表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

停滞からの脱却

作者: 市原春季

 僕の家庭は、わりとありがちであろう四人家族である。父と母と兄、そして僕。ごく一般的な家庭だ。環境も至って普通。平和な家族関係だ。……ただ一つの事柄を除いて。父と母は共働きで、兄は、ここらでは名の知れた有名企業に勤めている。そして僕はというと……。あまり周囲には知られたくないが、アルバイトを掛け持ちしたり、時には無職だったり、転々と様々な仕事をしているフリーターである。「僕にはこれがある」とか「これがあるから頑張れる」といったものは無い。自分の人生は自分で決める! と、自信を持って言うことなど、到底できるはずもなかった。

三十代前半。友人も次々と結婚していき、子どもができただとか、会社ではちょっと上の立場になったとか、そんなような話をする。昇進の話などは聞きたくもないが、友達付き合いとして、それは表面だけでも喜んでおかなければ。定職に就いているわけではないけれど「友達という存在がいるだけでもありがたい」と思っていなけれはやってられない。ただ、大勢で集まったときには、さすがにちょっと気まずい。仕事についての会話になったときには、その場から消えてしまいたくなる。しかしながら、この年代だ。話題といえば必然的に、大体が家庭や仕事の話になる。他は、ニュースや芸能人の話にもなるのだが、共通の話題ではなかったり意見が違っていたりするので、すぐに会話は元通り。「この間、会社でこんなことがあってさぁ」という話に「わかるわかるー」なんて同情の思いを寄せたり、仕事の失敗談の競い合いのような話をしたりする。ごめんな、僕にはわからないよ。なんて言葉を呑み込んで、友達の話を聞くことに徹底している。僕の話をしたところで、格の違う人達にとってはどうでもいいことなのだ。それは以前痛感した。「そんなのバイト」なんだから仕方ないじゃん、と言いくるめられてしまった。そのトラウマからか、僕は自分のことを他人には話せなくなっていた。他人だけではない。家族にも、だ。

今は飲食店でキッチンのバイトをしながら、就職活動もしている。……だが、なかなか上手くいかない。高校を卒業してから一度も正社員として会社に勤めたことがない僕は、三十歳を過ぎてからでは定職に就くことは難しいことのような気がしてきた。それとも僕のスキルが足りないのか。人間性が問われているのか。

高校卒業後の就活当初は、頻繁に様々な会社の社員採用募集に応募していたのだが、最近は徐々に応募頻度が少なくなってきてしまった。そして現在、とりあえず流れに身を委ねるという状態が続いている。正直、就活が面倒くさくなってきた。そこへきて家族からの催促がくるのだから、たまったものじゃない。「いつまでフリーターでいるつもり?」「就活はやってるの?」などという、厳しい意見が。まぁ、それが普通の反応か。でも、僕だって好きでフリーターを続けているわけじゃない。できれば正社員として働いて、安定した生活を送りたいとは思っているけれど、採用してもらえないんだから仕方ないじゃないか。しかも、食事のときにそんな話をされれば、ご飯も喉を通らなくなる。いい加減、その話題はやめてほしい。あと、兄と比較されることも。確かに、有名企業で働いている兄はすごいと思う。さすが、幼い頃から常に僕の目標であった兄である。しかし、いつからか、目標が遠くなり過ぎて手の届かないところまでいってしまった。いつからこんなにも差がついてしまったのだろう。思い返せば、兄は偏差値の高い進学校へ進学し、僕は試験前までの成績が悪かったため、試験前にちょこっと頑張れば行けそうな高校の普通科へ行くことになったのだが、その時点で差がついていたのかもしれない。うん。きっとそうだ。ということは、中学生の頃からか。はたまた。小学生の頃から差が開きつつあったのかも。……僕は考えることをやめた。だって、いまさら昔のことを考えたって現実が変わるわけじゃないんだから。兄は兄、僕は僕でいいじゃないか。比較されたところで月とスッポン。今さら覆せるわけもない。そんな僕を、兄との比較対象にすること自体がおかしいだろ、と思うようになっていた。


だがそこに、とどめの一撃がやってきた。兄もいい歳だ。結婚していたっておかしくない年齢である。きっと交際している相手もいるだろう、とは思っていた。それが先日、付き合っている女性と結婚すると公言。家に連れて来ると言い出した。そもそも、彼女がいるなんて聞いていなかった。でも、兄ほような優良物件(?)に女性が食いつかないなんてことはないだろう。

 そこまではよかった。両親もとても喜んでいたし、僕も嬉しかった。……が、蓋を開けてみればどうだ。連れて来た相手というのは、僕がずっと好きだった人だったのである。顔を合わせた瞬間、意識がどこか遠くへ行ってしまったような感覚に見舞われた。彼女は平然と僕に話しかけてきたが、何を言われたのか、僕はどう返答したのか覚えていない。最初に「久しぶりだね」ぐらいは言われた気がするのだけれども……。驚きとショックで、会話どころではなかったのだろう。これぞ正に、「意識が飛んでいた」という感覚か。

 僕の喜びは憎しみに変わり、妬ましさが込み上げてきた。彼女とは保育園も一緒だったし、小学校から高校まで同じ学校で、時々同じクラスになるときもあった。女友達の中では最も仲の良かった友人だったと言えよう。家もわりと近くだったので、幼い頃は、僕と兄が一緒に遊んでいるときに交じってくることもあった。僕はそれが、ものすごく嬉しかった。それなのに、こんな結末が待ち受けていたとは……。結局のところ、僕をダシにして兄に近づくことが目的だったのだろう。昔のことを思い返すと、確かに彼女は僕よりも兄にくっついている時間の方が長かった気がする。それがいつの間にか付き合っていただなんて……。兄も兄で、僕に相談してくれてもよかったのに。なぜ彼女と付き合っていたことを僕に言ってくれなかったのか。もしかして、僕が彼女を好きだったことを知っていたから相談できなかったのか? なんであれ、僕は大きなダメージをくらった。こんなことになるぐらいなら、いっそ彼女に告白しておけばよかった、と後悔。これか。「後悔先に立たず」とは。悔しくて涙が出そうだった。僕はこれから彼女のことを「姉さん」と呼ばなければならないのか? 名前で呼んでもいいものなのだろうか……? それに、僕と同級生だったということは、彼女もそこそこいい歳である。それまでずっと兄のことが好きだったのだろうか。でも、昔からずっと好きだったのであれば、兄と同じ高校を受験していたはずだ。彼女はそれほど悪い成績だとは聞いていなかったのに、僕と同じ高校へ進学した理由がわからなかった。そんなことを聞く勇気も無かったので、結局のところ、本当の理由は分からず仕舞い。当時の僕は「彼女は僕のレベルに合わせて同じ高校を受けたのかなぁ」とか考えていた。いま思い返すと、思い上がりも甚だしく、恥ずかしいことこの上ない。

彼女にだって、これまでにもいろんな男性との接点はあったはず。なのに、なぜその中からわざわざ兄を選んだのか。他人だったらまだ諦めがついたかもしれない。しかし、事は身内である。正直言って複雑な心境だった。本来ならば、僕の憧れの存在であった兄と、僕の好いていた女性が結ばれるということは喜ばしいことであろう。だが現実はどうだ。格差が開き、手の届かないところまで達してしまった兄と、もっと早くに他の男性と付き合うなり結婚なりしてくれなかった彼女。そんな二人が結婚するという、残酷な現実。僕は表面とは裏腹に、二人を、そして自分を心底憎んだ。羨ましい。妬ましい。こんな感情を抱く自分に腹が立って仕方がない。

僕だって彼女が欲しい。結婚したい。好きな人に告白したり付き合ったりしたことはあるが、仕事を理由にフラれてしまう。「アルバイトじゃあ、ちょっと……」と。それはそうだ。安定した収入が無い男と結婚しようとは思うまい。いくら恋愛感情があったとしても。いっそのこと、主夫でもいい。誰か相手はいないものだろうか。


 月日は経ち、兄は実家を離れ、彼女とアパートで二人暮らしすることとなった。今までは、食卓を囲むときには兄が中心となり(仕事上、食事の時間帯が合えば)家族間で会話をしていたのだが、その話題を率先して提供する当事者がいなくなってしまったことにより、なんだか気まずい雰囲気になる時間が一層増えた気がする。気がする、というより実際にそうなってしまった。主に、両親と僕との間でだが。そんな時間に耐えられず、僕は「バイトがあるから」と嘘をついて、皆で食事をする時間になると外出して、特に何をするわけでもなく、フラフラと街の中を散策したり、ちょっと遠くまで出かけたりしていた。しかし、それも時が経つにつれて面倒くさくなり、嘘のバイトではなく本当のバイトに行く時間以外は、自分の部屋に引きこもるようになった。

 兄が彼女と付き合っているということを知ってから、毎晩悪夢にうなされるようになった。それ以前(付き合っていることを知る前)も悪い夢を見ることは多々あったが、それは一時的なもので、目が覚めると夢の内容は忘れてしまっていて、嫌な夢だったなぁなんて「覚えてはいないけれど気分が悪い」という朝を迎えていた。それが今や、夢の内容もはっきりと覚えていて、起きてからしばらく経っても忘れることができない。しかも、とてもリアルな夢なのだ。現実的なものであれ非現実的なものであれ、本当に現実で起こったことではないのかと錯覚するほどのものであった。……僕の心は病んでいるのだろうか。

 気分を変えて、「また就活に精を出してみようか」。とも考えた。だが、今の自分に何ができるのか。僕には何があるのか。……何も無い。誰か、救いの手を差し伸べてくれる人はいないだろうか。僕を導いてくれる何かは無いのだろうか。とにかく助けを求めた。心の中で。頭がおかしくなりそうで、いてもたってもいられず、友人に相談すると「今できることをやればいいんじゃない?」とか「やりたいことをやってみればいいよ」というような返答ばかり。できることってなんだ? やれることってなんだ? 僕にできることがあるのなら、とうにやっている。一層、迷いが増した。もはや迷宮入りである。

僕は自暴自棄になりかけていた。このままフリーター生活でもいいんじゃないか。四年制大学を卒業した兄と違って、高卒で、さらに資格も特に持っていない僕は、もう手の施しようが無い。後は運に身を任せるしかないとさえ感じていた。

 そんな折、僕のケータイに妙なメールが届いた。

『あなたは過去に戻りたいですか? そう思う方は『はい』と、そうでない方は『いいえ』と送信してください』

 なんだ、このメールは? 送信先のメールアドレスは未登録のもので、いかにも怪しい雰囲気を醸し出している。いつもなら、こんなメールは無視していたのだろうが、気の迷いか、助けを求めるあまり、僕は『はい』と返信してしまった。ほどなくすると、また同じアドレスからメールが届く。

「では、あなたは何年前に戻りたいですか? 何年前か、もしくは西暦と、希望があれば日付を送信してください」

 勉強を真面目にやっていた兄と、友達と遊んでばかりいた僕。宿題の提出も、ほとんどしていなかった僕は、よく先生に怒られていたっけか。色々と考えていたら、中学校以前の行動が問題だったのではないかと改めて思った。それに、例の彼女との思い出もそうだが、なにかしらの転換期は、小学生という遠い昔の頃にあったのではないだろうか。それらの思い出を踏まえ、小学校に通っていた頃に戻りたいと考えている自分に気付く。僕は、小学生の頃であったであろう西暦を計算し、日付は指定せずに返信した。

その後、メールは返って来なかった。「一体なんだったんだ?」と疑問に思ったが、夜も更けてきたため、布団に潜り込み、何事も無かったかのように寝ることだけに集中する。「もうどうにでもなれ」と、全てを忘れ去るよう努力してみたものの、そう思えば思うほど考え事が次から次へと浮かんできてしまう。今後の仕事について。両親との関係。兄と彼女とはどう接していったらいいのか……。無心、というものは難しいな。そんなことを考えていたら、考え疲れたのか、すっと眠りに落ちた。


 夢を見た。

 夢の中の僕は、大学に通っていた。そして留年するという最悪な夢だ。が、しかし、僕には目標があった。医学部に通っているのだが(夢の中だけれど)、「医者になって皆の役に立ちたい」と考えていたのである。

 子どもの頃は、遊んでばかりいて、やんちゃだった僕。そんな僕には怪我がつきものだった。保健室や病院の常連である。そこでは、ずいぶんお世話になった。運が良かったのか、先生も良い人達で優しく接してくれた。あぁ、僕もこんな人間になりたいなぁ……、という希望が芽生えた。

 そして、両親を説得し、僕は医学部のある大学に入学。それまでは必死に勉強した。現実の自分とは違う人間になったかのように、真面目に勉強に取り組んでいた。医者になるためには勉強ができなければ話にならない。そして、なんとか医学部に合格したのが……。講義についていくだけで必死だった。周りとは差が開き、このままではまずいと思いながらも、僕の集中力が切れることはなかった。夢に向かって必死だったのである。大学院に行きたかったのだが頭がついていかず、院生になるためにもう一年、大学生として勉強することを決意。


 その決意を胸にしつつ、目が覚めた。

 今からそんなことをできるはずもなく、僕はげんなりして布団から出ようとした。すると、寝ているところが二段ベッドだということに気が付く。僕は下の段で寝ていた。今までは一人部屋で、ごく普通のベッドで寝ていたはずなのだが……。しかも、上の段からはイビキが聞こえる。

 なんだ? 一体どうなってるんだ? 僕が寝ている間に何かあったのだろうか。

 困惑していると、部屋の外から「ご飯できたわよー」という若い女性の声が。その声が聞こえると、上の段で寝ている人物が「ん~」と眠たそうな声を発しながら下りてきた。小さな子どもだ。でも、どこかで見覚えがあるような……。

「学、どーした? 早くご飯食べに行こうぜ」

 はっとした。

 少し高めの声だが、間違いない。こいつは小さい頃の兄だ。

「なんだよ。変な夢でも見たのか? 先に行ってるぞ」

 目をぱちくりとさせている僕を置いて、兄は部屋から出ていった。

 待てよ? 兄は僕を見て、普通に「学」と僕の名前を呼んでいた。じゃあ今の僕は……。

 僕は急いで洗面所に向かった。向かう途中も色々と気になった点が。僕が住んでいた家はこんなにキレイじゃなかったはず。構造は同じだが、置いてある物も違うし、あったであろうシミも無い。

 洗面所について鏡を見ると、そこには昔の僕の姿が映っていた。小学校高学年ぐらいか? 僕はもう一度部屋に戻って持ち物を確認する。カバンが置いてあったので名札を見てみると「四年 すず木 学」と書いてあった。小学生の頃の僕は「鈴」の字も漢字で書けなかったのか。いや、まだ習っていないのかもしれない。遠い昔の記憶だ。小学生の頃に何を習っていたかなんて忘れてしまっている。

 ということは、兄は二つ上だから六年生か。兄のカバンを見てみると、名札には「六年 鈴木 照秋」としっかり書かれている。

 夢だ。これは夢なんだ。もう一度寝たら現実に戻るはず。

 そう思って、僕はもう一度布団に入って眠ろうとした。だが、その時。

「まーなーぶー! 早く起きてらっしゃい! 遅刻するわよ!」

 という、母の怒号が。

 仕方なく布団から出て、なんとか気をしっかり持とうとする。そして、勢いよく部屋を出て食卓へ。

 テーブルには朝食が用意されており、兄はもう食べ終わりそうだった。

「おはよう」

 父が挨拶をしてきたので、僕も「おはよう」と言って席に着く。父の顔を見ると、少し若いような気がした。前よりもシワが無い。「前」というのもおかしな話なので「現世」とでも言っておこう。

「なんだ? 俺の顔に何か付いてるか?」

「う、ううん! なんでもない!」

 まじまじと見すぎた。なんだか気まずい。

「もー。学ったら、いつも遅くに出てくるんだから」

 母も、現世より見た目が若い。

「お兄ちゃんみたいに、しっかりしてくれればねぇ」

 溜息を吐きながら言う母に、兄は、

「母さん。学、今日は僕より先に起きてたよ」

と言った。

「あらそうなの? 珍しいわね」

「でも、なんか変だった」

 ギクリ、と僕は内心ヒヤヒヤしていた。そこで言い訳を少々。

「あ、えと……。なんか変な夢見ちゃって」

「ふーん。まぁ、学が照秋より先に出てくることなんてないものね。お兄ちゃんはそろそろ中学生になるんだから、学もそろそろしっかり自分で起きれるようにしなさいよ」

「はい……」

 ご飯がノドを通らない。昔の僕ってこんな感じだったのか。全然覚えてなかった。いや、でもこれも夢かもしれない。まだ僕は、この出来事を疑っている。どうせそろそろ、この夢から目が覚めるのだろう、と。

 考え事をしながら返事をしていたので気が付かなかったが、周りの反応がおかしいなぁと思った。すると、

「え……、学。本当に大丈夫なの?」

と、兄が言い、父も母も僕のことを心配そうに見つめていた。

「な、なにが?」

「だって、いつもだったら『うるさいなぁ』とか言うじゃん」

「そうねぇ。食欲も無いみたいだし、熱でもあるんじゃない?」

 なんて、みんな口々に言う。僕は、そんなに酷い子どもだったのか……。改めて反省をせねば、と思った。

「あ、いや。変な夢を見たせいかなぁ。考え事しちゃってて。あはは」

苦し紛れにも程があるだろうが、子どもの戯言など気にも留めない。というか、これまでの僕の行いの悪さ(?)が災いしてか、皆ほっとした表情になる。

「そうだよなぁ。学に限って体調を崩すなんてこと無いしな。熱があっても学校に行こうとするやつだ。まぁ、しょっちゅう怪我はしてるがな」

 父のこの言葉によって、家族一同大笑い。

(あー。早くこの夢から覚めないかなー……)

 そんなことを考えながら、僕は苦笑いをしていた。

(どうしよう。この話の流れだと、学校を休むわけにもいかないし)

「ごちそうさまでした」

 兄は先に食べ終わり、食器をキッチンに片付けて部屋に戻っていった。僕は急いで残りのご飯をかきこんだ。

「ごちそうさまでしたっ!」

 僕も食器を片付けて部屋へと向かう。……両親の不審な目に気付かないまま。

「なぁ、母さん……」

「え、えぇ……。やっぱり変よね。学ったら、いつもなら『ごちそーさん』とか言って、片付けもしないで出てくのに……」

「俺、病院へ連れて行こうか?」

「あなたは仕事でしょ。連れてくなら私が……」

 とりあえず今日は様子見で、ということに話がまとまった。


 僕は兄さんと一緒に登校した。秋だなぁ、という感じで木々も紅葉している。

そんな風景を気にして感傷に浸っている暇は無い。なにせ、周囲に変なやつだと思われないようにしなくてはならないからだ。と思っていた矢先、登校の途中も何度か怪しまれてしまった。僕が「兄さん」と呼び掛けたら、

「えっ、なに!? 気持ちわるっ! お前、僕のこと『兄さん』なんて呼んだこと無いじゃん。いつもだったら『あにき~』とか『兄ちゃん』って呼んでるだろ? やっぱ今日のお前、なんか変!」

 と気持ち悪がられた。「へっ! 冗談だよ~」と言って誤魔化したが。そんなようなことが何度かあり、極めつけは女子に突然挨拶された時。本当にどうしようかと思った。

 その女子というのは、現世で兄と結婚した人であり、僕が好きだった子である。その子の名前は「望美」という。望美ちゃんが「おはよう」と笑顔で挨拶をしてきたとき、現世の望美ちゃんの姿を思い出した。やっぱり昔から可愛かったんだよなぁ、と一人で勝手にときめき、心臓が高鳴っていた。

「おはよー」

と、兄が挨拶を返したところで、僕も、

「お、おはよう……」

と、ぎこちない挨拶をした。すると、兄と望美ちゃんが同時に、僕へ不信感丸出しの視線を送ってきた。

「え……。今日のまーくん、どうしたの?」

「やっぱこいつ、今日おかしいわ。朝からこんな感じ」

「え? てるちゃんにも?」

 望美ちゃんは僕のことを「まーくん」と、兄のことを「てるちゃん」と呼ぶ。家が近所で昔から仲が良く、小学生の頃の僕と望美ちゃんは同じクラスだった。

「そー。今日の学、変な夢見たとか言って、言ってることもやってることもおかしくてさー。だって、こんなときいつもなら『望美ちゃん、おっはよー!』とか言ってスカートめくりしてただろ?」

「うーん。そうだよね。私がスカートはいてるときは、いっつもめくってくる」

 僕はそんなことしてたのか!? 自分でも驚きの行動だ。確かに、ウキウキしながら挨拶していたことは覚えていたけれど、まさか毎回スカートめくりをしてたなんて……。もはや習慣になっていたのだろう。そんな行動をしていたなんてことは忘れていた。

 まずい、どうしよう……。とりあえず何か言わないと。

「きょ、今日のスカートはめくりづらそうだなって思ったんだよ」

「えー? まーくん、こないだこのスカートでもめくってたじゃない」

「あ、あにきに、いつまでそんな子どもみたいなことやってんだ、って怒られて……」

「僕、そんなこと言った覚え無いけど?」

 ……詰んだ。もうどうにでもなれ、という気持ちで、

「油断したところで、どーん!」

「きゃあっ!」

突然のスカートめくりをお見舞いした。

「へっへー。作戦大成功―」

「もうっ! なんなのよ!」

「あ。いつもの学だ」

 いつもこうだったんかい。

 夢であるかもしれない、昔の自分に呆れながら、僕は兄と望美ちゃんと仲良く登校することができた。

 学校に着いて、兄とは学年が違うので違う教室になってしまったけれど、望美ちゃんとは同じクラスだったので、望美ちゃんの後に続いて教室に入っていった。……でも、席がわからない。とりあえず、朝礼が鳴るまで望美ちゃんと話をしていよう。そして、空いた席があったら、そこが僕の席だ。僕って実は頭良いんじゃないか?

 なんて思っていたら、まさかの欠席者。

 空いた席が二つ。先生も来ている。いちかばちかだ!

「鈴木―。何やってんだ。お前の席はそこじゃないだろ」

 運に見放された僕は、クラスの笑い者になってしまった。まぁ、僕の言動を色々と訂正されてわかったことは、運に見放されてなくても十分に笑い者だということだ。昔からお馬鹿さんだったんだなぁ……。そりゃあ兄と比較されやすいわけだ。兄がしっかり者だということは周囲の反応を見てもわかるし、学級長までやっていたという、僕とは違う、出来た人間なのだ。


 今日は散々だった。

 この小さな体にも慣れないし、恥はかきまくるし、望美ちゃんにも怒られるし……。

 だがしかし!

 こんな体とも今日でおさらばだ! なんてったって、これは全部、夢の中での出来事なのだから! 今日寝て、明日になれば現世に戻っているに違いない。


 そう思っていた。そう願っていた。

 だが、翌日になっても体は小さいまま。昨日の出来事を丸々抱え込んだまま、生活続行である。

 あぁ……、僕は一体どうすればいいんだ。というか、なぜこんなことに……。

 ふと思い出した。

(あのメール、か?)

 先日送られてきた、送り主もわからない受信メールを思い出す。「あなたは過去に戻りたいですか?」という内容だった。僕はそれに返信した。確か、小学生頃であったであろう西暦を入力して。

(いやいやいや。さすがに無いだろ、そんなこと。ファンタジーじゃあるまいし)

 過去に戻って人生をやり直す。そういった類のフィクションは読んだことがあるが、実際にあるわけがない。僕の今の状況は夢だ。いつか覚める夢なんだ。


 兄は小学校を卒業し、中学生になった。部屋も別々になり、互いの生活リズムは変わっていた。

 そう。僕のこの物語は続いているのである。

まったく目覚める気配は無いし、むしろ現実味を帯びてきている。さて、どうしたものか、と色々考えているうちに「それならそれで、現世の自分を違う人生へと導いてやればいいんじゃないか?」という考えが浮かんできた。僕は、このままこの人生が続くのなら、あのとき見た夢のように、医学部のある大学へ行こうと考え始めた。

 小学校では小学生らしく、それなりの生活をしていこう。真面目になるのは中学生になってからだ、と決めた。小学校での生活では、見覚えのある光景、忘れていた過去を垣間見ることができ、楽しさと後悔が押し寄せてくる。だが、望美ちゃんといることが一番の思い出であり楽しみであった。中学校も一緒だし、しばらくは離れることはない。精一杯遊んだり、現世ではできない無茶をしたりもした。そして、やはり怪我をして保健室通いになることが多く、その度に「医者になろう」という気持ちが強まっていった。

 小学校卒業は、特に悲しいと思うことはなかった。現世では会わなくなった友達も多いし、中学校が同じ友達もいたから。その中には、もちろん望美ちゃんもいる。


 中学校デビュー。

 僕は真面目に勉強しようと努めた。

 そのとき兄は同中の三年生であり、生徒会の役員もこなしているようだった。これも変わらない。現世のときも同じだった。それから、先輩達に「あの鈴木の弟なんだって?」と言われることも。鈴木照秋という名は学校内では有名だった。生徒会役員ということもそうだが、成績もトップクラスで先生方にもウケがいい。そんな兄と比べられ、現世の僕はグレてしまったというわけなのだが。

「てるちゃん、すごいねー」

 という望美ちゃんの言葉を聞くのは辛かった。できることであるならば、兄ではなく僕を見てほしい。そんな思いもあってか、僕はこの人生では兄には負けないという気持ちで勉学に精を出した。

 その成果か、僕は常に学年上位の成績を叩き出したり、望美ちゃんに勉強を教えることもあったり、彼女と一緒にいる時間が増えた。

「このままいけば、結構いい高校に進学できるんじゃない?」

 と彼女に言ったのだが、

「ん~……、どうだろうね」

という微妙な反応だった。

 あれ? 兄のことが好きなんじゃないのか? 兄は、進学先の高校はほぼ確定だろうということだったのだが、その高校へ行きたいとは思わないのだろうか。

 聞くに聞けなかった。現世のことがあって、将来のことを聞くのが怖かったから。

 僕は兄と同じ進学校へ目標を定め、そのための対策も練っていた。両親にもその旨を告げ、了承を得た。本来なら、兄と比較されることが嫌なため、違う学校へ進学することも考えていたのだが、その高校が最も近く、偏差値の高い高校であったため、そこへ行こうと決めていた。両親からは「まだ一年生なんだし、ゆっくり考えてもいいんじゃない?」とか「いつまでも照秋の後を追いかけなくてもいいんだぞ」などと冷やかされたが、それは違う。僕は兄を追いかけたいんじゃない。追い越したいのだ。


 兄が卒業し、僕達は二年生になり、進路を考え始めてもいい頃だった。

 たまたま、望美ちゃんと一緒に帰る日が。そのとき、

「まーくん、なんか変わったね」

と言われた。それはそうだ。一度、三十年ほどの人生を味わっているのだから。

 そのとき、僕は意を決して彼女に聞いた。

「……そういえばさ、望美ちゃんって、その、好きな人とかいるの?」

 そう言って彼女の顔を見ると、みるみる赤くなっていった。

「な、なんで?」

「だって、中学生ぐらいにもなると、付き合い始める人達とかいるじゃん? 僕も友達から、そういう話を聞かされたりするからさ」

 本音は望美ちゃんの本心を聞きたいということなのだが。

「えっと……。まーくんだから言うけど、内緒だよ?」

 ということは、僕じゃないんだなということは察しがつく。

「実は、いるの。完璧に片想いだと思う。先輩なんだけど……、その人、モテるし頭いいし、で、私なんかじゃ釣り合わない人かなぁ、なんて思ってて」

 あぁ。兄のことか。

「私なんか、なんて言っちゃダメだよ。そんなの、相手の気持ちとか確かめてみなきゃわかんないじゃん。望美ちゃんだって可愛いんだし、頭もいいし……」

 って、何を言ってるんだ僕は! 兄とのことを応援してどうする! 僕は彼女に想いを伝えなきゃいけないだろ。

「そう……だね。ありがとう、まーくん」

 涙目になりながら笑顔で感謝の言葉をかける彼女は、本当に可愛かった。危うく、その場で抱きしめてしまいそうだった。

「で……、望美ちゃんはその人のメルアドとか知ってるの?」

 僕は何を聞いてるんだか。フラれたも同然なのに。

「うん……、一応。でも、メールしたのは最初の頃だけ」

 兄は一体何をやってるんだ! ちょいちょい連絡ぐらいしろよ! ……と苛立ったが、そこは抑えて、

「もし、まだその人のことが好きならメールとかしてみたら? 高校はどうか、とかさ」

というアドバイスをしてみた。

「うん……。でも、もうちょっと考えてみるよ」

 こんなことを思うのは不謹慎かもしれないが、悩んでいる彼女の姿は、とても可愛らしく見えた。


 そう言いながら、彼女は中学校を卒業しても兄に連絡することはなかった。僕には頻繁にメールが来たが、それも最初の頃だけ。高校生活に慣れ始めた頃、互いに忙しくなったのか、連絡をとらなくなっていた。

 結局、僕は兄と同じ高校に進学し、望美ちゃんは現世と同じように、兄とは違う高校へ進学した。そして、やはり「鈴木の弟」と言われることはあったが、中学生のときほどではなかった。上には上がいる、ということなのだろう。中学校では有名人だった兄も、高校生になると、どんどん埋もれていった。その兄が、現世ではどうやって有名企業に勤めることができたのだろう? それは大学生活での何かが関係しているのだろうか。

 逆に僕は思いの外、好成績でいた。中学での頑張りがそのまま高校生活にも繋がり、成績は常に学年のトップクラス。

 おかげで僕は、ある大学の医学部に入学することができた。ちなみに、兄は現世と同じく理系の大学へ、実家から通っている。

 僕は、大学合格の件について、望美ちゃんに報告することにした。

『大学合格したよ! 希望してた医学部! とりあえずは寮生活になりそう。そっちはどう?』

 メールを送ると、すぐに返信が来た。

『久しぶりだね。奇遇だ~。私は医学部じゃないけど、看護学校に行くことになったよ。医学関係同士、頑張ろうね』

 そのメールの「久しぶりだね」という言葉が、現世での望美ちゃんを思い出させた。僕は、いてもたってもいられなかった。このまま何も無ければ、彼女は兄と結婚することになるのだろう。その前に、どうしてもはっきりさせておきたいことがあった。

 中学校のとき言っていた「好きな先輩」というのは本当に兄のことだったのか。もしそうだったのなら、なぜ、兄と違う高校を選んだのか。そして……、僕と付き合うことは可能なのか。もし、彼女がいいと言うのなら、現世で言う「横取り」ということになってしまうのだろうが、それでも僕は彼女と付き合いたい。望美ちゃんのことが、今でも好きだから。

 僕は早速メールを返した。

『今、ちょっと電話できる? 話したいことがあるんだ』

 送ってすぐに携帯電話の着信音が鳴った。

 ビクッとし、ドキドキしつつも平静を装って電話に出た。

「もしもし? 望美ちゃん?」

『今なら電話してても大丈夫だよ。それで、話したいことって何?』

 変わらない、可愛らしい声だ。そんな声の彼女に僕は……。

「僕、望美ちゃんのことが好きなんだ。僕と付き合ってください」

 ……あれ?

 思っていたことと、口にすることが違う!

 もう取り返しがつかない! どうする、僕!?

『え? 今……』

「ご、ごめん! ちょっと待って! 気持ちが先走った! あ、と……、えーと……」

 もごもご言いながら動揺していると、電話口から「くすっ」という含み笑いのような音が聞こえた。

『まーくん、やっぱり変わってないや。変なとこ真っ直ぐっていうか……』

 今度は笑いを堪え切れなかったようで、彼女は本格的に笑い出した。

「あの、望美ちゃん?」

『ふふっ。ごめんね、笑っちゃって。久しぶりにまーくんの声聞いたら安心しちゃって。気が緩んだ、って言うのかな? 小さかった頃と比べて変わったなぁなんて思ってたけど、やっぱり変わってなかった。まーくんはまーくんだ』

「え、えーと。……ごめん。さっきの無しってことで、順を追って話させて」

『わかった』

 笑いが止まった。真剣に僕の話を聞いてくれるようだ。

「ちょっと昔のことになるんだけど……、中学のときに言ってた好きな先輩って誰? もしかして」

『てるちゃんだよ』

「……っ!?」

 僕の言葉を遮って、彼女は平然と答えた。

「じゃ、じゃあなんで同じ高校に行こうと思わなかったの?」

『うーん……。あの頃は本当に自分に自信が持てなくて、自分なんてダメだ、って思ってばっかりだったの。だから、てるちゃんとも釣り合わないだろうし、いっそのこと諦めようと思って離れた高校を選んだんだ』

「それで……、今は?」

『今も好きだよ』

「そっか」

 僕は、泣きたい気持ちどころか、なんだかスッキリした気分になった。

「僕は望美ちゃんのことが好きだったんだ。多分、小学生の頃から。ほら、よく言うじゃん。好きな子ほどいじめたくなる、って。まさしくそれ。僕、絶対に嫌われたなぁって思って告白できなかったんだけど、違う高校に行って、望美ちゃんに会えなくても忘れられなかったんだよ。きっと今の望美ちゃんと同じ気持ち」

 自然と笑ってしまった。悲しい場面のはずなのに。

「それで……、兄さんにはいつ告白する予定なの?」

『うーん。社会人になってからかな』

「そんな後でいいの!? 他の子にとられちゃうかもよ?」

『そうなってたら諦める。だって私、結婚願望があるから、社会人になって安定した収入が無い人だったら嫌だもん』

 その言葉、僕の心に突き刺さったよ……。現世の自分がそうだし。でも、今の自分は違う。

「じゃあさ、兄さんがダメだったら僕と付き合ってよ」

『えー。まーくんかぁ』

 きっと彼女は、電話越しに笑いを堪えている。

「何かご不満な点でも?」

『不満じゃないけど、まーくんは「友達」って感じだから恋愛感情が持てる気がしなくて』

「なるほどね」

 これでキッチリ諦めがついた。彼女は本当に兄のことが好きなのだ。そして僕は「ただの友達」。というか、社会人になるまで待って告白するだなんて……。完敗だ。

「じゃあ仕方ない。僕は他の子を探してみるよ。ま、探す暇があればね」

『そうだね。大学で、しかも医学部なんて勉強についてけるかどうか。でも、まーくんなら大丈夫そう』

「買い被りすぎ。上には上がいるんだから、僕なんて必死で勉強しなきゃ医者になんてなれないよ」

『でも、下には下がいるよ?』

「うっわ、望美ちゃんにしては酷い発言」

 あはは、と互いに笑い合った。

『まぁ、かくいう私がその「下」ってところにいるんだろうけど。やば。頑張らなきゃ』

「じゃあ、とりあえずお互い色々と頑張ろうってことで」

『そうだね』

 最初に感じていた緊張が、嘘のように消えて無くなっている。本当に「友達」って感じだ。告白して気まずくなったらどうしようかと思ってたけれど、そんな心配はいらなかったようだ。

『あ。まーくんの気持ち、嬉しかったよ。ホントごめんね』

「いいよ。僕もなんだかスッキリしたし。また何かあったら連絡してくれていいから。相談にも乗るよ」

『ご多忙な医学部生のお時間をいただくようなことはできませんよー。そっちこそ、根詰め過ぎないようにね』

『うん。じゃ、話聞いてくれてありがとう』

『いえいえ。それじゃ、またねー』

 こうして僕等は電話を切り、その後、互いに連絡を取り合うようなことはしなかった。お互い遠慮していたのか。こっちからすれば、「そんなに気を遣わなくてもいいのに」という感じだったが。


 大学の厳しさを覚悟していた僕だったが、医学部の厳しさは予想の斜め上をいっていた。「まずい。このままじゃ単位を落としそうだ」という場面が何度あったことか。中学校、高校での頑張り以上に頑張らなければならない。「大学に慣れてきたら彼女でも作りたいなぁ」なんて浮ついた気持ちでいた自分が情けない。女の子を見ている暇があるなら勉強をしろ、という話だ。望美ちゃんにフラれてから、他の子にも目を向けてみようと思ったが、そんなときには「初心に帰れ」と自分に言い聞かす。医者になりたいんだろ? だったら一心に頑張れよ! と自分自身に活を入れる。

 毎日毎日、講義だのレポートだのゼミだの……、これでサークル活動をやってるやつらの気が知れない。どれだけ出来た頭なんだ、お前らは。と、羨ましく思ってしまう。


 そんなこんなでヨレヨレになった自分をリフレッシュ!

 ……とまではいかないが、年末年始は寮で過ごすわけではなく、実家に帰ることにした。兄に聞きたいこともあるし。

 一家団欒なんていつぶりだろうか。現世でもこんなことは滅多に無かった。そもそも僕が原因なんだが。現世より、今の方が積極的になっていることに気付く。何が違った? 望美ちゃんのことがあったから? それとも現世とは違う道を歩んできたから? まぁ、それはいいとして。

 家族で鍋をしてお腹いっぱいになったところで、僕は部屋に戻ろうとしていた兄を呼び止める。

「兄ちゃん。ちょっと聞きたいことがあるんだけど」

「ん? 学から話しかけてくるなんて珍しいな。どうした?」

「ここじゃなんだから、ちょっと兄ちゃんの部屋で話してもいい?」

「あぁ、いいぞ」

 兄の部屋は、僕の部屋とは違って整理整頓が行き届いている、といった感じだ。とにかくキレイ。昔からだっけか、こういう几帳面なところ。僕はそのキレイな部屋の床に腰を下ろし、兄は椅子に座った。

「それで話って?」

「あー……。兄ちゃんって今、彼女とかいんの?」

「はぁ? なんだよ突然」

「いーじゃん、なんでも! とにかく、彼女とか好きな人いるのかどうか教えてよ」

 なんなんだいきなり、と言いたげな表情で頭を掻きながら答える兄。

「彼女はいねーけど、好きな子なら……」

「えっ! 誰!? 同じ大学の子とか?」

「落ち着けよ。あー……。じゃあ、学の好きな子の名前、言ってくれ」

「な、なんで僕が……」

「交換条件だ」

 くそっ。卑怯な手を使いやがって。

「の……望美、ちゃん」

「だろ?」

「だろ? じゃねぇよ! なんで知ってんのに言わせるんだよ! フラれたばっかの僕になんてこと……を。あ。やべ」

「え? お前、告ったの? んで、フラれたの?」

「そ、そうだよ! 今度は兄貴の番!」

 半ギレの僕は、兄に詰め寄った。

「だから、その子」

「ソノ子……さん?」

「馬鹿。望美ちゃんだってことだよ」

 ポカンとしている僕と、淡々と答えた兄。部屋の中は一時停止されたかのような空気になった。

「はぁ。だから言いたくなかったんだよ」

 兄は溜息を吐きながら言った。

「学は昔っから望美ちゃんの話ばっかしてただろ? だから、なんとなく言い出しづらくて言えなかったんだけど……。フラれたのか……。なんか、すまん」

「え? いや、僕はいいよ。ってか、なんで黙ってたの? 僕が前、兄ちゃんに『好きな子でもできた?』って聞いたときも、はぐらかしてたしさ」

「いやー。俺はてっきり、お前に嫌われてんのかと思っててさ。これ以上嫌われたくないなぁって」

 どれだけ家族想いで優しいやつなんだ、この兄は。

 兄は笑いながら言ったが、僕はそれに対して怒りながら反論する。

「だって、それは望美ちゃんのことがあったから、取られないようにライバル視してただけで……。って、それで黙ってたの!? 兄貴、馬鹿なの!?」

「馬鹿とは失礼な」

「そんなこと気にする必要ないのに。逆に、それを知らないでいた方がショックだっての」

「そーゆーもん?」

「そーゆーもん!」

 兄の鈍感っぷりには驚かされる。鈍感というか……、優しいのか、気を遣って逆に空回るタイプというやつだな。

「で、なんでフラれたの?」

 ついでにデリカシーも無い。

「僕のことは友達としてしか見れないんだってさ。でも、気まずくなったわけでもないから、全然平気。むしろ前より仲良し」

「へー」

 あまり興味を示さない兄にムッとした。

「そんで、兄ちゃんはいつ告白すんの」

「俺? んー……。そのうち、な」

「早くしないと他の男に取られるよ」

 僕はわざと意地悪く、ニヤニヤしながら言ってみた。

「え? 望美ちゃん、好きな人でもいるの?」

「さぁね」

 これぐらい意地悪くしても、バチは当たらないだろう。いろんなことにショックを受けてきた僕は、兄に八つ当たりでストレスを発散している。

「ま、話はこのくらいにしとくかな。じゃあねー」

「ちょっ……、待てよ!」

 引き留める声を無視して、僕は兄の部屋を出た。

 あー。すっきりした。そして僕は自分の部屋へ。

 寮に荷物を持っていってしまっているため、がらんとして物寂しい部屋になっている。そんな中、僕はベッドに腰を下ろし、携帯を手に取った。大学で友達はできたが、皆忙しい身のため、なかなか連絡は取り合わない。そのため、携帯はほとんど放置状態であった。しかも電源を切ったまま。その携帯の電源を入れ画面を見ると、メールが一件届いていた。誰からだろう、と宛先を見るが、登録されていないアドレスからだった。大学に入学してから、新たな友人とアドレス交換をすることは多々あったのだが、そのときに登録し忘れていたのだろうか?

 本文に目を通す。

『過去での生活はいかがだったでしょうか? 楽しんでいただけたのなら幸いです。尚、過去での生活は今年までとなります。日付が変わると同時に元の生活に戻ることになりますのでご了承ください。貴殿の益々のご活躍を期待しております』

 は? なんだこれ? ちょっと待てよ。

僕は、この生活がずっと続くと思っていた。だからこそ医者になろうと必死に勉強してきたし、なにより家族関係や望美ちゃん、そして友達との関係を大切にしてきたというのに。ここにきてそんな……。

今日は十二月三十一日。時間を見るともう二十三時五十分を過ぎている。もう少しで年が明けてしまう。もう、この人生を続けていくことはできないのか? 脳内がグルグル回り始めた。何かやり残したことは無いか? そんなことを言ったら色々ありすぎる。医者にもなっていない。家族ともまだまだ話したいことがあるし、望美ちゃんにも……。わけがわからなくなって、僕は何を思ったか、望美ちゃんの携帯に電話をかけていた。だが出ない。それならば……。

僕は慌てて部屋を出て、兄の部屋に飛び込んだ。

「兄ちゃん!」

「ど、どうした? 学。大丈夫か? 顔色が悪いぞ」

「そんなこと言ってる場合じゃない! 兄ちゃん……、実は望美ちゃんは……」

 そこで僕の意識は途切れた。


 閉じていた目を開け、慌てて飛び起きた。そして急いで兄の部屋へ。

「兄ちゃん!」

 部屋はもぬけの殻だった。

 そうか……。そうだった。兄は望美ちゃんとアパートで生活しているんだった。

 僕は静かに部屋を出て、両親のいるリビングへ向かった。

「学、どうしたの? なんか慌ててたみたいだったけど」

「な、なんでもない」

「今日はバイト?」

 ……今日は何日だっけ? 壁に掛けてあるカレンダーに目を向ける。というか、シフトすら覚えていない。長い夢を見ていたようだった。とても現実味のある。

「今日は……、バイトじゃないけど、ちょっと出かけてくる」

「あら、そう? 気をつけて行ってらっしゃい」

 そう母に告げて、そのままの格好で家を出た。

今、何時だろう? 時間を確認してくるのを忘れていた。日も暮れ始め、これから夜になろうという頃である。そんな時間に寝間着に近い格好で外をうろついている自分は、傍から見たら不審者と思われかねない。しかし、一々そんなことを気にしている余裕も無かった僕は、早歩きで、兄と望美ちゃんが一緒に住んでいるというアパートへ向かった。この際なんでもいいから、二人と何か話をしたいと思っていたのである。バイトのシフトも確認していないが、いまさら無断欠勤どうこうと言っている場合ではなかった。ずっと、胸の辺りがモヤモヤしていて気持ち悪い。早くスッキリさせるためには二人に会って話をするべきだ、と僕の勘がそう告げている。


アパートに着いて、「確か、ここだったよな」と不安になった。兄が引っ越してから、一度しか来ていない場所。その場を目の前に、僕はたたずんでいた。

迷っていてもしょうがない! なるようになれ! と、僕は玄関のチャイムを押した。逃げ出したい衝動にも駆られたが、緊張か不安か。体が動かない。少しすると、「はい」という高い声と共にドアが開いた。そこから見えた姿は……。間違いない。望美ちゃんだ。

「えっ? まーくん? どうしたの?」

「あ、えと、その……」

 上手く言葉が出てこない。そもそも何を話すためにここへ来たのか、自分でもわかっていない。

「とりあえず上がって。照秋さんはまだ帰ってきてないけど」

 もう「てるちゃん」とは呼ばないのか。僕はそんなことを思いながら、言われるがままに部屋に上がり込み、リビングの椅子へ腰をかけた。

「照秋さん、そろそろ帰ってくると思うよ。まーくん、なに飲む? コーヒーとか緑茶とかあるけど」

「あ、じゃあ、コーヒーで」

 どうしよう。来たのはいいけれど、何を話せばいいのか。

「突然来るからビックリしちゃったよー。引っ越しの頃以来だよね」

「う、うん……」

 上手く声を発することができない。もっと自然に、いつものように話せばいいだけなのに、どうしてもどもってしまう。

「はい、コーヒー。あ、ミルクと砂糖いる?」

「や、ブラックで大丈夫」

 とりあえずコップを手に取り、熱いコーヒーをすする。

「それで、今日はどんなご用?」

「ふ、二人に話したいこと、というか、聞きたいことがあって」

「へー。珍しいこともあるんだね。まーくんが人を頼るなんて」

「いや、頼るとかそういうのじゃないんだけど……」

「でも嬉しいな。久しぶりに顔を見れて。なんか、まーくんって全部一人で背負い込んじゃう感じだったから、元気そうでよかったよ」

「別に、背負い込むタイプじゃないよ。いざ、ってときに何も言えなくなっちゃうだけで」

 そう。この人生では。

 あの夢のような人生では背負い込むどころか、放り投げていたぐらいだ。

「それが『背負い込む』って言うの。何かあったら私達を頼ってよ。親に相談したっていいんだしさ」

「それができてりゃ、苦労しない」

「あははっ。その毒舌っぷり。やっと、まーくんらしさが出てきたね」

 僕らしさ? 僕にはそんな特徴があったか?

「私、昔のまーくんの派手な言動が好きだったのになぁ。最近なんか落ち着いちゃって、つまんなかったんだよ?」

「派手?」

「そ。小学校のときみたいに、私のスカートめくっ……」

「ただいまー。あれ? 誰か来てんの?」

 ……助かった。この歳でスカートめくりの話題なんか出されてたら、たまったもんじゃない。

「おかえりなさーい。まーくん来てるわよー」

「マジで!?」

 久しぶりに見る兄だ。思ってたよりも変わってないな。きっちりと整えた髪型と、ビシッとしたスーツ姿を除けば。

「おー! 学、元気してたか?」

「一応ね」

「で、なんでここに?」

「私もそれ聞きたい。さっきから全然話してくれなくて」

「……二人揃ってからの方がいいかと思って」

「なになに? もしかして結婚報告とか?」

「んなわけねーだろ」

 相変わらずデリカシーの欠片もない。

「突然来たのは……、ごめん。でも、どうしても今、聞きたいことがあって」

 僕が話し始めると、二人は視線をこちらに集中させ、しっかりと耳を傾けてくれている様子になった。

「そんなに真面目に聞こうとしなくてもいいんだけど」

「いいから話して」

はぁ、と一息ついて話し始めた。

「二人ってさ、いつから付き合い始めてたの?」

「んー。俺の就職先決まって、落ち着き始めてからだから、十年前ぐらい?」

「長っ!」

 僕は久しぶりに、本気で驚いた。

「望美ちゃんもよく結婚に至るまで耐えたねぇ……」

「えー。結構楽しかったよ?」

 この兄にして、この嫁あり、か。

「で、どっちから告白したの?」

「私からだよ。看護学校を卒業してから」

「……それもまた、長い時間待ったもんだ。それまで他の男と付き合ったりはしなかったの?」

「しなかったよ」

 キッパリ。

「ずーっと照秋さん一筋だったから。確かに告白されることもあったけど、私、卒業したら照秋さんに告白するって決めてたしね」

 ……初恋は実らないっていうのは迷信だったのか。

「でもフラれちゃった」

「は?」

「考える時間をくれ、って言われて。生活が落ち着いたらちゃんと返事するから、って」

「兄さん……。よくもまぁそんな悠長なこと言ったもんだね」

 両想いだったのに。

「だって、先の生活なんてわかんないじゃん? そんで結果、望美に苦労させるようなことにはしたくなかったんだよ」

 照れる二人。それを見て僕は「あー。やっぱり僕は、どうやったって兄さんには勝てないなぁ」と思った。

「それで、なんで二人が付き合い始めたのを僕に話してくれなかったの?」

「だって学、お前、望美のことが好きだったろ? なんか横取りしたみたいで悪かったかなぁと思って言えなかったんだ。すまん」

 やっぱりか。

「逆にそっちの方が腹立つから」

「え? もしかして、それでずっと俺のこと避けてたわけ?」

「まぁ……、そういうことになるかな」

 望美ちゃんに告白しなかった自分もいけなかったんだろうけど。

「やだぁ。私ってモテモテだったんだぁ」

 望美ちゃんの言葉には、場を和ませる力があるのか、一気に緊張が解れた。

「だから、僕も……ごめん」

 僕は頭を下げて謝った。

「んじゃまぁ、お互い様ってことで」

 兄はニカッと笑って言った。憎むに憎めないこの笑顔……。逆に腹立つ。けど、なんだかスッキリした。心のモヤモヤが消えて、晴れやかな気分だ

「それと、もう一つ兄さんに聞きたいことがあるんだけど」

「ん?」

「どうやって今の会社に入社したの?」

「あー。大学の研究室の教授が紹介してくれたから」

「……それだけ?」

「うん。それだけ」

 マジか。やっぱり僕も大学に行っておけばよかったな。……なんて、いまさらだけど。

「人に頼るっていうのも悪くないよ。結構役立つこともあるし」

「あ。それ、さっき私も言ったよ」

 人に頼る……、か。そんな手も有りか。この歳になって頼るっていうのも恥ずかしいことかと思ったけど、やってみる価値はあるかもな。

「まぁいいや。とりあえず聞きたいのはそれだけ。もう帰る」

「えー。もうちょっとゆっくりしてけよー。久しぶりなんだしさ」

「……明日はバイトあるから」

 バイトがあるかどうかは、まだシフトの確認をしていないのでわからなかったけれど、とりあえず帰る言い訳にさせてもらった。

「そっかぁ。でもまた来てね。私も待ってるから」

「今度は一緒に酒でも飲もうぜ」

「ははっ」

 自然と笑みがこぼれた。笑うなんてこと、こっちの人生の後半じゃあほとんど無かったのに。

「まぁ、気が向いたらね。コーヒーごちそうさま」

 ここまで来るときには重かった足が、帰りは軽くなったように感じた。


「おかえりー」

 家に帰ると母が声をかけてきた。

「どこ行ってきたの?」

「兄さんのとこ」

「えっ!? 学が……一人で?」

「うん」

「おとうさーん! 大変! 学が!」

「母さん、落ち着いて。学がどうしたって?」

 そんなに大事か?

「学が、あんなに嫌がってた照秋のとこに行ってきたんですって!」

「ほぉ。それで、どうだった?」

「どうもこうもないよ。ちょっと話してきただけ」

 母がソワソワしているのを無視しつつ、僕は父に尋ねた。

「父さん、あのさ……。なんかいい就職先って無いかな? 僕でも入れそうな会社」

「えっ……?」

 今度は父が動揺し始めた。

「あ、あぁ。ちょっと探してみよう」

「僕も自分で探してみるから。今度はバイトじゃなくて正社員で働かせてもらえそうなとこ」

「ど、どうしたんだ? 急に……」

「別に。僕も彼女とか欲しいなぁって思ってさ」

 僕なりの冗談だったつもりが、両親にとっては大変な出来事だったようで、母は急に兄のところに電話をし始めた。

「照秋!? あなた学に変なこと吹き込んでないでしょうね!? え? だって学が『彼女が欲しい』とか言い出したのよ!?」

 その後もなんだかんだ騒いでいたが、徐々に落ち着きを取り戻していったようだ。


そうだ。何かがダメだったとしても、他の何かで自信をつければいい。

 好きな人にフラれたからってなんだ。他のことを無下にしていいわけじゃないだろ。

 心機一転。今からでも遅くはない。

 僕は再び就職活動に清を出すことにした。何度不採用が続いても諦めない。今までの自分から脱却するために、ひたすら様々な会社に履歴書を送る。高卒で、何の資格を持っていない僕にでも、やれることは何かしらあるはず。さすがに今から医者になれると思ってはいないが。それ以外でもきっと、誰かの役に立つことができる職はあるだろう。人材不足で困っている会社があるとか、僕のことを気に入ってくれる人がいるとか。希望は捨てない。足掻き続けてやる。

 なんやかんやで、人は他人に影響を受けて成長するのだなぁと思う、今日この頃。過去に戻れなくとも、未来に向かって努力をすることはできる。あの夢のような出来事を経て、僕は以前よりも強くなった。今の自分は、そう実感している。精神的な強さを得た、と。それでも、あまりに不採用が続くと精神的ダメージを負って挫けそうになるときがある。だが、そんなときこそ夢のような出来事であった過去で見た自分自身の生き方と、現在の自分の生き方を照らし合わせ、今後の自分について考えてみたり、取り組みの姿勢を変えてみたりする。毎日、試行錯誤。そうすることによって、新たな気持ちで次へ進むことができる気がした。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ