
「そうですか……」
吉川は自分が、そんなに長い間、眠っていたということが信じられなかった。
仕事に追われ、ここ三十年、八時間以上続けて眠ることなどなかった。その俺が、二日間も眠る続けていたか……」
「吉川くん、もう一度言う。一体、何があった?」
武井警部が言った。
「俺は……、俺は……」
「どうした? なにが、あった?」
「俺は……、俺は……」
吉川は、頭を振った。
「ダメだ! 何も覚えていない……。高井戸と、パトロールに出て、浜通りまで行ったのは覚えてはいるが、その後のことは……」
「なぜ、なぜ、覚えていない? 君は現場にいたんだろう。人がそこで殺されているんだよ。同僚の高井戸くんが!」
武井警部は、思わず、吉川の肩を揺さぶった。
「犬が……、犬の眼が光って……。あっー、ダメだ。思いだせない」
吉川は、頭を抱えた。
「吉川くんー」
武井警部は吉川の方を揺さぶり続けた。。
事件現場にいた刑事が、なにも覚えていない? 若く優秀な刑事が惨殺され、経験豊かな老刑事の、右手を潰されていたのだ。現職の刑事が、その現場にいて何も覚えていないことはありえない。
「部長……。よしましょう。吉川さんは、本当になにも覚えていないようだ」
武井警部の隣で、室緒が言った。
室緒 武。今回、起きてる一連の連続殺人事件の捜査本部の実質的なリーダーである。
「吉川さん、これは、あなたのものですね」
室緒は、吉川の前に煙草の箱のようなボイスレコーダーをかざした。
「俺のものだ……。警らに出るときは、いつも持ち歩いている……」
「そうですか……。では、録音されていた音声を聴いてみてください」
室緒は、ボイスレコーダーのスィッチを押した。
ボイスレコーダーから吉川の声が漏れ、続いて女の声が聞こえてきた。
「この女性の声に聞き覚え、ありませんか? この女性は誰なんです」
室緒が言った。
「この女性は、実に重大な証言をしています。一連の猟奇殺人事件の犯人を知っていると言っているのです。吉川さん、蒜壷一族って何者なんですか?」
「俺は……」
「思い出しませんか。この録音は、吉川さんが、機転を利かせて録ったものだと思いますが、そうなんでしょう」
「俺は……、俺は……、俺は……、ダメだ、ダメだ、ダメだ、何も思い出せない」
吉川は、左手で顔を掴んだ。
「これを聴かせてもダメか……。警部、行きましょう。吉川さんは、まだ回復していないようですから」
室緒は、そう言うと、ボイスレコーダーを懐にしまい込んだ。
「佐藤先生、頭の方は、吉川くんの頭の方は、なんともなかったのかね」
武井警部が、後方に控えている医師に言った。
「脳内に出血の跡が、ありましたが、脳波は正常です……。ただ、強いショックを受けていたようですから、その後遺症のせいで、記憶があいまいなのかもしれません」
「治る見込みがあるのか?」
「いまは、なんとも言えません……。もう少し、様子を見ませんと……」
あの現場で、呂騎が奪った吉川のあの夜の記憶は、もう戻ることはないだろう。
無理に想いだそうとすると、呂騎の怪しく光った瞳だけが、残像として、吉川の脳裏に浮かぶのだ。
「警部、行きましょう」
室緒が促す。
武井警部が室緒を見て、
「例のことを調べるのかね」
と、言った。
「ええっ、調べてみますよ。蒜壷一族と……。それと、現場に残っていたヒヒと思われる獣毛のことをね」
室緒は、そう言うと、武井警部と共に、病室を出ていった。
蒜壷一族……。
室緒は、ネットや文献で、できる限り、その一族のことを調べてみたが、どこにもそんな一族の存在など記しているものなどなかった。
室緒は、一族というキーワードを外して、ヒルコという言葉の意味を調べてみた。蒜壷一族の手かがりが、その言葉の意味にあるような気がしたからである。
ひるこ……、ヒルコ……、蛭子……、水蛭子。
調べてみると、ヒルコとは『古事記』や『日本書紀』という日本の神々を描いた古い書物の中に登場する古代神のひとりらしい。
蛭子とも水蛭子とも記されてはいるが、ここでは蛭子と記して話を進めてゆこう。
蛭子は、国産みの神、イザナギ、イザナミの間に生まれた最初の子だった。骨もない、ぶよぶよとした不具の子だったために、葦の舟に入れられて、イザナギとイザナミが造った最初の島、オノゴロ島から流されてしまう。
葦の舟に入れられて海に流された蛭子は、どこにたどり着いたのであろうか?
日本各地に、蛭子らしい生物が流れ着いたという伝承が残っているが、一般的に摂津の国の西宮に流れ着いたとされている。西宮に流れ着いた蛭子は、漁師の戎三郎に拾われて、それ以後は、戎神になったという。
戎神=(イコール)七福神で著名な恵比寿神のことである。
七福神は日本で信仰されている神であり、最も身近な神でもある。その中でも恵比寿神は、他の六人の神様たちと違って日本唯一の神である。(他の六人の神、大黒天、毘沙門天、弁財天はヒンドウー教の神、福禄寿、寿老人は道教の神、布袋は実在した仏教の僧だと言われている)
(蛭子……、転じて、恵比寿となるか)
室緒は、パソコンのキーボードに、エビスという文字を打ち込んだ。
打ち込むと、戎、恵比須、恵比寿、蛭子という文字が出てきた。
蛭子と書いて、蛭子と読む……か…………。
「室緒さん、科捜研から連絡が入りました」
室緒がいる県警の資料室に、室緒の部下である、高橋が入ってきた。
「で、科捜研は、なんだと言っている?」
室緒は、振り向きもせずに言った。眼は、パソコンのモニターを見つめている。
「送られてきた獣毛の特定は難しいとのことです」
「特定が難しい!? どういうことだ?」
「何の動物の毛だが、分からないとのことなんですが……」
「ヒヒではなかったのか」
「最初は、そう思ったそうですが、よく調べてみると、まったく別な生物のようでして……」
「別な生き物?」
室緒は、振り向いた。
現場の状況は、あまりのも凄まじいものだった。.
砕け散ったコンクリート片が、そこらじゅうに散らばり、五、六本の鉄パイプが飴が曲がるように曲がっていた。側部がへこんだフォークリフトが横倒しになっており、辺り一面、血の海だった。
まるで、象かゴリラなどの大型の動物が、そこで暴れたかのようなありさまだったのである。
室緒は、最初、その蒜壷一族という奴らが、飼いならした凶暴な動物を使って、吉川たちを襲ったと推理していたが……。
「女の声は……、ボイスレコーダーに残されていた女の声の分析は、どこまで進んでいる?」
「声の質からいって、十代から二十代の女性だと思われるということです。話している言葉は、特に訛りもなく、普段我々が使っている標準語に近いものです。これから、それぞれの言葉にかかるアクセントの違いから、どこの地方の出身なのか、プロファリングをしてみると連絡してきました」
「そうか……。よろしく頼むと言っておいてくれ」
これだけ、人が殺されているのに、犯人にたどり着けるような手がかりは、ほとんどない。
連日連夜、全職員を総動員し、捜査にあたっているのに、犯人らしき人物を見たという目撃者は現れず、犯人が残していったと思われる、遺留品もみつかってはいない。手がかりを見つけたと思われる刑事は殺され、生き残った刑事もまた、右手を潰されているのにだ。
(科捜研の調べが、何かのヒントになればいいが……)
室緒は、パソコンのモニター上に映っているユーモラスな恵比寿さまの、漫画を見つめた。
ふくよかな体格で、右手に釣り竿を持ち、左胴に二歳児くらいの大きな鯛を抱えている恵比寿さま。
この神様と、残虐な殺人を行っていると思われる蒜壷一族が、つながっているとは、どうしても思えない。
室緒は、パソコンのスィッチを消した。
3
樹齢百年以上の巨木が生い茂る鬱蒼とした森林の膝元に、見捨てられた寺があった。
日中でも陽が届かない苔むした廃寺の中で、一匹の怪物が、いかつい身体を休ませていた。
怪物は、湿った黒色の板敷の上で、忙しく息を弾ませている。赤茶色の体毛を逆立てて、闇に浮かぶ蝋燭の灯りを見つめていた。他に生物のいる痕跡ない。ただそこに生物が生きて命の営みをしていたという跡はあるだけだ。腐れ落ちそうな床の上一面に、何者かが喰い残したウサギの死骸があった。
怪物の傍らに切り落とされた左腕がある。おぞましき怪物の左腕だ。筋肉の塊にしか見えないそれは、まるで、それ自体生きているかのような躍動感に満ちていた。
怪物は、右腕で、それを掴んだ。 愛しそうに、それを見つめる。
「ひとりで、殺ろうとするから、そんなことになるのよ」
闇の奥から声がする。怪物が眼を凝らしてみると、いつの間に、ここに来たのであろうか。トカゲの顔をした人間が、そこにいた。
「おまえごときが、那美に勝てると思ったのか」
トカゲ顔が、怪物に毒づく。
「おまえのせいで、わらわたちのかわいい餓鬼が、無駄死にしおったわ」
トカゲ顔が、チロチロと舌を出した。
「三十数匹の餓鬼が、命を落としたのよ。おまえ、わかっているの?」
トカゲ顔は、執拗に怪物を責め続ける。
「蒜壷一族の中でも、餓鬼と呼ばれるあのものたちは、わらわたちが世話をしてやらなければ生きては行けないもっとも哀れなものたち……。おまえは、その哀れなものたちを、おのれの欲のために無駄に殺した。……雁黄、なんとか言いなさいよ」
廃寺に潜んでいた怪物は、那美との戦いに敗れた雁黄だった。
雁黄は、うるさくおのれを責めるトカゲの顔をした人間を、一瞥した。
「琥耶姫よ。おまえの術で、早く、俺の腕を治せ」
雁黄が、濁った眼で、トカゲ顔に言う。
「治してどうするのさ。また、ひとりで那美と戦うき?」
「戦うさ。体を治し、今度こそ、奴を倒してやる……。ここに琥耶姫という助っ人もいるしな」
「わらわが、おまえに手助けをするとでも……」
「するさ……。おまえ、その気で、ここに来たんだろう」
雁黄が、琥耶姫の緑色の眼を、覗き込むように見た。
「嗤わせるな。わらわは、おまえなどと一緒に戦うことなどせぬ。おまえが、その腕を治してくれっと、言うたから、ここに来たまでのこと。もっとも、おまえが、わらわの手助けが必要だと懇願するのなら、話しは別だが……」
琥耶姫は、そう言うと、雁黄から目を逸らした。
「ふっ、相変わらずだな……」
「相変わらずとは?」
「相変わらずだから、相変わらずと言ったのさ」
雁黄は、ニッと笑った。琥耶姫の前に切断された左腕を置く。
「さあ、早く、元通りに治せ」
琥耶姫は、雁黄の切断された左腕を手に取ると、
「できるだけのことをする」
と、言った。
「できるだけのことをするだと? 元には戻らんのか」
「そこらへんにある刀剣で切断されたものならば、わらわの術でも治せよう。が、この腕は那美の剣、光破剣で斬られたものだろう」
「それが、どうした?」
「鈍いやつだな……。光破剣、すなわち、十種の神宝のうちのひとつ、八握剣」
「八握剣だと……。あれが……。あの剣が八握剣だというのか」
「そうよ。そうじゃあなければ、弾丸さえも弾き返すおまえの身体を斬ることなどできやせぬ……」
鋼のような筋肉の鎧で覆われた雁黄の身体は、人が造りし刀剣を、まったく受け付けやしない。雁黄の身体に撃ち込まれた刀剣は、いともたやすく折れてしまうのである。那美の操る光破剣は、そんな雁黄の身体を見事に斬り割いた。
「そうか、あの剣が八握剣なのか……」
雁黄が眼を下に落とした。
「あれが、八握剣ならば、この俺が命を懸けてでも、必ず奪ってやる」
「そう。でも八握剣を狙っているのは、おまえだけじゃあない。ヒキガエルの惟三や、人狼の伽羅も、八握剣を狙っておるわ。……わらわもな」
「おまえもか?」
「そうよ。狙っちゃあ悪いか?」
琥耶姫は、耳まで裂けている唇を、歪ませた。
一年前、族長である洪暫の元に集められた雁黄や琥耶姫などの主だった蒜壷一族は、那美が隠し持っているという十種神宝のことを、洪暫の口から直接伝えられ、その秘密を知った。
那美が持つ十種神宝さえあれば、蒜壷一族にかけられた呪いは解けるという。
闇に生き、人を食することで生きながらえてきた蒜壷一族……。醜悪な容姿と、太陽の下では、数時間しか活動できぬ呪われた体…………。
その呪いが、十種神宝の力で解けるという。
十種神宝の存在は、蒜壷一族にとって、待ち焦がれた黄金色の福音なのだ。
「洪暫さまは言った。那美の持つ十種神宝を、すべて奪った時、俺たちの願いは成就すると」
雁黄が言う。
「成就したあかつきには、十種神宝を、最も貢献があったものに分け与えるともおっしゃった」
琥耶姫が、雁黄の言葉に応えた。
「そこに横におなり」
琥耶姫が言った。
「こうか……」
雁黄が仰向けになった。
「完全には、治せはしないと思うけれども……」
琥耶姫が、そこに置かれてある雁黄の左腕を取り、雁黄の左肩に、それを押しつけた。
「じっとしているのよ。いい……」
琥耶姫が、醜くただれた肩と、左腕の接合部を、赤い舌を出して、チロリチロリと嘗め始める。嘗められた接合部が、唾液に反応して、くすんだ緑色に染まってゆく。小さなかさぶたが無数に出現し、かさぶたから気泡が、漏れ出した。
「うっぐぐっぐっ」
雁黄は、体のいたるところに、無数の黒蟻がたかっている錯覚を起こしていた。そこにいないはずの黒蟻が、チクチクと、雁黄の身体を刺している……。
しばらくして、琥耶姫が舌を動かすことを止めて、雁黄の患部から口を離した。
「終わったわよ……。腕を動かしてみるといい」
琥耶姫が、言った。
「う、動かせるのか?」
「動かせるわよ……。ただし、いつ腐れ墜ちるかわからないけれどね」
「なんだと……」
雁黄は琥耶姫を睨んだ。
「あら、怒ったの。でもね、怒ったってもしょうがないことなのよね。わらわは、一時的に治したにすぎやしないから。本当に治したいのであれば、那美から、十種神宝を奪うしかないわね」
「十種神宝を使えば、この腕が治るというのか」
「十種神宝のひとつ、生玉を使えば、切断された左腕の復元など簡単なこと」
「生玉だと……。なんだ、その生玉とは?」
「生玉とは、たとえ死病に憑りつかれているモノでも瞬時に回復させるという神宝」
十種神宝。十を数える神宝は、ひとつひとつ、それぞれ違う威力を秘めたモノである。
生玉は、命の源を司る宝と言われていた。
「ほう……。それじゃあ、その生玉も、この俺が八握剣とともに、貰い受けるとするか」
雁黄は、一時的に治った左腕を、振り回した。
「生玉は、わらわこそが貰い受けるもの。おまえになど渡さない」
と、琥耶姫が言う。
「おまえ……。生玉も狙っているのか」
「当たり前よ。生玉さえあれば、どんな傷を負っても平気……。瀕死の重傷を負っても、生玉さえあれば、たちどころに甦る。生玉は、蒜壷の癒師、わらわが持って当然の宝」
琥耶姫は、そういうと立ち上がった。辺りの様子をうかがう。
「那美は、ここに来るのか?」
琥耶姫が言う。
「来るさ。那美の相棒、呂騎が必ず、ここを探り当てる」
雁黄が、そう応えた。
「外にいる黒堕が、この俺に教えることになっている」
「黒堕か……。あのバカ犬、まだ生きていたのか」
そう、琥耶姫がからかうと、
「黒堕のことを悪く言うな。黒堕を馬鹿にしたら、いくらおまえでも容赦はしないぞ」
と、琥耶姫を叱った。
家族がいない雁黄にとって、黒堕はたった一匹の心を許せる友だった。雁黄は、黒堕のためなら、命を差し出してもいいと思っている。黒堕も、雁黄と同じ想いであろう。常に雁黄に寄り添う黒堕と、雁黄の姿は一心同体と言ってもいい。
「ウオオオオーン」
黒堕の吠え声が聞こえた。那美の到来を知らせる声だ。
「来た」
雁黄は廃寺の扉を脚で、ぶち抜いた。
砂埃と、砕けた木端が舞い上がり、一瞬、辺りの視界を遮った。
風が吹く。山間に流れる緩やかな風が、砂塵を地に落とすと、そこに、那美と呂騎が悠然と立っていた。那美は光破剣を握りしめ、廃寺の中から出てきた雁黄を睨んでいる。呂騎は、崩れ落ちた石の灯篭の横にいる黒堕を警戒して、眼を光らせていた。
「琥耶姫が、そこにいるのね……」
那美が、雁黄の左腕に、眼を走らせた。
那美の光破剣で切断された雁黄の身体は、通常の治療では、治癒できない。蒜壷一族の癒師だけが治癒できるのである。
琥耶姫が、雁黄の背後から出てきた。那美を見て、うっすらと嗤った。
「蒜壷の癒師、残虐の琥耶姫。おまえの非道な行為は、人を苦しめる」
那美が言う。
「普通、身体を治癒する癒師に向かって、残虐っていう?」
琥耶姫が、那美の言葉に応えて、横目で雁黄を見ながら言う。
「言わんさ。俺たちの怪我や病気を癒してくれる癒師さまに向かって、残虐などという奴は、蒜壷の者にはいやしない」
雁黄が、そううそぶいた。
「だまれ! 雁黄。おまえもそいつの非道さを知っているだろう」
「琥耶姫の非道さ? ああっ……。人を大根みたいにすり下ろしたり、まだ生きている人間の皮を剥いで、油であげて、人の口に、その皮をねじりこんだりしたことか」
「そう、そこにいる琥耶姫は、子供の女も容赦しなかった。ただ、おのれの快楽のために人を殺した」
「わらわたちの餌である人を、どのように料理しようと、わらわのかって。人も、わらわ蒜壷一族と同じようなことをしているだろう。豚や牛、魚な鳥を、様々な料理方法で楽しんでいるではないか」
「人は、豚や牛とは違う」
「人にとって、豚や牛は餌。わらわにとって、人が餌。なにも変わらんわ」
「違う! 人は、豚や牛とは違う」
わらわにとって、人とは餌にすぎない豚や牛と同じものだという、琥耶姫の傲慢さに、那美は憤った。
「くっくっくっ、なぜに、そんなにしてまで人のかたを持つのやら……。おまえとてわらわと同じ、人に忌み嫌われている存在なくせに」
「黙れ!」
「あら、怒ったの……。怒った顔も可愛いわよ」
琥耶姫は、あきらかに那美を嘲笑していた。嘲笑することによって、那美に対する畏怖心を抑えようとしているのかもしれない。
「おまえの足元をみるがいい。……わらわの可愛い子供たちが、おまえを瞬く間に料理してくれるわ」
地から数十の奇怪な腕が現れた。人の腕のようにも見えるが、決して人の腕ではない。筋くれだった赤黒い腕は、蒜壷一族、餓鬼の腕だ。琥耶姫が、手下の餓鬼どもをここに招いたのであった。
一組の腕が、那美の足首を掴んだ。
「羅刹の爪の毒は、人を狂わす。人でもない、われら蒜壷一族でもないおまえに、羅刹の毒が効くかどうかはわからぬが、それでも、おまえの動きを封じることはできよう」
那美の足首を掴んだ餓鬼は、羅刹といった。地から腕だけを出していた羅刹は、土くれと共に、地から顔だした。凶悪そうな面がまえで、エヘラエヘラ嗤っている。
「見よ、おまえの肉を喰らおうと、わらわの愛し児たちが、地からはい出てきたわ」
那美の足首を掴んでいる羅刹とは別に、地から数十の羅刹が現れた。体にまとわりついている土くれを払いもせずに、那美に近づいて行く。
那美は、眼を閉じた。
那美の左胸が、紅梅色にほんのりと光る。いや、那美の胸が光っているわけではない。左胸に忍ばせている若草色の香袋が光っているのだ。
「ぐぇえぇえぇ」
那美の足首を掴んでいた羅刹の悲鳴がこだまする。羅刹の両手首が、突如現れた業火によって、一瞬にして、煤になる。羅刹の手から逃れた那美は、宙に跳び、一回転して、石畳みの上に降り立った。
琥耶姫が、口から無数の針を、那美めがけて吐き出した。那美は、その無数の針を、光破剣で、すべて撥ねかす。
駆け出す琥耶姫。琥耶姫を援護するように飛び交い、那美を襲う数十の羅刹たち。那美は、襲ってくる羅刹を次々と、光破剣で粉砕してゆく。
「おのれ、おのれ、おのれっ」
琥耶姫は、間隙を縫うようにして、那美に攻撃を仕掛けるが、那美は襲い来る羅刹どもを粉砕しながら、琥耶姫の攻撃をいとも簡単に弾き返していた。
「癒師ごときが、那美に勝てると思っていたのか」
那美と琥耶姫の闘い傍観していた雁黄が、戦闘に加わった。
雁黄は、身近にあった子牛の胴回りほどの太さの巨木を、引き抜く。
「どけ! そいつの相手はこの俺さまだ」
巨木を引き抜いた雁黄は、それを那美、めがけて叩き落とした。
よける那美。那美の代わりに、巨木をかわし切れなかった数匹の羅刹が、巨木の下になった。
「なんてことをするのよ。わらわの可愛い羅刹を……」
琥耶姫が言う。
「ふん、羅刹など、どっちみち那美に皆殺しにされるのが落ち。俺の針口や食肉と同じ運命よ」
「わらわの羅刹は、がさつな針口や食肉とは違う」
「どこが?」
「いじきたないだけの食肉や針口とは、違うと言っているのよ」
「ほざくな! ……視るがよい、おまえのその愛しい羅刹も、ほとんど那美に倒されているではないか」
地に立っている羅刹、その数、五匹。すでに二十を越える羅刹が、那美と呂騎の手によって倒されていた。
「おのれっ~ 那美」
琥耶姫が右腕を突き出した。琥耶姫の手の甲からのこぎりの歯のような剣がせり出す。琥耶姫は、那美めがけて躍りかかった。
那美が琥耶姫の剣を光破剣で受け止めた。琥耶姫と那美が激しく互いの剣を交わす。琥耶姫と剣がぶつかりあうたびに火花が飛びかった。
那美の背後から雁黄と黒堕が、那美を襲った。
那美は、雁黄の吐く溶解液を交わした。が、黒堕の攻撃は交わしきれなかった。黒堕が那美の右肩に、その獰猛な牙を喰い込ませた。
那美の左胸が、また紅梅色に光った。
黒堕の首が、一瞬にして業火に包まれる。黒堕の首は煤になり、首のない胴体だけの黒堕の身体は、ゴトリと音をたてて崩れ落ちた。
黒堕の牙から逃れた那美は、反転し、琥耶姫と距離をとった。
「黒堕~ 黒堕~ 黒堕~」
雁黄が、泣き叫びながら、黒堕の遺骸に駆け寄った。
「黒堕! 黒堕よう~」
冬の嵐のように慟哭する雁黄。いくら泣き叫ぼうとも死んでしまった黒堕は還ってはこない。真昼でも陽が射すことのない鬱蒼とした森林に、雁黄の鳴き声だけがこだました。
「品物比礼で守られている那美の身体に、喰らいつくから、そんなことになる」
廃寺の屋根に、人が現れた。
「十種神宝の一つ、品物比礼。おぞましき邪を払いのける宝。俺たちは、品物比礼を身に着けている那美に、触ることはできない。倒すことはできるかもしれないがな」
屋根の上の人は、深く被っている黒い山高帽をあげた。
「伽羅……。おまえ……。いつから、ここに……」
琥耶姫が言う。
「伽羅か!?」
那美が言った。
「久しぶりだな、那美……。もっともこの姿で会うのは最初だが……」
伽羅は、人の姿でそこにいた。黒いロングコートを羽織り、黒い山高帽をこいきに被っている。伽羅は、廃寺の屋根の上から、那美を見下ろた。
蒜壷一族の人狼……。疾風の牙と呼ばれる伽羅の動きは、那美に引けを取らない。
那美は、新たなる強敵の出現に、光破剣を構えなおした。
「おっと、早まっちゃあいけねえよ。俺はおまえさんと戦うために、ここに来たわけではないんでね」
伽羅が言った。
「なに? どういうこと?」
那美が眉をひそめる。
「雁黄と琥耶姫に、洪暫さまの命令を伝えに来たまでのこと」
伽羅は、腕を組んで、雁黄と琥耶姫に視線を送った。
「すぐに帰ってこい。これが洪暫さまの命令だ。雁黄、琥耶姫、わかったかな」
「すぐ、帰ってこいだと?」
雁黄が、言う。
「そうだ、ここは一旦ひきあげろというご命令だ」
「黒堕を殺されて、このままおめおめと帰れるか!」
雁黄が吠える。
「わらわとて、このまま引き返るわけにはいかぬ」
琥耶姫が、伽羅に、鋭い視線を送った。
「洪暫さまが帰ってこいと、言っているんだ。おまえら洪暫さまの命令に背く気か!」
「わらわは……」
琥耶姫は逡巡した。
蒜壷一族の中で、絶対的な権威を持つ蒜壷洪暫。洪暫に逆らうということは、死ねということである。
「俺は……、俺は……、洪暫さまの命令でも、この場は引かんわ!」
雁黄が血涙を流しながら、そう吠える。
盟友である黒堕を、那美に殺されてしまった雁黄は、復讐のことしか考えていなかった。那美を、この手でぶち殺す! 那美をこの手でぶち殺す! 雁黄の流す血涙は、そう言っていた。
「よかろう……。黒堕を殺されたおまえの想い、洪暫さまに伝えてあげよう……。だがな雁黄、おまえひとりでは、いくらあがいても、那美には勝てやしないぜ」
伽羅の手刀が空を切った。
「俺の持ち駒を貸してやるよ。いでよ、食吐」
伽羅の叫び声に共鳴したかのように、灰色の空が割れた。縦に割れた空は百メートルほどに拡がってゆく。
「食吐を人間界に下ろすのか?」
と、那美が言うと、
「下ろしてやるよ。もっともここに降りる食吐は、食吐の中でも小さい食吐だがな……」
と、伽羅がうそぶいた。
三十六種類の餓鬼の中でも、その巨大さゆえ、最も恐れられている食吐。古代インドの距離を測る単位で表すと、その体は、半由旬にもなるという。(一由旬は、七キロと仮定しても、食吐の身長は、三・五キロにもなる計算になる)
割れた空の向こうに異界が見えた。雷鳴が響いている。いくつもの竜巻が暴れ狂っている。竜巻の陰に異様に巨大な化け物の姿が見える。これが食吐であろう。二匹の食吐が異界の中で泣き叫んでいた。
「食吐をこの世界に下ろすなんて…………。人に、あなたたちの存在を知られてもいいの? あなたたちは、闇に隠れて生きてきたはず」
那美が言う。
巨大な食吐の姿は、街中から離れた深山にいても、必ず、人に気づかれるだろう。人に気づかれ、人は蒜壷一族の存在を知ることになるだろう。伽羅は、巨大な餓鬼、食吐を本当に地上に降ろす気なのだろうか?
「ふん、雁黄が、わざわざ見せつけるように男女の首を神社に放置したり、いたいけな幼児の首を三個も、公園に置き去りにしたのは、おまえを誘き出させるためにしただけと思っているのか」
そうは思えない……。那美を誘き出すためだけだったら、いままで蒜壷一族がそうしてきたように、行方不明に見せかけて、人を食してきただけで充分だった。
那美は、蒜壷一族を狩る者。蒜壷一族が不穏な動きを見せれば、那美は必ず現れて、蒜壷一族を葬るのだ。
「人は恐怖に陥ると、あえなくパニック状態になる……。いままで気取っていた紳士淑女が、小便を垂れ流し、尊大な政治家どもがクソを漏らす」
伽羅は、言葉を続ける。
「日本中が連日騒ぎ立てている、この人殺しの犯人が、化け物のしわざだと人が知ったら? 人が俺たち蒜壷一族のことを知ったらどうなると思う?」
日本中は、空前のパニック状態になるだろう。
いままで、空想上の産物、あるいは想像上の物語と思われたいた化け物が現れ、人を殺し、食したのだ。
「それが本当の目的なの? わざわざ、人を目立つように殺したのは、あなたたちの存在を人に知らせるためなの?」
「……さあ、どうかな?」
伽羅が不敵に嗤った。
「たとえ一時的に、混乱しても、人は最終的にあなたたちを葬るわよ。あなたたちの正体を知った人は、決して、あなたたちに負けやしないわ」
蒜壷一族の存在が、人に知れ渡れば、人は直ちに蒜壷一族の殲滅にかかるだろう。いくら蒜壷一族が、特殊な超能力を持ち、体力的に、ずば抜けていようとも、核に代表されるような強烈な武器を持ってしまった人類には、勝てやしない。
蒜壷一族は、それゆえ、闇に隠れて生きてきたのだが……。
「人の心とは、もろいものよ……。そこにいる雁黄のようにな」
黒堕を那美の手で殺された雁黄は、もはや以前の雁黄ではなかった。血涙を流し続けた眼は憎しみに溢れ、異様に光っている。ぶつぶつと繰り言を繰り返している雁黄の精神は、明らかに狂いかけていた。
「呂騎、気をつけて。雁黄は、あなたも狙っているわ」
那美が言うと、呂騎は、低いうなり声を出した。
雁黄が疾走した。以前の雁黄の動きではない。黒堕を失った悲しみが悲憤となって雁黄に活力を与えているのだろうか。鈍重な雁黄が、風を切るように走っていた。
割れた空から巨大な餓鬼が顔を出した。食吐だ。顔を出した食吐は、そのまま割れた空を掻くようにして地上に降りたった。
食吐にしては、小さい食吐だというが、地上に降りたった食吐は、ゆうに五十メートルを越す身長だった。身長五十メートルを越す二匹の食吐が、深山に生い茂る樹木を押しつぶしながら、地上に降りたったのだ。
4
鹿沼署の一室。連続猟奇殺人事件の実質的リーダー 室緒 武は、今回の事件を改めて検証していた。
始まりは、広崎神社で起きた若い男女の無残な遺体だった。
賽銭箱の上に置かれていた損壊が烈しい若い男と女の首。狛犬の石像の傍らにあった千切れた耳と腸。引き裂かれて無造作に散らかっていた女の青いワンピースと、樹齢三百年超す御神木の周りには、切り裂かれぼろぼろになった男物の緑色のジャンパーが、見つかった。
その二日後。東小路広場公園での事件では、いたいけな幼児の首だけが、噴水の前に置かれてあった。
発見したのは、酩酊し、足元もおぼつかない中年の男だった。アルコールにやられた男の口から発する言葉は、ろれつが回り、意味不明の言葉だらけだった。が、異常なことが起きた事は、男の尋常でない様子で理解できた。
男から通報を受けた県警は、所轄と連絡をとり、付近を警ら中の警官を、ただちに現場に急行させた。
駆け付けた警官たちが見たもの……。
幼子の三つの首。
それを身近に見た警官は、いまだに夜、うなされているという……。
それから数日後、浜通りの廃棄された古い鉄工場跡では、警ら中の警官が犠牲になった。
ひとりは、体をバラバラにされて死亡。残ったもうひとりの警官は、右手を潰され、その時の記憶が消されていた。
警官の記憶は消されていたが、すべての記録が失ったいたわけではなかった。
右手を潰された警官、吉川が、機転を利かせて録ったボイスレコーダーに、広崎神社で起きた事件と、東小路公園の事件の犯人と思われる人物が名指しで、録音されていたのである。
それによると、高井戸、吉川、両警官を襲ったのも、神社で若い男女を惨殺したのも、公園で幼児を殺戮したのも、蒜壷一族というものの犯行らしい……。
蒜壷一族……。そもそも、蒜壷一族とは何者なんなんだろう? 神社で若い男女の首をさらし、公園で、幼児の首を三個も放置した、蒜壷一族の真意はどこにあるのだろうか?
ボイスレコーダーに残された女の声は、蒜壷一族は、人を食するとも言っていた。
検死官の話によると、現場に放棄されていた高井戸の遺体から、獰猛な動物が付けたと思われる噛み傷が見つかったという。データーを科捜研に送り、調べてもらってはいるが、まだ回答がきていない。
「入っていいですか」
ドアを叩く音がする。
「村中か……。例の一件、調べてきたか」
室緒は、ドア越しに声をかけた。
「ええっ……」
村中は、短く答え、室の中に入ってきた。
「で、県で扱った、ここ半年の特異家出人の案件は何件だった?」
室緒が質問する。
「三百五十件以上の案件が確認されています」
「そのうち解決したものは?」
「三十三件だけです」
「その三十三件の内容は?」
「いずれも、捜索願を出した家族の、勘違いか、早とちりによるもので、行方不明と思われた娘さんや息子たちは、慌てて、家に連絡を入れています」
「行方不明者が、こうも、立て続けに出ていると、そんなこともでてくるだろう」
室緒は、村中から目を逸らした。
特異家出人とは、事件や事故、あるいは自殺の可能性があると思われる行方不明者を指す。人がその姿を消し、どこをあたっても所在が確認されないとわかると、家族、または行方不明者を知るものが、警察に捜索願を出す。
事件や事故、自殺に関わりないと思われる場合は、コンピューターに登録されるだけで捜索活動は行われることはないが、特異家出人と判断されると、警察は動き出す。
「で、マスコミの動きは?」
室緒が言った。
「マスコミの動きといいますと?」
「マスコミは、今度の猟奇殺人事件と、日を追って増えてゆく行方不明者の関連性について、何か気づいているのか?」
「えっ! 今度の事件に、行方不明になっている人たちが関係しているんですか」
「それは……」
室緒は言葉を濁した。
警察に届けられる家出人捜索願の数は、年に十万件に近い数を数える。そのうち一割から二割の割合で特異家出人と判断される。
I県は人口百三十万の県である。そのI県で、半年で三百五十件の行方不明者があり、そのうち特異家出人の数が三百件を越すこの状態は、あきらかに異常だった。
事態を嗅ぎつけたマスコミが、二ヶ月ほど前から騒ぎ出しているのだが……。
「……女の声の分析は、どこまで進んでいる」
室緒は話題を変えた。
「声のイントネーションおよび、アクセントから判断するとT県の東部地域出身の女性らしいということだけが、今のところ分かっています」
「T県……。ああっ、出雲大社がある、あのT県か」
室緒が、文献や、ネットで、蒜壷一族および、それに関すると思われることを調べている時、偶然開いたページの中に出雲大社が載っていた。
まさか、あの出雲大社と、今回の一連の事件が関係はないと思うが……。
「村中さん。ああっ、室緒さんもいたんですか。ちょうどよかった」
村中の後方から、ひとりの巡査がやって来た。
「どうした?」
と、村中が言うと。
「蒜壷一族だというものから電話があって……」
と、巡査が言った。
「蒜壷一族だと!?」
室緒が、巡査の肩を激しく揺さぶった。
蒜壷一族のことは、まだマスコミに話していない。今この時点で蒜壷一族のことを知るものは、捜査本部の連中だけだ。捜査本部の連中が外に漏らすことなどない。だとすると、その電話は……。
「まだ、つながっているのか。まだつながっているのか、その電話は」
「いいえ、一方的に切られてしまいました」
巡査は、ぼそりと応えた。
「電話の内容は……。蒜壷一族は、なんと言っていた?」
「内容は録音されていますので、それを……」
巡査が言い終わらないうちに、室緒と村中は室から出て、駆け出していた。
捜査本部では、苦虫を噛み潰しているような顔をしている武井警部と、辺りをキョロキョロ見渡している高橋刑事が、室緒と村中を待っていた。
「警部、蒜壷一族から電話があったんですか!」
と、室緒が言うと、
「聞いてみるか?」
と、武井が言い、電話に取り付けてあるレコーダーのボタンを押した。数秒のブランクの後、しわがれた男の声がレコーダーから聞こえてきた。
「……同僚を殺され、さぞいきりたっているだろうな。広崎神社で若い男女を殺したのも、東小路広場公園で幼児を殺したのも、わが一族……。蒜壷の手によるもの」
「なんだと! きさまら、どういうつもりだ。なぜ、人を殺し続ける」
しわがれた男の声の後に、電話口に出た高橋刑事の声が、レコーダーから聞こえる。
「動機!? 動機を知りたいのか? ふっふっふっふっ……。喰うためさ。空腹を満たすためさ。生きるために仕方がないことだろう。おまえらも一度食してみるといい、旨いぞ、人の肉は」
「ふざけるな!」
高橋は手に持っている電話を机に叩きつけたい衝動にかられた。
人肉を喰ってみるかだと!? 気でも狂っているのか。
「俄蔵山に行ってみるといい。おもしろいものが見られるぞ」
「おもしろいものとはなんだ! 何が見られる?」
「わが一族の精鋭が、そこにいるのよ。我が一族の生け贄になる女を、血祭りにあげようとしている」
「なに、おまえらは、まだ殺戮を繰り返そうとしているのか」
「さあね……。女は生き残るかもしれないしな。なにしろ、その女は普通の女じゃあないんでな」
「どういうことだ! 普通じゃあないって」
「化け物なんだよ、その女は」
「化け物!? 化け物とは、おまえらのことだろう」
「俺たちが化け物というのなら、おまえたちも化け物だな。自然を蝕み続ける化け物……。それが、おまえら人間」
「なにを偉そうに……。おまえは人間じゃあないというのか」
高橋が激高して叫んだ。傍らにいた武井警部が、高橋から電話機をとった。間をおいて、武井警部の声がその後に続く。
「あっー、武井と言うものだが……」
「この事件の責任者か」
「そうだ」
「それじゃあ、早く、部下に命令した方がいいぜ。女を殺されてしまう前にな。……それじゃあな」
「それじゃあなって……。おい、待て、電話を切るな」
そこで、レコーダーからの音声は途切れた。
「俄蔵山には、機捜を向かわせています」
と、高橋刑事が言うと、
「特殊車両で向かったんだろうな。俄蔵山は切り立った断崖が多い険しい山だ」
室緒が、確かめるように高橋の顔を見る。
東北地方の中央部を、約五百キロにわたって縦断する奥羽山脈にある俄蔵山は、その昔修験僧が修行のためこもった山として名を知られた山だ。樹齢百年以上の樹木が生い茂る鬱蒼とした山肌と、山のいたるところにある垂直に近い、危険極まる断崖絶壁があり、修験僧たちの鍛錬の場に使われてきたのである。
現在、蛾蔵山は、あまりにも険しい山岳なため、そのほとんどの場所が立ち入り禁止に指定されている。
「俄蔵山に向かった機捜隊は、四輪駆動の特殊車両で現場に向かっていますが、その車両でも、ふもとの活沼あたりまでしか行けません」
と、高橋刑事が言うと、
「あとは、徒歩か」
と、室緒が言った。
電話口の蒜壷は、女を血祭りにあげると言っていた。現役の刑事であった高井戸や吉川を手玉に取った蒜壷一族なら女を殺すことなど、いとも簡単に成し遂げるだろう。それが普通の女ならばだが……。
普通の女ではない女……。蒜壷の男が化け物と呼ぶ女。その女とは、高井戸を殺し、吉川の右手を潰した現場にいた、あの女のことではないだろうか。
室緒は、吉井刑事が残したボイスレコーダーに残っていた女の声を思いだす。
T県東部地区出身と思われる女性……。声の感じから見ると二十歳前後の女性だと思われるが……。
「警部、俄蔵山に向かった機捜から連絡が入りました」
パソコン画面を見つめていた女性捜査員が言う。
「もう、俄蔵山に着いたのかね?」
「いえ、俄蔵山から南に三百メートルほど離れた地点からの連絡です」
「三百メートル離れれたところから? 機捜は、なんといっている?」
「いま、スピーカーに機捜の声を流します」
女性捜査員がマウスを動かした。パソコンに外付けされたスピーカーが、音を出し始める。
「いま、我々は信じがたいものを見ています。こんな怪物が目の前に現れるとは……。とても信じられません」
機捜隊員は極度の緊張感に襲われているらしい。声が震えている。
「もしもし、その信じられないものとはなんですか?」
「い、いま、こちらでとられた画像を、そちらに送ります」
パソコンのモニターに、その姿が映されてくる。
「これは、なんだ? 君はふざけているのか。なんで、こんなものを送ってくる」
武井警部は、顔をしかめた。
「いえ、ふざけてなんかいません。身長五十メートルを越す怪物が俄蔵山で暴れているんです」
「馬鹿な!!」
パソコンのモニターには、俄蔵山で暴れている二匹の怪物の姿が映し出されていた。
これが、蒜壷一族!?
室緒は、モニターに映し出された怪物を見て、思わず唾を飲み込んだ。
モニターの中の怪物の姿は、国宝でもある六道絵に登場するあの化け物たちの姿に似ている。いや、国宝に指定されている六道絵や餓鬼草紙、地獄草紙に描かれている、あのおぞましい生き物、餓鬼そのものだった。
地獄の亡者が、蒜壷一族の正体だというのか?
室緒は、食い入るようにモニターを見つめた。
「室緒さん……。これが、蒜壷一族ですか」
村中が言う。
「ああっ、これが特撮映画じゃあなければな」
室緒は、あごに手をあてた。
臨場感あふれるその姿は、とても作り物の化け物の姿には見えない。いや、決して作り物ではないだろう。身長五十メートルを越す被り物を作る奇特な奴など、そう滅多にいるものではない。
「だがな、村中」
「なんですか?」
「これも蒜壷一族と言った方がいいだろうな。この映像は何かの間違いでなければな」
「こ・れ・もですか?」
「ああっ、蒜壷一族がみなこんな大きな体をしていたら、広崎神社で事件を起こした時に、その姿が確認できたはずだろう。違うか?」
モニターの中の化け物は、山肌に生い茂る木々の背を越いていた。その化け物が、作り物ではない木々を押し倒し、大地を粉砕しているのだ。
仮に、この化け物が広崎神社や東小路公園の事件現場にいたら、出現した時点で、その姿は確認され、人々は混乱に陥っていたであろう。
「高橋、村中、行くぞ」
「えっ?」
「えっ、じゃあない。われわれも現地に行く」
室緒は、高橋と村中を引き連れて、捜査本部を後にした。
5
雁黄は、樹木から樹木へ飛び回る那美と呂騎を必死で追っていた。
頭上では、二匹の食吐が森林を破壊し続けている。数百キロもある巨木や、重さ数トンもある巨石が、食吐によって、宙に放り投げられているのだ。直撃を喰らったら、ひとたまりもないだろう。
《那美さま、気をつけてください》
呂騎が那美に思念を送った。
「食吐の動きを封じ込めなければ、ならないわね」
と、那美が言う。
「それと……、あのお猿さんも、どうにかしないとね」
那美は振り返った。
雁黄が、那美をその手にかけようと、執拗に那美の後を追って来ている。
《雁黄は、このわたしに任せてください》
と、呂騎が言う。
「勝算はあるの?」
《照りつける陽の下では、蒜壷のものは動きが鈍るはずです。食吐が森林を破壊し続けたために、この深山にも陽が降り注いでいます。雁黄は時期に動けなくなるでしょう》
雁黄は、陽の光を避けるために、陽も射さない鬱蒼とした深山の寺で、那美を待ち受けていた。が、食吐の出現で、陽を遮る巨木がなぎ倒され、寺は破壊されてしまっていた。照りつける陽の下では、蒜壷一族は一時間も持たないだろう。
「怒り狂っている雁黄は、手強いわよ」
と、那美が言う。
《任せてください。いまの雁黄は、感情に任せて闇雲に攻撃を仕掛けているだけですから。それよりも……》
「伽羅と琥耶姫ね」
《ええっ、彼らの動きが気になります》
食吐という五十メートルを越す餓鬼を、地上に落とした人狼の伽羅。癒師といわれる蒜壷一族の医師でもある残虐の蒜壷、琥耶姫。
彼らは、食吐を地上に落とした後、洪暫の元に、そのまま帰還したのだろうか?
「逃げるなー 那美。俺と戦え」
雁黄は吠えた。頭上で暴れる二匹の食吐が雁黄の動きまで鈍らせている。那美に容易に近づけない雁黄は、いらだっていた。
呂騎が、雁黄の身体に後ろから、体当たりをくらわせる。
「おのれ、この犬めが」
雁黄が膝をついた。
「おまえが、この俺の相手をするというのか」
雁黄が、呂騎を睨み付ける。
「おもしろい……。相手になってやるわー」
雁黄は、呂騎に躍りかかった。雁黄の攻撃を受けた呂騎は、いともたやすく雁黄の攻撃をかわす。雁黄が口から溶解液を撒き散らす。強烈な腐臭が辺り一面に漂い、木々や草花が音をたてて溶けだす。が、呂騎には当たらない。
「おのれ、おのれ、おのれ」
雁黄は、歯ぎしりして悔しがった。
食吐の攻撃に対して、防戦一方の那美は、反撃の機会をうかがっていた。このままでは、荒れ狂う食吐に近づくことさえできやしない。
「あれを使うしかないわね」
那美は、左胸に手を当てた。胸に忍ばせた若草色の香袋が、青藤色に光る。那美の脚が大地から離れ、那美は空中に浮かんだ。
「あれは?」
那美たちから離れ、戦いの行く末を眺めていた琥耶姫が、怪訝そうに顔をしかめた。
「十種神宝を使ったのよ。空中を自由自在に飛行できる力を持つ、足玉の力をな」
琥耶姫の傍らで、伽羅が舌を打つ。
「よく見なよ。那美の身体を。球形の膜のようなモノが那美の身体を覆っているだろう」
球形の膜に覆われた那美は、空高く舞い上がり、二匹の食吐と対峙している。凛として食吐を睨み付ける那美には、怖れなどみじんもない。
「足玉を使えば、ヘリコプターのようにそのまま空中にとどまることもできるし、ジェット機のように、マッハの速さで空を飛ぶこともできる。那美は、それを使った」
伽羅は、そう言うと、琥耶姫の方を振り向き、
「琥耶姫よ。そろそろ洪暫さまの元に戻ろう。ぼやぼやしていると、動きがとれなくなってしまうぞ」
「でも……」
「何をためらっている。忘れたのか琥耶姫。俺たち蒜壷のものは、日中では数時間しか活動ができぬ。その俺たちが、照りつける太陽の下にいたらどうなると思う」
「溶けてなくなるわ……」
「そういうこと」
伽羅は、そう言うと、走り出した。
「ついて来い、ここにいると、人に俺たちの姿を見られるぞ」
伽羅と琥耶姫はいずことなく、そこから消え失せた。
空高く舞い上がった那美は、光破剣を水平にし、そのまま横に薙ぎ払った。光破剣の切っ先から、いくつもの光の玉が弾き出てくる。那美は二匹の食吐の周りを旋回しながら、食吐、めがけて、光の玉を、撃ち続ける。二匹の食吐の頭部、胸、二の腕、脚部に、光の玉が次々と命中する。光の玉を喰らった食吐の動きが鈍くなる。二匹の食吐のうち、一匹の食吐が、那美の執拗な攻撃に、膝を崩した。その機を逃さず、那美は、すかさず、その食吐の後方に廻りこみ、光破剣で、食吐の背中を斬り割いた。
「ぐぇぇっええっ~」
夏の夜に鳴く、がまカエルのような悲鳴が上がった。が、絶命には至っていない。食吐は、もんどりうって倒れ、再び立ち上がる。食吐の背中を斬り割いた那美を、もう一匹の食吐が襲う。巨大な手を伸ばし、空中に浮遊する那美を、その手で掴もうとしている。那美は反転し、体毛を逆立てて迫りくる巨大な食吐の右手の人差し指と、中指の間に、光破剣を斬りこませ、一気に、そのまま二の腕まで、縦に、食吐の右腕を斬り割く。ゴトリと音をたてて、食吐の右腕の半分が地上に落ちる。右腕の半分を切り落とされた食吐は、左腕で、那美を掴もうとするが、那美は空中で一回転し、襲い来る食吐の左手を手首の部分から切り落とした。
右腕の半分と、左手首を切り落とされた食吐は、悲鳴をあげながら、のたうち回った。
食吐の左手首を切り落とした那美に、背中を斬り割かれた食吐が立ちはだかる。一瞬の隙をついて、那美を、その手に握りしめる。 那美の懐に忍ばせている若草色の香袋が、紅梅色に光る。那美を握りしめている食吐の右手が業火に包まれる。が、燃え尽きない。巨大な質量を持つ食吐の右手が、燃え尽きることを拒んでいるのだ。
那美は、光破剣を空中に放った。光破剣が、勢いよく回転しながら、弧を描いて食吐の右肩に食い込み、そのまま食吐の右腕を切断する。大気を寸断するかのような食吐の悲鳴があがる。右腕を付け根から切断された食吐は、おびただしい血潮を噴き出して悶絶した。
那美の手の中に、光破剣が戻ってくる。那美は、食吐の右手から逃れ、再び、二匹の食吐と対峙した。
背中を斬り割かれ、右腕がなくなってしまったた食吐と、右腕を縦方向に切り裂かれ、左手首を切り落とされた食吐。
二匹の食吐の闘争本能は、いささかも衰えていない。空中に浮遊する那美を、睨み付け、隙をうかがっている。
那美は、急降下し、二匹の食吐の脚部を狙った。
那美の意図を見抜いたのか、二匹の食吐が、大地を蹴り、大空に跳ぶ。が、背中を斬り割かれ、右腕を失った食吐のバランスが崩れている。機敏に動けない。
那美の光破剣が、その食吐の左の足首を横一文字に切断した。
一方、呂騎と闘っていた雁黄は、体に起こっている異変に、動揺を隠せないでいた。
体から溢れだしてきている体液が、腐臭を放ち、雁黄が、一歩踏み出すたびに、体毛が抜け落ちてきている。すでに、臓器がいかれ始めているのだろう。腹の中が熱くたぎっている。立ってあるくのさえやっとだ。
(俺は……、俺は溶けてしまうのか……。黒堕の仇もとっていないというのに……)
呪われた蒜壷一族ゆえに、日中での活動が制限されることは知っている。これまで、何度も、その禁を犯し、溶けて行った仲間の蒜壷一族を見ている。硬い甲羅をまとった蟹の姿の蒜壷さえも、陽の下では、半日も持たなかった……。
(だから、俺は陽の光が届きにくい森の中に、那美をおびきよせた……)
雁黄は、頭上で、那美と闘っている二匹の食吐を睨み付けた。
(伽羅は、なにゆえ身長五十メートルもある食吐を下界に下ろした?)
二匹の食吐は森林を破壊つくした。陽の光を遮るものは、もうここにはない。蒜壷にとって、拷問とも呼べる空間が、ここにできてしまっていた……。
(あいつらの手など借りぬとも、那美を、この手でやれたはず……)
雁黄は、大地に両手をついた。
《雁黄よ》
呂騎が、雁黄に思念を送った。
《もう、観念したらどうだ》
「う、う、う、う、うるさい!」
雁黄が忙しく息をつぎながら、言葉を返す。
《そこに黒堕の遺骸がある》
雁黄の唯一の肉親とも呼べる愛犬、黒堕の首のない遺骸が、倒れた巨木の下にあった。
命なき黒堕の遺骸は、すでに、その七割が溶解している。あの猛々しい黒堕の面影はもはやない。
「黒堕……」
死期を悟った雁黄が、黒堕の遺骸に近づいてゆく。
黒堕もまた、寂れた鉄工所跡で那美の手によって葬られた餓鬼、食肉や、針口、と同じように跡形もなくなり、その存在さえも闇に消えてゆくのだ。
「黒堕……。黒堕よう……」
雁黄が、一歩一歩、大地を踏みしめて、死んでしまった愛犬の元に歩いてゆく。
黒堕の遺骸にたどり着いた雁黄は、そのままそこに倒れ込み、もはや犬の形状を留めていない黒堕の遺骸を抱いた。
「黒堕……。おまえ一匹、寂しい思いはさせん。もうすぐ、おまえの後を追って、この俺も、行くからな……」
黒堕の遺骸を抱いた雁黄は、血を吐き、そのままうつ伏せになって、息絶えた。
空に、群青色の機体があった。I県、県警本部のヘリ、あさぎの機影である。
あさぎは、最大速度、278km、航続距離440km、座席数10座席、フランス製のタービンエンジンを積んだ、I県警の誇るヘリである。普段は県警本部がある大岡市に常駐しているのだが、今回の事件をうけて、鹿沼市に運ばれていた。
その、あさぎの中に室緒たちが見える。
室緒、村中、高橋の三名は、鹿沼署を飛び出し、近くの運動場のグランドに待機させてあった、あさぎに乗り込み、鹿沼市から、俄蔵山がある奥羽山脈に向かっていた。
「県警本部に、あさぎを要請していて正解だったな」
パイロットの後方に陣取っている室緒が言った。
「県警から来ている管理官のおかげです」
村中が、そう言う。
「佐々木さんも、今回の事件にはヘリが必要になると考えていたんじゃあないの。事件が事件だからな。そう思うだろう、高橋」
「けど、いきなり鹿沼市から百キロ以上も離れた俄蔵山に向かうとは思っても見ませんでした」
高橋は、いま、あさぎの機体に中にいるのが信じられない様子だった。辺りをキョロキョロと見渡している。
「なにを、キョロキョロ見ている? おまえ、もしかしたら高所恐怖症か」
「何言っているんですか。違いますよ……。ただ……」
「ただ、なんだ?」
室緒に問われた高橋は、目の前に迫ってくる俄蔵山に、眼を移した。
I県北部の奥羽山脈の中にそびえ立つ俄蔵山は、人の侵入を拒み続けているような山だ。上空から、観ているとその拒絶感がいっそう際立って見える。
「俄蔵象山が、そんなに怖いのか?」
「怖くなどないですよ」
怖いと言う気持ちはない。嫌悪感が募るのみだ。この山なら、恐ろしげな怪物が出てきてもおかしくはないだろう……。
高橋は、室緒に視線を移した。室緒は隣でタブレット型モバイルを操作している。タブレット型モバイルで、俄蔵山のことを検索しているようだ。検索する室緒の目が、一つの記事をとらえる。ニヤリと笑い、高橋にその記事を見せた。
記事は、その昔、俄蔵山に役行者の流れをくむ仙人が棲んだという言い伝えがあるというものだった。
標高一二百メートルの切り立った断崖が多い山、俄蔵山。その蛾蔵山に棲む仙人の名は伯楠と言った。
伯楠は、俄蔵山から降りて下界の集落にくると、様々な奇行を見せて、世の人をたぶらかしたという。山に住む、サルやカモシカと共に村に現れ、何もない空間から、おいしそうなおむすびや、華美な衣類を取り出して見せては、村人を喜ばせたり、地の底から、もののけを呼び出しては、人々を震えあげさせたりしたと言い伝えられていた。
「見えてきました……。身長五十メートルを越す怪物です」
パイロットがそう、告げた。
室緒、村中、高橋が一斉にパイロット席になだれ込んだ。
「本物か!? 本物の怪物なのか?」
室緒が声をあげた。古の絵巻、六道絵に刻まれし怪物……。あの怪物の姿がここにある。まさしく、室緒たちの目に映ったものは、捜査本部で室緒たちが見た、あの怪物の姿だった。
無線機が鳴る。副操縦士が無線機をとり、二言三言話した後、室緒に無線機を渡した。
「室緒だが……」
「機捜の田中です。上空から何か確認できますか。できましたなら、詳しい情報を知りたいのですが……。こちらは、これ以上を近づくことができないので」
二匹の食吐が、見境なく大暴れしたせいで、機捜が陣取る活沼から俄蔵山までの道程は、完全に塞がれてしまっていた。引き裂かれた巨木や、砕かれた岩石が大地に突き刺さり、機捜は身動き取れないでいるのだ。
「蒜壷一族と思われる怪物は傷を負っているようだ。背中から出血し、右腕を失くした蒜壷が一匹。もう一匹は右腕を縦に切り裂かれ左手首を失っている」
室緒が、そういうと、
「ええっ、それは、こちらからも確認できます。ですが、妙なものが怪物たちの周りを飛んでいませんか?」
と、田中が、質問を返してきた。
「妙なもの?」
「ええっ、こちらからは良く見えないのですが、大きなシャボン玉のようなものが、見えませんか?」
「なんだ、そのシャボン玉のようなものとは?」
「よくわかりませんが、そのシャボン玉のようなものが現れるたびに、怪物が傷を負っているんですよ」
無線機の向こうで、田中が、そういった時、一匹の食吐が、無様に倒れ込んだ。
あさぎが、その食吐の真上に廻りこむ。
「室緒さん、観てください。あの怪物……。足首が無くなっていますよ」
村中が、そう言う。
大地に倒れ込んだ食吐は、那美に左の足首を切断された食吐だった。背中を斬られ、右腕を失い、左足首までも、那美の手によって切断された食吐は、よろめきながら体制を立て直した。満身創痍のその食吐は、息も絶え絶えになっていた。
食吐の足元から、シャボン玉のようなものが浮かんできた。よく見ると、中に何かが存在しているのが分かる。
「あれは……、あれはなんだ?」
室緒が言う。
「あれは……、あれは、人……。室緒さん、人ですよ。人が中にいるんです。それも女だ」
高橋が、室緒の問いに応える。
「女!? それじゃあ、蒜壷が言っていた……、生贄にするという女とは、この女のことなのか」
室緒は、上空を旋回している女を凝視した。
若い女だった。ここから見ると二十歳前後女に見える。淡いクリーム色の胴着みたいなものを身に着けている。穿いている紺色の袴が、風にそよいでいる。女は長い黒髪をなびかせながら、愁いを帯びた切れ長の瞳で、こちらを見ているような気がした。
女を覆っているシャボン玉のような球形のものは、女がスピードを上げると、それに合わせるかのように変形した。スピードの上昇とともに激しく変化する気圧の影響を受けているような様子はないが、球形が、女の体の線に合わせるかのように変化し、それと同時に、急激に変わる気圧の変化から女の体を守っているようだった。
「危険です。これ以上、近づかないで!」
突如、あさぎの機内に女の声が響いた。
室緒たちは、ぎょっとして機内を見渡した。機内には女などいやしない。室緒、高橋、村中、三名と、二名のパイロットだけだ。
「食吐の動きは、見かけより素早い。傷ついていてもそれは変わらない」
再び、機内に女の声が響く。
「室緒さん、それっ、そのモバイルからですよ」
高橋が、室緒が持っているタブレット型のモバイルを指差した。
タブレット型のモバイルには、女の顔が映っている。気迫のこもった瞳から熱気があふれていた。
「どういうことだ、これは……。機捜が中継しているのか」
いや、それはありえないだろう。俄蔵山ふもと、活沼近辺に駐在している機捜は、折り重なった大木や、総重量十トンをも越す大岩に阻まれ、身動き取れないでいるのだ。
だとすると……、これは!?
空中を飛んでいる女が、このタブレットに画像と音声を送っているとでもいうのだろうか。
でも、どうやって?
室緒は、あさぎの機内から、宙を飛んでいる女を見た。ここからは良く見えないが、それでも女が通信機器を持っているようには見えない。光り輝く剣を持っているだけだ。
「君は蒜壷一族とは、どんな関係があるんだ」
室緒は、タブレット型のモバイルに向かって叫んでみた。室緒の叫びが、女に届くかどうかは分からない。が、女の声と画像がこちらのタブレット型モバイルに届いているのだ。こちらの声も、女に届いているかもしれない。
「この怪物が、蒜壷のものだと知っているの?」
再び、女の声があさぎの機内に響く。室緒が思ったどうり、こちらからの音声も、女に届いていた。
「我々は、神社で起きた事件も公園で起きた事件も、蒜壷一族のしわざと言う情報を得ている」
室緒が、そう言う。
「じゃあ、若い刑事が惨殺された事件も、蒜壷一族が起こした事件と、知っているわけね」
「その通りだ」
「そう……」
短く応えた女の声は、暗く沈んでいるように聞こえた。いや、実際、心にしこりとなって残っているのだろう。女は人が殺された現場にいたのだ。
「君は何者だ? 奴らの仲間ではないことは分かるが、一体何者なんだ」
室緒は、女の正体を知りたかった。蒜壷一族が生贄にするといった女。空を飛び、身長五十メートルを越す怪物たちと互角に闘う女。この女は何者なのだろう……。
「刑事さんたちは、みんな私のことを知りたがるのね……。鉄工場跡にいた、あの吉川という刑事も、私のことを知りたがった……」
「吉川はいまも病院にいるよ。記憶を失くしてな。……おしえてくれっ。なぜ、吉川はその時の記憶を失くしているんだ」
「それは……」
女は躊躇っていた。
「吉川は、あの現場で何が起こったのか、何も覚えていないんだ。仲間の刑事が殺され、自分の左手首が潰されているというのに」
「………」
「なぜ黙っている。吉川が記憶を失くした理由を知っているのか? 知っているから黙っているのか」
「吉川さんの記憶は、私が消した……。蒜壷一族のことなど知らないほうが良いと思っていたから……。でも、もう無理ね。食吐までが地上に現れてしまったわ。もう、蒜壷一族のことは隠せない……」
「蒜壷一族のことを隠すために吉川の記憶を消したというのか。君は、人の記憶まで、部分的に操作できるのか?」
室緒は、思わず声を荒あげた。
「刑事さん、おしゃべりはそれくらいにして。……いまは目の前の食吐を倒さないと」
紅碧色と、青藤色を灯していた女の左胸から、紅碧色だけが消えた。女は旋回し、再び、二匹の食吐と向かい合った。
二匹の食吐が、女めがけて大量の唾液を撒き散らす。ただの唾液ではないようだ。唾液がかかった地上の岩や木々が、ぶすぶすと音をたてて燃え出した。唾液は発火性の強い粘液だった。
女は、巧みに食吐の唾液攻撃を避け続けている。四方八方巻き散らかされた唾液攻撃を潜り抜け、二匹の食吐の頭上高くに舞い上がった。
一瞬、女を見失い立ち止まる食吐たち。一匹の食吐が、室緒たちが乗っているあさぎを注視した。口から、あさぎ目がけて唾液を吐く。
「危ない!」
女が叫ぶ。胸の青藤色の隣に、白緑色が灯った。あさぎの前面に黄緑色に近い防護膜が突如現れる。食吐が吐いた唾液が防護膜に遮られた。
「滅せよ! 忌まわしき者」
女は食吐の脳天めがけて、光り輝く剣を突き刺す。女の剣は、食吐の額に突き刺さった。
「ぐぇえっええっ~」
食吐は、断末魔の悲鳴をあげて倒れた。
「残り、一匹」
女は光り輝く剣を水平に構え直し、仲間をやられ騒ぎ立てている食吐を、睨み据えていた。
戦闘開始から三十分……。蒜壷一族は、直射日光の下では、命が長らえない。
食吐は、異界から下界に降ろされた時から、生きて異界に帰れないことは覚悟していた。食吐たちを、ここに下ろした伽羅も、そのつもりで食吐たちを、ここに下ろしたのであろう。
積年の恨みが募る那美と、ともに倒れるなら、それもいい……。
食吐の脳裏に、そんな思いが過ぎる……。
伽羅や琥耶姫、那美との戦いで塵となって消えて行った雁黄らは、那美が持つという十種神宝に固執していたが、彼らの走狗でしかない食吐たち餓鬼たちにとっては、十種神宝の存在は、あまり重要な事ではない。
十種神宝さえ手に入れれば、蒜壷一族にかけられた呪いが解け、陽の光の中でも生きてゆけると言うが、人間の姿に化身できない餓鬼には、何の意味もない。日常的に闘争を繰り返し、常に飢え、醜い、おぞましいままの姿で暮らしたところで、得るのは憎しみだけだ。そんな状況に中で陽の光の中で生きて行っても、しょせん、今と変わりやしない。精神的にも肉体的にも、乾ききった餓鬼たちが、他の生物に愛されるはずはないのだから。
生まれ落ちたときから憎まれ、憎むことでしか他の生物と触れ合うことができない餓鬼たち。
それでも……。それでも生きる権利はある。生き続けて生を謳歌したい。せっかくこの世に生をもらったのだから……。
食吐は、自分を睨み付けている那美を睨み返した。
那美……。十種神宝を操り、俺たち蒜壷一族を狩り続けている女。この女は一体いつまで、俺たちを狩り続けるのだろう。
俺たちを根絶やしにするまで、狩り続けるのだろうか……。
食吐は、言葉にならない呪詛を呟きながら、血が混じった唾液を、那美、目がけて吐いた。が、唾液は、那美には届かない。弱り切った食吐の吐いた唾液が、俊敏に動き回る那美に届くはずがない。唾液は、食吐の胸元に流れ落ちた。
那美の光破剣が目の前に迫る。食吐は最後を悟り、眼を閉じた……。
「どうやら、戦いは終わったようだな」
室緒が、タブレット型モバイルの画面に映る那美に向かって言った。
「名は? 名前ぐらいあるんだろう」
「………」
「名前ぐらい、教えてくれてもいいだろう」
「私は……」
那美は、視線を室緒から外した。
「あなた方は、どうして蒜壷一族の知ったの?」
那美は、再び、視線を戻す。
「吉川の持っていたボイスレコーダーに君の声が残っていた」
「あの刑事……。そんなものを持っていたのね」
「もう一度聞く。君の名は? なぜ、吉川のことを知っている。吉川が自己紹介でもしたのか」
「私の名は那美。吉川さんのことは……」
《那美さま……、マスコミ関係と思われるクルマが、こちらに向かっています》
那美の頭に直接、呂騎の送った思念が届いた。
「わかった」
那美は、短く応えると、室緒の方を向き、
「面倒なことになる前に、そちらの方へ行くわ」
「ここに来るって……、あさぎに乗り込むと言うのか」
「ええっ、マスコミ関係のクルマがこちらに向かっているの。刑事さんは、まだマスコミに、私と蒜壷一族のことを話していないでしょう。マスコミに私のことを知られたくわないわ」
室緒の持つタブレット型モバイルの画面から、那美の姿が消える。戸惑う室緒の前に、部下の高橋と村中が集った。
「室緒さん、彼女、ここに来るんですか?」
村中が問う。
「ああっ、この機に乗りこんでくるつもりだ」
室緒は操縦士の肩に手を置いた。
「ホバリングして、ドアを開けますから、ドアの近くに寄らないでください」
操縦士が操作し、あさぎが空中で停止した。サイドのドアがゆっくりとスライドする。室緒たちは、そこから、那美があさぎの中に入ってくるのを待った。
数分後、那美が、あさぎの中に乗りこんで来た。
「剣は? 剣はどうしました?」
高橋が聞いた。
「しまいました。ここには必要ないと思ったので」
「しまったって、どこに?」
那美は、徒手空拳だった。身に着けているものは、淡いクリーム色の胴着と紺色の袴のみ。
「刑事さん……」
那美は、高橋の問いを無視して、左胸に手を置いた。那美の左胸が鳥の子色に光る。
「室緒刑事……。一連の猟奇殺人事件捜査班の実質的リーダー」
「ん!? なぜ、俺の名を知っている」
室緒は、顔をしかめた。
「私は、人の心がある程度、読めるの」
「その力を使って、吉川の名をしったというわけか」
「吉川さんの場合、辺津鏡の力を使う必要もなかったわ。直接、吉川さんの額に触れることができたから」
「なんだね? その辺津鏡というのは?」
那美は、室緒の問いを無視して、
「警察は、どこまで蒜壷一族のことを調べ上げているの」
と、訊いた。
「ふっ、こちらからの質問には答えられないというわけか……」
室緒は唇を嘗めた。
那美という女……。ただの女ではないということは分かっている。分かっているつもりだが、二十代前半の可憐な少女にしか見えない那美を目の前に見ると、どう判断を下したらよいか分からない。
この女はただの少女なのだろうか…………。それとも…………。
「私が、話すとでも?」
那美がふてぶてしく言う。
「是が非でも話してもらう」
室緒は、底光りする視線を那美に送った。
「いいわ…………。少しだけ蒜壺一族のことを話してあげる」
警察という治安を守る組織に知られてしまった以上、話さないわけにはいかない。
那美は、最低限の情報を室尾たちに話すことにした。
「蒜壺は、おもに夜に蠢くもの。夜に人を狩る」
「昼間は? 日中は、人を襲わないのか?」
室緒が疑問を投げかける。
「蒜壷一族は、太陽の光の下では、生を保つことができない」
那美が、そう応えると、
「生を保つことができないだと。……死んでしまうということか」
室緒が、訝しげな眼を那美に向けた。あの奇怪な怪物が陽の光を浴びただけで、死んでしまうとは思えない。現に、あの食吐という怪物は、巨木を引き抜き、大岩を持ち上げ、森林を破壊し続けた。那美というこの女が、現れ、食吐を倒さなかったら、森一つ、なくなっていただろう。そんな強じんな生命力を持つ怪物が、陽光を浴びただけで死んでしまうなんて……。
「時間にして、どれくらいだ。どれくらい蒜壷のものは、昼間、そこにいることができる?」
室緒は、質問を続ける。
「その時の気象状況や、場所にもよるけれど、数時間から半日」
「すると、あの怪物は、死ぬことが分かっていて、日中、君を倒しに出てきたというわけだ」
「ええっ……」
巨大な身体を持つ食吐の姿を、日の光から隠すものなど、地上には存在しない。食吐は、伽羅に導かれ、極異界から地上に出たきた時点で、死を悟ったであろう。
食吐を召喚した、伽羅は大事な手下である食吐を犠牲にしてまで、那美を倒そうとし、食吐は、伽羅の召喚をを拒むことなく、死を覚悟して、那美と戦った……。
「蒜壷は、どうやら本気で、私から十種神宝を奪おうとしているようね」
と、那美が言う。
「十種神宝!? なんだ、それっ?」
那美は、室緒の問いには答えず、
「私が、このヘリに乗り込んだのは、あなたたちに警告をあたえるため」
と、言った。
「警告!?」
「ええっ……。蒜壷一族は、これから頻繁にあなたたちの前に現れて、人々を恐怖に陥れることになる」
「これからも、神社や公園、漁港で起きたような、陰惨な殺人事件が続くというのか」
「すでにその兆候が見られていたでしょう。それらの事件が、起きる前に……」
「……」
室緒は、眼を伏せた。
那美は、あの陰惨な事件の前に、兆しがあったと言っている。
その、兆しとは!?
「室緒さん、行方不明事件ですよ。数カ月前から行方不明者の数が、うなぎ上りに上がってきてるじゃあないですか」
室緒の傍らで、だまってことの成り行きを見ていた村中が、口をはさむ。
「ここ数カ月間に起きている行方不明者が、蒜壷に襲われているというのか」
「そうとしか考えられませんよ。この半年で三百五十人以上の行方不明者が確認され、そのうち約三百人は、特異家出人じゃあないですか。その特異家出人こそ、蒜壷の犠牲になった人々じゃあないですか?」
村中は、拳を握りしめた。
「夜間、出歩かないようにと警告を出してください。被害を最小限に抑えるためには、それしかありません」
那美は、踵を返した。
「ヘリの……ヘリの扉を開けてください」
那美が、言う。
「ここから出てゆくのか?」
室緒が、そういうと、那美はコクリとうなずいた。
「帰すわけにはいかん。君には、このまま署まで、同行してもらう。まだまだ聞きたいことが山ほどあるのに、帰すわけにはいかん」
室緒は、なによりも、この女“那美”のことを知りたかった。
光る剣を操り、自由自在に空を飛び、身長五十メートルを越す怪物を倒した女、那美。
この女は、はたして、人と呼べるのだろうか?
「このまま、署まで、同行してもらう」
「嫌だと言ったら」
「嫌だとは言わせない」
室緒は、那美を睨み付けた。
那美は、胸元から若草色の香袋を取り出し、香袋の中から勾玉を、一つ取り出した。鴇色に光る勾玉を空中に放り投げると、勾玉は閃光を発して、光る剣に変わった。
「手荒なマネはしたくなかったけれども……。あなたたちに関わっている暇はないの」
那美は、光輝く剣で、ヘリの側部ドアを、真っ二つに叩き斬ると、そのまま、空に向かって飛び出した。胸元にしまい込んだ若草色の香袋が、青藤色を光る。那美の身体が、膜のようなもの覆われ、空にふわりと浮かんだ。
「待て! 待ってくれっ。我々は、これからどうしたらいいんだ。ただ、蒜壷の影に怯え、暮らしてゆけというのかーー」
室緒は、遠ざかる那美の後ろ姿に、そう叫んでいた。
6
その昔、そこを訪れた人々は、その異様な光景に、心の奥底から苦悶し、絶望感に苛まされた。
濁りきった空気と、乾燥し、苔すら生えていない荒涼とした大地。大地に散らばる切り立った断崖絶壁に、猛り狂った風がぶち当たっている。時おり地に突き刺す雷電が、薄暗いしじまを激しく照らし出し、雷電とともに降り出した冷たい雨が通り過ぎると、雲海ににも似た霧が、辺りに立ちこめる。地に蠢くものはおのれと、ここにいる奇怪な姿の化け物のみ。
ここには希望はない。この地に落ちた人々の未来には、死よりも恐ろしい憎しみに満ちた狂気が横たわり、人々は発狂しながら朽ちて行くのだ。
伽羅たち蒜壷一族は、その地を極異界と呼んでいた。現界でも幽現界でも、幽界でもない、蒜壷一族が棲む極異界。ここには、蒜壷一族がのみがいる。数年に一度、現界から人間が迷い込んでくることがあるが、生き残った者はいない。この地の墜ち、発狂した人々は、狂気と現実のはざまに挟まれながら、蒜壷一族の餌になるだけだった。
那美とに戦いを終えた伽羅と琥耶姫は、極異界にある沼のほとりに腰を下ろしていた。
伽羅が言う。
「琥耶姫よ。あてずっぽうに那美を襲ったところで、十種神宝は手に入らんぞ」
「あらっ、あてずっぽうじゃあないわよ。俄蔵山に那美をおびき寄せたのは、それなりに考えがあってのこと」
「考えがあってのこと? 俄蔵山には、ここ極異界につながる異空間が、いたるところにあるからか。ふん、伯楠でも呼び出して、那美に奇術でも見せる気だったのか」
「からかうな。わらわにそんな趣味などないわ」
伯楠とは、その昔、俄蔵山に棲んでいたといわれる仙人だ。年に二、三度、山から麓の村に降り、人々をたぶらかしていたと伝えられている。
「伯楠は、蒜壷の中でも、ほとんど戦闘力がない身分の低い、とるに足らないモノ。それゆえ、餓鬼もあやつの元には集まらず、あやつは、その憂さをはらすために、いつも人間どもをからかっていた。あれほど洪暫さまが注意を促したのにもかかわらず、頻繁に下界に降り、その正体を人間どもに知られそうになってしまった愚かな奴よ」
伽羅が言葉を続ける。
「それゆえ、俺たち蒜壷のモノが拠り所とする極異界を追われ、いまでは、どこにいるのか分からない……。琥耶姫……。おまえも伯楠と同じような道を歩むというのか。同じように、人間どもをたぶらたかしたいか」
「何を言う。わらわをバカにするのか」
琥耶姫が、伽羅を睨み付ける。
「バカになどしていないさ。俺はだな琥耶姫、極異界とつながる空間が開かれている俄蔵山に、あまり人間を近寄せるなと言いたいのさ」
「わらわは、伯楠とは違う。大昔のバカ者と、わらわを一緒にするな」
室緒がネットで調べた伯楠の記述が載せられていた文献は、平安時代のモノだった。ということは、蒜壷一族は平安時代にはすでに、その姿を現世に現していたのだろうか。
「わらわは、わらわたちの拠り所、極異界に、那美を誘い込めれば、那美をしとめることなど簡単な事だと思ったのよ。だから、わらわは雁黄から連絡を受け取った時、雁黄にここに赴くように誘った」
と、琥耶姫が言うと、
「極異界に誘い込むか…………。誘い込み、捕まえたところで、あの那美がおとなしく口を割ると思うか」
と、伽羅が応えた。
「癒士であるわらわを馬鹿にするではない。わらわの術で、那美の口などたやすくを割らせてみせようぞ」
「おまえの術!? 確かにおまえの術と薬は、人はおろか、俺たち蒜壷の者たちには有効だろうよ。けど、那美に対してはどうかな?」
「効かないと言うのか」
「いいか、琥耶姫。よく聞け。俺たちは、俺たちの呪いを解くと言われる十種神宝を、那美が持っているという情報を得た。が、十種神宝がどういう形のモノか、那美がどのようにしまいこんでいるのか、まるでわかっていない」
「古来から伝わっている文献の絵図があるではないか。わらわたちは、それを頼りに十種神宝を探し続けてきたはず」
十種神宝を示したと思われる絵図は、垂加神道系の書物や、神社の護符などで人々に知られている。蒜壷一族のものも、それが十種神宝ではないかと信じ、してきた。
だが……。
「あの絵図は、物部が蘇我一族に滅ぼされる前に描かれた絵図にすぎん。物部が滅亡した後、十種神宝は形を変え、数百年の時を経て、那美の手に渡った。と、洪暫さまはおっしゃったじゃあないか」
「形を変えた? どういうことだ」
「おまえ、気づかなかったのか。那美は十種神宝らしきものを持たない状態で、十種神宝の力をつかっていた」
那美は、伽羅たちとの戦闘時に、十種神宝を使用していた。十種神宝の一つ、八握剣を光破剣と呼び、その剣で数十匹の餓鬼を葬り去り、すべての魔を退けると言う品物比礼を使い、雁黄の愛犬であった黒堕を焼殺し、足玉といわれる十種神宝の力で空を飛んだ。
「形など……。十種神宝の形など、どうでもいいではないか。わらわの術で那美の口を割らせ、十種神宝のありかを聴き出せばいいだけのことじゃ」
「十種神宝がどんな形でそこにあるのかもわからず、那美に近づくというのか。笑止な。十種神宝のありかを聞き出す前に、黒堕みたいに焼殺されるだろうよ」
果敢にも那美の首筋に噛みついた黒堕。黒堕の牙は那美には届かなかった。愛する主人雁黄の前で黒堕の首は、真っ黒な煤と化してしまったのだ。
「那美は常に十種神宝を携帯している。携帯しているからこそ、戦闘状態いる時でも自由自在に十種神宝を操れるのだ。どんな方法で携帯しているかは分からんがな……。そこでだな、琥耶姫。おまえの持っている薬を使いたい」
伽羅は沼のほとりに置かれたある巨岩に眼を向けた。
「オイ、いつまでも、そこに隠れていないで出て来いよ」
巨岩の陰から出てきたのは、二本足で歩く奇怪な姿のヒキガエルだった。ヒキガエルは、泣いているのか嗤っているのか、分からないような声を出して、伽羅たちの方に向かった歩いてきた。
「惟三……。おまえ、いつからここに……」
琥耶姫は、惟三の突然の出現に戸惑っていた。惟三は、まったくその存在を感じさせなかった。絶えず辺りに気を配り、神経を研ぎ澄ませている琥耶姫にとって、惟三の現れ方は、まさしく脅威だった。
「惟三は、気配を消し、闇にまぎれて諜報活動を得意とする蒜壷。が、ヒキガエルの姿では、よういに人間界に潜り込むことはできん」
伽羅がそう言うと、琥耶姫の顔に狼狽の色が走った。
「まさか……。惟三にわらわが大事にしている化瑠魂を分け与えろと!?」
琥耶姫が持つ化瑠魂は、人間に化身できない蒜壷のものを、人に化身させることができる粒上の秘薬だ。人に化身できない癒士である琥耶姫が、苦心して造りあげた秘薬である。
「その、まさかだ。琥耶姫よ。おまえの持っている化瑠魂を数粒、惟三に分け与えてくれんか」
「い、嫌だ。化瑠魂は、わらわがわらわのためだけに造った秘薬。惟三になど渡すことなどできぬ」
惟三は、いつも、陰に隠れ、人の動向をあれこれ詮索する男だ。そんな、嫌らしい男に大事な化瑠魂を与えるなど、とんでもない。
琥耶姫は、醜いヒキガエルの姿の惟三に軽蔑の眼差しを送った。
「ふん、俺や死んでいった雁黄は、人に化身できるが、おまえは薬の力なしじゃあ人に化身できないからな」
伽羅が琥耶姫を、挑発する。
「黙れ! いつか、わらわもおまえたちのように秘薬なしでも、人に化身してみせるわ」
琥耶姫は、地団太を踏んで悔しがった。
蒜壷一族の中には、羅刹や食吐のような本能だけで生きている餓鬼もいれば、伽羅や惟三のように知性を持ち、論理的に行動をする蒜壷もいる。
だが、論理的に行動をする蒜壷たちの中にも、人に化身できない蒜壷も存在するのだ。琥耶姫や惟三も、おのれの力のみでは、人に化身できなかった。
「琥耶姫よ。冷静になれよ。おまえの持っている化瑠魂、すべてを惟三に分け与えよと、言ってはいない。化瑠魂一粒で三日間、人間に化身できるんだろう。一粒でいい。惟三は三日もあれば、十種神宝の秘密をさぐってくるさ」
「化瑠魂一粒造るのに、どれだけ時間と労力がかかると思う? 二ヶ月、二ヶ月、蔵に籠ってやっとのことでものになるのよ」
「もったいないっていう奴か…………。 おまえが普段、トカゲ顔でいる理由がなんとなく分かるような気がするな」
「だまらっしゃい!」
琥耶姫は、伽羅を睨み付けた。
7
ごつごつした岩だらけの荒涼とした風景がの中に、周りを緑の広葉樹林で覆われている静ひつな泉があった。それは、極異界にある、数少ない清涼な水がわき出ている泉だった。
その「命の泉」のほとりに、琥耶姫がいた。琥耶姫は、なにをするわけでもなく、「命の泉」を、ただ見つめている。
泉に集う他の蒜壷の者は、持ってきた筒に命の泉の水を汲んでいた。呆けたような顔をして、立ち続けている琥耶姫に特に感心をはらうわけでもなく、一心不乱に「命の泉」の水を汲んでいた。
(わらわの母は、美しい人の女の姿をしていた)
琥耶姫は、水面に映るトカゲ顔を見つめながら、ひとりごちた。
(母は、美しかった……。なのに、わらわは、なぜ、こんなにも醜いのじゃ)
琥耶姫の、瞳から、一筋の涙が流れ落ちる。
蒜壷の者は、みながみな怪物のような姿で、生まれ落ちるわけではない。
蜘蛛や、猿、惟三のようなヒキガエルのような姿で、生まれてくるものもあるが、人と全く変わらない姿で、この世に生まれてくる蒜壷のものもあった。
琥耶姫の母、乙姫もまた、人間の姿をした蒜壷の者だった。
(わらわも、母のように人の姿で蒜壷に生まれたかった……)
琥耶姫の脳裏に、人の腸に噛り付いている母の姿が蘇った。
桜色の頬をした母が、人の腸に噛り付くたびに、母の唇が真っ赤に染まった。長い髪の母が、人の千切れた腕に噛り付くたびに、弾け飛んだ血糊が、傍らで乙姫を見つめ続けている琥耶姫の頬を朱色に染めた。
母は、美しいかった……。人の腸に噛り付いていても、母は美しいかった。
人間の容姿で生まれてきた蒜壷も、怪物のような姿で生まれてきた蒜壷も、人肉を食べゆかなければ、生きてゆけないという宿命を負わされ、この世に生まれ落ちる。
蒜壷の者は、生まれ落ちて、三つの歳になるまでは、人の肉を食べなくても、飢餓状態に陥ることはない。四歳になるころから、無性に人肉を求めるようになる。七日に一度、人肉を食さなければ、猛烈な飢餓状態に陥いり、八日目には気が狂ってしまうのだ。
琥耶姫の母、乙姫は、美しい人間の姿をしているゆえ、容易に人に近づくことができた。春に咲く桜のような匂い立つ美貌と、男心をくすぐる甘いささやきを武器にして、男どもを次々と、凋落していった。乙姫の色香に惑わされなかった男などいやしない。
男どもは、恍惚の果てに、乙姫に無残に殺され、乙姫の腹の中に収まっていった。
「わらわの、父は、どんな男だったのじゃ」
ある日、琥耶姫は、男の脚に齧り付いている乙姫に聞いた。
「蒜壷一の強者さ。誰も、おまえの父にはかなわなかった」
「どんな姿をしていたのじゃ。母と同じ、人の姿をしていたか?」
琥耶姫の、聞きたかったことは、父の強さではなかった。父の強さより、父の容姿を知りたかった。
「なぜ、そんなことを訊く。人の姿をしている蒜壷の者など、気持ちが悪いわ」
「母は、自分の姿が嫌いなのか?」
「ああっ、嫌いだね。こんな弱々しい姿。わらわが蒜壷の者じゃあなかったら、とうの昔に、獣どもの餌食にされていたわい。わらわの、この腕を見よ。小枝のように細い腕じゃ。この腕で、襲ってくる獣を殺めることなどできぬ。わらわに蒜壷の者が持つ力がなかったら、わらわは生きてこれなかったわ」
「母……」
「わらわは、人間の姿になど生まれ落ちたくはなかった。夜亞虎さまのような力強い蒜壷に生まれたかった」
猿の顔、狸の胴体、虎の手足と蛇の尾を持つ夜亞虎。
極異界から都下界に降り、京の都を度々襲っている夜亞虎は、都の人々に“ヌエ”と、呼ばれて恐れられていた。
「おまえは、どうじゃ。夜亞虎さまのような強い蒜壷になりたいじゃろ」
琥耶姫は、できれば、母のようになりたかった。
自分が殺めた人間の肉を、いつも最初に琥耶姫に差し出す、美しく優しい母は、琥耶姫の憧れでもあった。
「わらわに、もっと力があったなら、もっとたくさんの人の肉を調達できるのにのう……。琥耶姫、おまえ、もっと人の肉を食べたいだろう」
乙姫は男の脚に噛り付くのを止め、琥耶姫の顔を覗き込んだ。
「こんな旨いもの、他にないからの。もっと食べたいだろう。ほれ、もっと食え」
乙姫は、琥耶姫に、食いかけた腸の一部を投げ与えた。
ぐしょぐしょして、赤くただれた臓器……。蒜壷の者は、これを喜々として食べている。
これを食べている時の蒜壷の者は、あさましい……。
が、母は……。
「どうじゃ、食え。喰わんのか」
乙姫は、人の目玉を、琥耶姫にさし出した。琥耶姫は、顔を背ける。.
人の肉など、本当は食べたくない。豚や牛の肉なら、平気で食べることができたが、母と同じような姿をしている人の肉など、本当は食べたくない……。
けれど、食さなければ、気が狂う。気が狂って死んでしまう。
琥耶姫は、人の目玉を退けて、傍にあった、人の腸に噛り付いた。
琥耶姫は、十の歳を数える年月の間に、何人もの、気が狂って死んでいった仲間の蒜壷を見てきた。
自分が何者かも分からなくなって、汚物にまみれながら、朽ちて行った仲間の蒜壷たち……。
十の歳を数える年月の間に、何人もの、気が狂って死んでいった仲間の蒜壷を見てきた琥耶姫は、あのような死に方だけはしたくないと思わずにはいられなかった。
「旨いのう。旨いのう。わらわにもっと力があったら、毎日、人の肉が喰えるのに」
人に血で汚れていても、美しい母。その母も、琥耶姫が、十二の時に亡くなった。
たぶらかした男の肉を食している時に、後ろから、鉈で後頭部を割られ、死んでいったのだ。
乙姫を、殺めたのは、人の女だった。愛する男を殺された悔しさが、女に過大な力を与えていたのだろう。女の一撃は、蒜壷である乙姫の頭蓋骨を、見事に砕いていた。
「乙姫も、人の手にかかって殺されたか……。おまえも人に手にかかって殺されないように注意するんだな」
乙姫を死に至らしめた女を、始末した蒜壷の者が、琥耶姫に言った。
「どういうことじゃ。おまえも人の手にかかって殺されるなよなとは、どういうことじゃ」
乙姫の亡骸の傍で、琥耶姫が、泣きながら問う。
「おまえの父、禄牢田も、人に殺されているんだよ」
「父が、人に殺されただと! 父は蒜壷一の強者じゃあなかったのか?」
「バカ言えなよ。禄牢田は人を騙す能力しか持たない貧弱な蒜壷よ。おまえの母と同じように、人をたぶらかし、人の肉を漁っていたケチな蒜壷よ。禄牢田はなあ、女の肉を喰らっている時に、人の男どもによってたかってなぶり殺されのよ」
「父は、人の男に殺されたというのか」
「そうよ。われら蒜壷の者のとって、家畜にしかすぎない人の手によってな」
「そんなことは……。そんなことは嘘じゃあ。父も人の手によって殺されたなどと……」
琥耶姫が、物心ついた時には、父はこの世にはいなかった。
寝物語に母から聞かされる父の姿は、誰よりも強くて優しい男の姿だった。
猿の顔をした蒜壷の者は、乙姫の髪を撫でると、母を失い、泣き続けている琥耶姫を見つめた。
「なぜ、そんなに泣く? 母を失ったことが、そんなに悲しいか?」
「……」
「泣くな。蒜壷の者は、強くなければ生きては行けない。たとえ女でもな」
「母が殺されたというのに、泣くなというのか」
「ああっ、泣いても腹の足しにはならんぞ」
蒜壷の者は、蛇の尾を琥耶姫の頭に乗せた。
「……ひとつ、訊いていいか」
琥耶姫が、訊ねる。
「なんだ、なにが訊きたい?」
「父も、人の姿をした蒜壷なのだろう。それなのに……。なぜ、なぜじゃあ。なぜトカゲの顔したわらわが、母と父の間に生まれたのじゃあ」
琥耶姫は、猿の顔の蒜壷のものに問うた。
「さあね……。俺にそんなこと分かるはずないだろう」
猿の顔をした蒜壷は、汚らしい歯茎を見せて嗤った。
「なぜじゃ、なぜじゃあ、なぜに……、わらわはこんなに醜い」
「おまえが醜いじゃと!?」
「わらわは醜い。見よ、わらわの身体を」
琥耶姫は、帯を解き、胸をはだけた。猿の顔の蒜壷のものの前に、思春期に入った少女の素肌が露出する。色香を匂わせてきたうなじも、ふくらみかけてきた乳房も、緑色の鱗に覆われていた。
「なぜじゃあ、なぜ、わらわはこんな身体なんじゃ。母も父もひとの姿の蒜壷だったのに、なぜ、その子であるわらわが、トカゲの顔の緑の鱗の蒜壷なのじぁ」
「おまえ……。そんなに自分の姿が嫌いか?」
「ああっ、嫌いじゃ。わらわは母のように美しい姿にうまれたかった……。美しい姿にな」
琥耶姫は頬を涙で濡らした。泣きつづける琥耶姫の傍らに横たわった乙姫の遺体は、琥耶姫の慟哭に、なにも答えない。静かに、そこに身を横たえているだけだった。ひとの姿をした蒜壷のものとして……。
「つぐつぐ愚かな女子よなあ。おまえという奴は」
猿の顔の蒜壷は言う。
「愚かしいだと。なぜじゃあ、なぜ、おまえはわらわを愚かしいというのじゃ。女子が美を求めて何が悪い。母は美しいかった。母の美しさにひとの男どもは、魅惑され、あがらうことができなかったのじゃぞ」
「おまえには、ひとを恐怖に落とす容姿と、手の甲からせり出す、強靭な剣があるではないか」
「わらわは! わらわは、そんなことを言っているんじゃあない」
琥耶姫にとって、手の甲から飛び出す、のこぎり状の剣の存在も忌まわしいかった。当時十二歳の琥耶姫にとって、手の甲から、せり出すのこぎり状の剣は、自分の身体を汚す、けがわらしいものにすぎなかった。
「おまえ、ひとになりたいのか? 人の姿に憧れているのか」
猿の顔をした蒜壷が問う。
「ひとになぞになりたいわけではない」
「ほう、ひとになりたくないと?」
「ひとは、徒党を組んで無差別に殺し合いばかりしているではないか」
琥耶姫は、母と見、遠い昔見た、人間同士の争いに想いを馳せた。
数年前、日照り続き、周辺の村々で水争いが起こった。四つの村が水を求めて争い、勝利した村の人々が、他の村の男どもを皆殺しにした。女は凌辱され、子供たちは奴隷にされ、苦労して耕した田畑は、水争いに勝った村のものなり、水争いに勝った村だけが、その年、生き延びた。
「わらわは、あのような恐ろしい光景をみたくない……」
琥耶姫の肩が、二つほど、けいれんした。
「なぜ、ひとはあのように争うのじゃ。いままで手を取り合っていたものどもが、憎しみの眼で殺しあったのだぞ……」
幼かった琥耶姫の心に残ったその体験は、強烈な澱となって残っていた。
「それでも……。それでも、ひとは美しい。人の姿は美しい…………。わらわは人の姿をした蒜壺に生まれたかった」
「なら、ひとに化身して過ごせばいいではないか」
「わらわには、ひとの姿に化身できる能力はない」
「そりゃあ、残念だな」
猿の顔をした蒜壷のものは、鼻で嗤った。
「おまえは……、おまえは、ひとの姿に化身できるのか?」
琥耶姫が問う。
「できねえよ。できたとしても、ひとの姿になぞなりたくねえ。みなよ、俺のこの身体を。俺はこの身体に誇りを持っている」
蒜壷のものの猿の顔は、あくまで凛々かった。虎の手足は猛々しく、蛇の尾は力強い。そのタヌキに似た胴さえも、観る者を圧倒する。
「おまえは、その姿が気に入っているのか」
琥耶姫が言う。
「ああっ、京の人間どもが、俺さまをみて“ヌエ”が来たぞと恐怖する。この姿はおれの誇りさ。ひとを……、ひとの姿を美しいという、おまえにはわからんだろうがな」
ヌエは、踵を返した。
「おまえは……。おまえは、帰るのか」
琥耶姫の問いに、ヌエは何も答えなかった。
ヌエは空中高く跳ぶと、そのまま空に舞い上がった。
「琥耶姫よ。ひとつだけ教えてやろう。ひとに化身できぬ蒜壷が、ひとに化身できる方法が、たった一つだけある」
琥耶姫は、ヌエの言葉に眼を見はった。
「化瑠魂を使え。その昔、化瑠魂でひとに化身した蒜壷がいる」
ヌエは、それだけ言うと、空の彼方へ飛び去って行った。
その後、琥耶姫は化瑠魂なるものを追い求めて、癒師への道に入った。
癒師の道に入ったものは七日間の断食を、三度ほど繰り返す苦行を行わなければならない。人肉を食さなければ、八日目には狂うという蒜壷。その蒜壷のものが、自らの意志で人肉を絶つのである。
断食の苦行を終えた蒜壷は、その後、蒜壷一族だけが持つ森羅万象を見通す眼で、自然界の理を身に付ける修行に入る。
ひとり、深山に籠り、夏は炎天下の岩場で座禅を組み、冬は寒空の下で滝に打たれ、わずかな食料で、万物流転の術を身につけるまで、深山を降りることは許されない。
万物流転の術を身につけて、初めて、先達の癒師から、癒師としての医術を教えてもらえるのである。万物流転の術を身につけることができる蒜壷のものは、千人に一人。万物流転の術を身につけることができなかった蒜壷は、深山の洞穴の中で、ただ老いて朽ちて行く。
癒師の修行。その修業は、苦難に満ち溢れた苦闘の道程だった。
詳細は、ここでは省くが、琥耶姫は、その苦難の道に打ち勝った。何度も挫折を繰り返しながらも、最後には癒師として旅立つことができた。
深山を降りた琥耶姫は、先達の癒師に認められ、癒師としての医術を先達の癒師から学んだ。念願だった化瑠魂の造り方も覚えた。琥耶姫が実際に、化瑠魂を使用できるようになったのは、琥耶姫が、癒師を志して五十年目の出来事だった。
(これを、手にいれるために、何度、血の涙を流したか……)
琥耶姫は、胸に手をやり、着物の中に忍ばせている化瑠魂を握った。
一羽の鴉が琥耶姫の頭上を舞っている。右の眼が潰れている隻眼の鴉だ。隻眼の鴉は静かに舞い降りると、琥耶姫の傍らに立っている枯れ木に止まった。
「刻……。待ちわびたぞ」
琥耶姫が言った。
「クヤヒメ、ナンカヨウカ?」
「ようが、あるから呼んだ」
「ナンノヨウダ。コクハイソガシイ」
隻眼の鴉は、忙しく、一つ目をキョロキョロと動かした。
「ヒキガエルの惟三が、人間界に降り立った」
琥耶姫が言う。
「コレゾウガ!? ナンオタメニ?」
「那美の秘密を探るためにじゃ」
「ナミノヒミツヲサグル? ナミノナニヲサグル?」
「那美の持つ、十種神宝の秘密。惟三は、それがどのようなものであるか、きっと探り出すであろう……。刻、おまえは、惟三の後をつけ、惟三のつかんだ情報を、逐一わらわに報告せよ」
「コクハ、コレゾウノツカンダヒミツヲ、クヤヒニシラセレバイイノカ?」
「そうじゃあ、おまえは、わらわに惟三が掴んだ情報をしらせればいい。ただし、人間界に降りた惟三は、人に化身しているから、おまえのその隻眼で、よくみきわめるがいい」
「ヒトニケシンデキナイ、コレゾウガ、ヒトニケシンシタノカ?」
「そうじゃ、化瑠魂を使った」
「クヤヒハ。カリュウコンヲ。コレゾウニワタシタノカ?」
「そうじゃ……」
「ナゼ? ナゼ、コレゾウニ、カリュウコンヲワタシタノダ?」
「聞くな!」
琥耶姫は、刻を睨み付けた。
「おまえは黙って、わらわに惟三の動向を知らせればよい。化瑠魂を使用した蒜壷は生体から黒いオーラ―を発している。おまえのその眼なら、どの人間が惟三が化身した人間か見分けることができるだろう」
「ワカッタ。コク、シラセル」
隻眼の鴉は、一つ眼を光らせ、コールタールのような黒い羽を羽ばたかせた。
「吉報を待っているぞい」
隻眼の鴉は、琥耶姫の言葉を背に受けて、空の彼方に飛んで行った。
8
霞が関。日本の主な官公庁施設が立ち並ぶ地区として広く知られているこの界隈の一角に、日本の警察の頂点である警察庁が置かれている。
その警察庁の一室に、室緒、村中、高橋がいた。
「室緒さん、なんで俺たちが、こんな堅苦しいところによびだされたんですか?」
村中が聞いた。
「俺らみたいな地方の警官が、警察庁に呼び出されるなんて、上は何をかんがえているんでしょうね」
高橋が、村中の言葉を継ぐ。
「俺たちが、ここに呼び出されたのは、それなりの理由があるからだ。おそらく……」
室緒が、おもむろに言葉を吐いた。
I県の地方公務員でしかない室緒たちが、警察庁に呼び出されたのは、室緒たちが俄蔵山から帰ってきてから、三日後のことだった。
一本の電話で警察庁に呼び出された室緒たちは、とるものもとらずに、そのまま直ぐに新幹線に乗り込み、霞が関にある警察庁に向かった。室緒たちは、警察庁に着くと、地下五階に通じる直通のエレベーターに乗せられた。その場で、屈強な男たちにボディーチェックをされ、窓が一つもない五階にある室に通されたのだった。
どれくらい時間が経っただろうか。薄暗い一室に通された室緒たちが、重厚な黒い革張りのソファーに坐していると、六十代だと思われる白髪の紳士と、三十代だと思われる二人の男が、室に入ってきた。
(おや?)
室緒は、六十代だと思われる男に見覚えがあった。六十代の男は、七年前、この国の大臣を務めあげた男だった。
と、すると、後ろに控える三十代だと思われる男たちは、この男のボディーガードなのだろうか。サングラスに隠されているはずの瞳が、力強く光っているような錯覚を感じた。
「おい、おまえら。挨拶ぐらいしたらどうだ!」
サングラスをかけた男の一人が、室緒をなじった。
「それともなにかい、五十嵐元国務大臣には挨拶はできんというわけか」
もう一人のサングラスをかけた男が、邪見に声をかける。
「そういうわけでは……」
村中が、気弱に応えると、五十嵐元国務大臣が、サングラスをかけた男どもを、左手で制した。
「挨拶などしなくていい。おまえたちのことは、考え方、行動様式、性格、趣味や家族形成、そのすべてを、こちらで調べ上げた。そうだな、八木」
五十嵐元国務大臣が、サングラスの男に確認をとる。
「はい」
八木と呼ばれた男がうなずくと、五十嵐元国務大臣は、満足そうに口元を歪ませた。
「……時間がもったいない、八木、スクリーンを用意しろ!」
五十嵐元国務大臣の前に陣取った男の一人が、はデスク上のパソコンのスウッチを入れた。デスクタイプのパソコンのスウッチが入ると、デスクの後方のスクリーンに、パソコンのモニターに映し出された画像が、そのまま映し出された。
「この女について、おまえたちが知りえた情報を、わしらに伝えてほしい」
スクリーンには、火災で焼け落ちたと思われる古い木造家屋と、その前に立つ女の姿が映っていた。
「那美……」
室緒が思わず、口走る。
「やはり、知っておったか。……この女は、いま、I県で起きている連続猟奇殺人事件に、深く関わっているはずだ」
五十嵐元国務大臣は、眉間に皺をよせた。
五十嵐元国務大臣は、那美について、どれくらいの事を知っているのだろうか? 連続猟奇殺人事件は、蒜壷一族の仕業という情報は得ているのだろうか?
室緒を訝った。
「で、どうなんだ。この女は一連の猟奇殺人事件に関わっているんだろう。応えろ」
室緒が、黙っていると、八木と呼ばれた男が、室緒たちに迫った。
「関わっていることは確かですが、彼女は、人を殺していません。人を殺しているのは、恐らく蒜壷一族と呼ばれるものたちです」
と、室緒が言葉を返すと、
「ほう、蒜壷一族のことも知っているのか。それじゃあ蒜壷一族のことも、我々に教えてもらおうか。蒜壷一族のことで知りえたことをすべてを」
五十嵐元国務大臣は、スクリーン上の那美の画像を、別な画像に変えた。
「こ、これは……!?」
スクリーン上に映し出されたのは、着流しを着た犬の顔の人間だった。
「この絵は、明治の始めに撮られた写真だ。少々痛みが激しいが、合成写真ではない」
五十嵐元国務大臣の指が、パソコン上で、スライドし、別な写真を、スクリーン上に出す。スクリーン上に現れたのは、俄蔵山に現れた巨大な怪物に似た化け物だった。
「これは、昭和の始めに山陰地方の、とある山麓で撮られた写真だ。少々、ボケているが、これも合成写真ではない」
五十嵐元国務大臣は、次々とスライドを変えてゆく。スクリーン上には、様々な形態の化物が映し出されていった。
牛の顔をした人間。カエルの顔と羊の身体を持った人間とは思えない化け物。三つの尾を持った巨大な白猫……。
これらの一連の写真は、目撃された蒜壷一族の一部だと言う。
「蒜壷一族だと思われる写真は、ここ百年間の間に、わずか二十数枚のみしか残されてはいない。写真の他に蒜壷一族の存在を示す資料は、古い文献だけだ……」
「五十嵐元国務大臣…………。大臣はどこめで蒜壺のことを!」
室緒は、五十嵐元国務大臣が、蒜壷一族が人を食する一族であるということが分かっているか知りたかった。
「大臣は、蒜壷一族がどんな一族が知っているのですか?」
「私は、君ら以上に蒜壷一族のことは知っているつもりだ。蒜壷が人を食することも、平安の昔から、人の世に隠れ、生き続けてきたこともな」
「平安の昔からって!? 平安時代っていうことですか? 蒜壷一族は、そんな昔から、いたんですか?」
「もっと昔から……。もっと昔から、この国に存在してかもしれんが、記録に残っているのは、平安時代からだ」
五十嵐元国務大臣は、そこで一旦言葉を切り、スクリーンに再び、那美の姿を映し出した。
「那美のことも、我々の組織が、五十年も前から追っている」
「えっ、五十年も前からですか!?」
室緒は、思わず声をあげた。
スクリーン上に映し出されている那美の姿と、室緒たちが見た那美の姿は同じ少女の容姿をしている。
「那美は、五十年前から、変わらない姿で現れているというわけですか?」
「いや、那美という女は、蒜壷一族同様、それ以前からこの姿のままで、この社会の中に存在していたかもしれない」
「それ以前から? 」
スクリーン上に映し出されている那美の姿。
暮れゆく空の下、焼け出された木造家屋の前に佇む少女。長い艶やかな髪と、愁いを帯びた切れ長の瞳が、くすぶっている焼け跡の中で、妖しい光を帯びている。
そこに佇む那美の姿は、俄蔵山で出逢ったあの少女の姿に間違いなかった。
「この写真は、昭和二十八年頃に撮られたもんだが、この写真を撮った男は、那美のことを何も覚えていない」
五十嵐元国務大臣が右手で目じりを擦った。
「なぜ、覚えていないんですか? 那美に実際に会い、写真を撮ったんでしょう。覚えていないわけないでしょう」
村中が、スクリーン上の那美の姿を見ながら言う。
「なぜだと思う……。村中くんだったかな君は。……村中くん、君に想像できるかな。なぜ、この写真を撮った男が、那美を撮ったことを忘れたと思う」
五十嵐元国務大臣が、逆に、村中に訊いた。
「なぜって……。それは……」
村中は一度だけ、俄蔵山の上空で那美という少女に出遭っている。一度出遭っただけでも、那美は村中に強烈な印象を与えた。忘れようにも、忘れることができない。が、この写真を撮った男は、那美のことを覚えていないと言う。なぜだ?
「記憶を消されたんだよ。記憶を。いま病院に入院している吉川さんと同じだ。那美は、その存在を、我々に知られたくないんだ」
村中が、戸惑っていると、見かねた室緒が、村中の代わりに応えた。
鉄工場跡の惨劇の最中に、吉川は持っていたボイスレコーダーに、那美の声を録音した。吉川刑事のおかげで、室緒たちは那美の存在を知ることができたが、吉川刑事の記憶は、まだ戻っていない。
「那美は、ひたすらにその存在を隠し続けてきた。隠し続けるために、那美と接触した人間の記憶を奪い続けてきた。記憶を奪われなかった人間も、一部にはいるがな……」
五十嵐が、室緒の目を覗き込むようにして言った。
「一部の人間とは、俺たちのことか……」
室緒は、眼を泳がせた。
「君たちもそのようだな……。君たちのように複数の人間が、特殊な状況において、那美と接触した場合、那美は接触した人間の記憶を奪うことができないようだ。 Y県で、五年前に起きた四人若い男女が獣の食い殺されたという忌まわしい事件があっただろう」
十人のグループで、緑が深い山間のキャンプ場に来ていた若者たちを襲った悲劇は、当時のマスコミを大いに賑わせた事件だった。
真夏の夜、キャンプファイヤーを囲む若者たちの顔には笑顔が溢れていた。男五人、女五人の大学生の若者たちの前には未来が開けていた。
気の置けない仲間たちなのだろう。アルコールを飲み交わし、歌を唄い、冗談を言ってふざける彼らは、この後、自分たちの身に起きる惨劇を予測できなかっただろう。
きらめく青春は、彼らのものだった。
その青春の輝く一ページが、暗黒に塗りつぶされた。見たこともない獣が、彼らを襲ったのだ。
ひとり、またひとりと仲間が、犠牲になっていった。勇敢にも獣に挑んでいった男たちもいたが、俊敏で獰猛な獣の前ではなすすべもなかった。
獣の襲われ、怯えきった若者たちを救ったのは、ひとりの少女と一匹の犬だった。少女と犬は、若者たちの前に忽然と現れ、獰猛な獣たちを、白く輝く剣で斬り倒していった。
携帯電話からの連絡を受けて、警官が駆け付けたのは、少女が、獣をすべて倒した時だった。少女と犬はすでにそこから去り、少女と犬に倒された獣たちは、どろどろに溶けてしまっていたという。
「少女が、那美であったという確証はあるんですか?」
室緒が、五十嵐元国務大臣に訊いた。
「白く輝く剣で、獣どもをぶった斬る少女は、那美以外にはありえないだろう。……那美以外に獣(蒜壷)と戦っている少女がいると思うかね。わしたちは生き残った若者たちの証言を元に、モンタージュと、似顔絵を作成して、手元にある那美の写真と見比べたんだが、それらのものは、手元にある写真は一致したよ」
「当時、マスコミには那美のことは流れませんでしたが……」
高橋が聞いた。
「流せるわけないだろう。生き残った四人の若者たちには、那美のことについて、一切口外してはならないと、口止めし、マスコミには規制をかけた」
五十嵐元国務大臣が率いる組織は、この事件に那美が関わっているという情報を得ると、速やかに情報操作を行った。
四人の若者の口止めを行い、一部のマスコミが聞きつけた情報を、あらゆる手段を強いて隠蔽し、十人の若者を襲った獣は、熊だったと偽の情報を報道機関に流した。
「彼らを襲った獣というのは、蒜壷一族だったんですね?」
室緒が聞く。
その質問に、五十嵐元国務大臣の手が動き、スクリーンに一枚の画像が映し出された。
「若者たちが撮った写真の中に、この写真があった」
「これは!?」
写真には、キャンプファイヤーの火に照らされて、幸せそうに微笑む若い女性の後方右手に、異様な姿の怪物が映し出されていた。写真の獣は、俄蔵山で暴れた怪物と似ているが、それとは違う、別な種の蒜壷だった。
「その化け物の名は、食肉という。三十六種ある餓鬼の一種だ」
「餓鬼!? 古い文献に描かれている、あの餓鬼ですか?」
「そうだ。我々の組織がいままで確認した餓鬼の種は、全部で十三種だが、その十三種の餓鬼の中で、こいつが一番頻繁に現れている」
五十嵐元国務大臣は、スクリーン上の食肉の姿を指で弾いた。
「室緒君、君たちは那美と接触して、記憶を奪われなかった数少ない人間たちだ。那美は、君らに何を話したのかね?」
五十嵐元国務大臣は、話を前に戻した。
「……その前に、五十嵐元国務大臣。組織って、なんです? 蒜壷一族を殲滅させる組織というのは、いったいどのような組織なんです?」
五十嵐元国務大臣が率いているらしい組織には、おそらく国が関係しているだろう。巨大な権力なしでは、容易にマスコミ操作はできない。
「組織のことは、社会に知られてはならない。分かるだろう。我々の組織のことが知られると、蒜壷一族のことが世間に知られてしまう。世間が蒜壷のことを知ったら、どうなると思う? おそらく、パニックになるだろうな。我々は極秘裏に蒜壷一族を殲滅したいんだよ。室緒くん、もう一度聞くが、那美は君らに何を話したのかね?」
「那美は……」
室緒は、ヘリ『あさぎ』の機内で那美と話した事を、目の前にいる五十嵐元国務大臣に話した。五十嵐は室緒の話を、ただ黙って聞いていたが、室緒が話し終えると、おもむろに椅子から立ち上がった。
「……君らが、那美から聞いたことは、我々の組織が、すでに知っていることばかりだ。蒜壷が人を襲って食することも、蒜壷が主に夜間に活動することもな。ただ、一つわからぬことがある……。なぜ、蒜壷が頻繁に出現するようになるんだ? 」
「それは……」
室緒は、『あさぎ』の機内の中で、ふと漏らした那美の言葉を想いだしていた。
“どうやら、奴らは本気で、私が持つ十種神宝を狙っているようね”
那美が、漏らした謎の言葉。十種神宝とは一体なんのことなのだろう?
「ここ十年の間、蒜壷が関わったと思われる事件は、五十件ほど確認されている。もっともこの数は、表に出てきた数字だがな。……実際には、その何倍もの人の命が、蒜壷のものの手によって奪われていると思っている。しかしだな、残念ながら我々の組織が、確認できたのはこの五十件だけだ。十年で五十件……。二百三名の人間が犠牲になった」
五十嵐元国務大臣は、そこで一旦言葉を切り、再び、パソコンを操作した。
「みたまえこれを。ここ三ヶ月。ここ三ヶ月で二十件もの蒜壷が起こしたと思われる事件が相次いで起きている。十年で五十件が、三ヶ月で二十件だ。過去において、このように頻繁に蒜壷が現れたケースはない」
五十嵐は、言葉をいったん切り、傍らの八木という男の目くばせをした。八木は室のなかにあるロッカーのダイヤルキーを回して、そのロッカーの中から、B5版ぐらいの大きさのアタッシュケースを取り出した。
「そのアタッシュケースの中を開けてみろ」
室緒はアタッシュケースを開けた。
「これは……!?」
アタッシュケースの中には、SATと呼ばれる警察のエリート部隊が使用する半プラスチック拳銃があった。グロックといわれるものだ。その拳銃と、黒光りする十個の弾丸が、アタックケースの中に収められていた。
「この銃と弾丸は、我々の組織がグロックの本社に赴いて、特別に造させたものだ。SATが使用している拳銃よりも数倍の威力と殺傷能力がある」
五十嵐は、眼を光らせた。
「君たちが使用するニューナンブ60でも、食肉や針口は撃退できる。が、彼らを操る上位の蒜壷には、君らの貧弱な銃では通用しない。この銃と特殊な弾丸だけが上位の蒜壷にダメージを与えることができる」
「この銃を、俺たちにくれるというのですか?」
室緒が五十嵐に訊いた。
「ただでくれるわけではない。君たちは、これから我々の組織の管理下に置かれる」
「管理下に置かれるとは、どういうことですか?」
「言葉どおりの意味だ」
「言葉通りの意味ということは、……俺たちは五十嵐さんの下で働くということですか?」
五十嵐の言葉に、村中は目を白黒させた。
「I県の県警本部から。いきなり五十嵐さんの率いる組織に出向ですか……」
村中の隣で、高橋が頭を掻く。
「すでに、県警の本部長から承諾を得ている」
「承諾!? 承諾じゃあなくて、至上命令でしょう」
室緒は、なんの断りもなしに、五十嵐が率いる組織に編入されたことが、おもしろくなかった。乱暴にアタッシュケースの蓋を閉めた。
「不服かね……。室緒くん」
「いや……」
五十嵐の率いる組織には、マスコミをも操作する強い力がある。強力な武器を持ち、それを調達できる資本力があるだろうし、彼らの手で葬った蒜壷の者も数多くいるだろう。五十嵐の自信たっぷりな口調から、それはうかがえる。
「室緒くん、我々の組織がどんなものなのか、優秀な君には推測できるだろう。我々の組織以外に蒜壷と対決できる組織はない。我々の組織に加わることは、一警察官として名誉な事とは思わんのか」
確かに、この五十嵐の組織に入れば、この手で、蒜壷を追いつめることができるかもしれない。が、いきなり警察庁の地下に連れてこられて、組織に編入とは、乱暴すぎるのではないか?
五十嵐は、まだ、組織の名も、その規模も話してはいないのだ。
「室緒くん、村中くん、……、それと高橋くんだったかな」
五十嵐元国務大臣は三人を見渡した。
「何を迷っている。君らはもう後には戻れないのだ。那美と、我々の組織のことを知った君らには、選択の余地はない。こうしている間にも蒜壷は、人を襲っている。大野、例のものを三人に……」
五十嵐元国務大臣は、もう一人のサングラスをした男に指示を出した。
大野と呼ばれた男が、壁に突き出ている青いボタンを押すと、室緒たちの後方にある壁がスライドした。大野は中から迷彩色に彩られた防護服を取り出した。
「その服は特殊繊維の中に、形状記憶可能なレアメタルを織り込ませた素材で造った防護服だ。刃物はもりろん、銃器の弾丸を跳ね返す強さと、容易に動き回れる柔軟性を備えている」
その防護服は、アメリカンフットボールの選手が着込むジャージに似ていた。ワンタッチで着脱可能なプロテクターをつけるとフットボールの選手のようにも見える。
「防護服の内側に、グロップxxxと特殊弾丸を仕舞い込むポケットが付いている」
五十嵐元国務大臣が、防護服の仕様をさらに説明した。
「俺たちに、蒜壷と戦えと……」
室緒が呟く。
「言っただろう。我々の組織は蒜壷一族を殲滅させるために作られた組織だと。我々の組織だけが蒜壷と戦うことができ、那美の秘密を解き明かすことができるんだよ」
五十嵐元国務大臣は、声高々に叫んだ。
パソコンに連絡が入った。
「代々木です。H-A3追跡中に、数匹の餓鬼を発見。これから殲滅にかかります」
連絡は組織の者からの通信だった。
「H-A3は、どうしている?」
五十嵐が、パソコンのモニターに映る代々木に向かって言う。
「餓鬼たちの後方にいて、我々の動向を探っています」
「餓鬼の種はなんだ?」
「鑊身です。鑊身の数……。およそ二十匹」
「鑊身か……。代々木、そちらにはおまえを含めて何人の隊員がいる」
「七名です」
「鑊身とH-A3相手に七名か……。すぐ応援を出すから、無理するなよ」
「了解」
五十嵐は、通信を切り、室緒たちと向かい合った。
「聞いての通り、隊員が蒜壷との戦いに入った。一刻の猶予もならん。君たち三人は八木、大野と一緒に現場に向かってくれ」
= 第二回に続く =