イヴの入学式⑤
風に煽られ空を飛んでいた白いハチマキが降下を始め、イヴが目で追っていった先に、いつのまにか一人の大人の男性が立っていて、その男性が手を伸ばし、イヴのハチマキを掴んでくれた。
「あ!捕まえてくれてありがとうございます!それ、風で飛ばされてしまった私のハチマキなんです!返していただけませんか?」
目の前の男性は黙ったままイヴに、そのハチマキを差し出してくれる。イヴは安堵し、その男性の前まで走り寄……ろうとして、ズキン!!……と頭が割れそうな痛みを感じて立ち止まり、そのまま気が遠くなって、倒れていった。
「うっ、痛っ!痛い……、頭が痛いの……!助けて……。助けて、ミ……」
早朝の片頭痛、きつい刺激臭、大勢の人混み、激しい揺さぶり、そして止めは、ハチマキを追いかけた、イヴ自らの走りにより、ついにイヴは気を失い倒れかけた……のを、目の前の男性が優しく抱き留め、イヴを横抱きに抱え直し、走り寄ってくる者からイヴの姿を見せないように体の角度を変えた。
「イヴ?!大丈夫か?」
「え!?気を失って!?」
「本当にイヴ?本当にイヴだ!イヴがいる!!」
「お、お嬢様!?い、生きておられた!」
「スクイレルさん、倒れて!?しっかりなさって!」
4人の男子学院生の声と1人の女子学院生の声と走り寄る足音がした。イヴを横抱きに抱えた男性は、落ち着いた中年男性の声で、皆に指示を出していった。
「皆、大丈夫だから落ち着いて。彼女は”片頭痛”という病気で、頭に痛みが起きて気を失っているのです。うるさくすると余計にそれが悪化するのです。それと、あなた達は彼女に近寄らないでください。彼女の片頭痛は大声だけではなく、貴族が好んで、よく身につける香水や整髪料の香り……、つまり刺激の強い匂いで悪化するのです。今から私は、校舎の保健室に彼女を運びます。君達4人は、入学式の会場にいるだろう学年主任と、新入生担当の先生に、この事を報告してきてください。今日担当の校医の先生は老爺だから講堂……いや、まだ寮の方にいるかも?……とにかく校医の先生を探して、彼にも報告をお願いします。そこの女子の学院生は、ルナーベル先生に連絡を!」
「「「「「はい、仮面の先生!」」」」」
5人は講堂に向かって、急いで走り戻っていった。茶髪に黒い仮面で目元を隠した男性は、彼らがいなくなってから、腕の中の気を失っている少女を見つめながら、こう言った。
「君のことが心配で、急いできたんだけど、こんなに顔色を悪くして、入学式前に倒れるなんて、一体何があったんだい?……さっきの学院生達に何か……ひどいことをされたのかい?」
仮面の男性は校舎に向かい、保健室に入り、イヴをベッドに寝かせると、慣れた手つきで白いハチマキをイヴの額に巻き付け……大人でもこれは痛いんじゃないかと思えるほどの強い締め付けでイヴの額をキリリと絞めた。部屋を暗くするためにカーテンを閉め、日差しを遮ると、盥に水を入れ、手布を濡らして固く絞り、そっとイヴの顔を優しく拭った。
「何があったかはわからないし、無理はするなと言いたいところだけど、父様譲りの生真面目な性格だものね、君は……。大事な入学式に出ようとすごく頑張ったんだろうな。うん、頑張っているのに入学式に出ないで休め……と言うのは可哀想だよね。でも……俺は君には無理はしてほしくないから、起きたら偉かったねと褒めてから、辛い時はルナーベル先生を頼れと念押しだけはしておこうかな……」
(本当なら、こんな所に君を来させたくなかったなぁ。ごめんね、イヴ。必ず一年後、君を無事な姿で、君の父様の元に返すから、この一年を頑張ってね。俺は絶対、君を守ってみせるから……)
他の者が来る気配を感じるまで、仮面の先生はイヴを愛しそうに見つめていた。
(大きくなったね、イヴ。……9年は長いと思ったが、こうしてみると、あっという間の9年だった。後、一年……。後一年で、俺の悲願は叶えられるんだ……)
イヴが目を覚ますと、そこには心配げなミーナと保健室の先生と、黒い紗の覆いをかぶったピュアがいた。
「お嬢様!気が付かれましたか?」
「わ、私……?」
ミーナはイヴを抱き起こして、背に大きなクッションを当てる。イヴは額の白いハチマキを触る。
「……これ、ミーナが巻いてくれたの?」
”片頭痛”の痛みを緩和してくれる、丁度良い強さの締め具合にイヴは安堵しながら言った。
「……いえ、お嬢様を助けて下さった剣術指南の講師の先生が、巻いて下さったようです。その方からの伝言をお預かりしております。……『入学おめでとう。大事な式に出るために頭痛を押して、起き上がってきたのはとても偉かったね。でも今後こういことがないように、辛い時はルナーベル先生かミーナを頼りなさい』……だそうです。
……私も同じ気持ちです、お嬢様。私はお嬢様の護衛ですので、もっと私を頼って下さいませ。散歩だろうと山歩きだろうと、私はどこまでも、いつまでもお嬢様を背負っていけます!セデス先生の鍛錬を受けた私は、柔ではけしてないのですから」
「ミーナ……、ありがとう。心配かけてごめんね。ルナーベル先生も早くからお手数をおかけしてしまい、すみませんでした」
イヴが神妙な顔つきで謝ると、黒い覆いの中から、慌てた声でピュアが言った。
「いいえ、私が悪いのよ!気持ちが焦って、あなたの制止を聞かなかったから、あなたの体調を悪くしてしまった!」
部屋の中の者達の視線を感じたピュアは居心地悪そうに身じろぎした後、落ち込んだ声音で謝罪を続けた。
「……そうなんです。スクイレルさんが体調を崩されたのは、彼女の制止を聞かず、私が激しくスクイレルさんの体を揺さぶったからなんです!本当にごめんなさい!謝って済むことではないけれど、あなたが病気だと……、あなたに持病があると知らなかったの!……私、何度もあなたに待ってと言われていたのに、ちっとも、あなたの話を聞かなかった……。こんなことになって本当にごめんなさい!」
「……いえ、事前に持病のことを伝え忘れていた私の不注意なので、そんなに謝らないで下さい。……あの所で今は、何時なんでしょうか?あの入学式は、もう終わってしまったのでしょうか?」
不安そうに時間を尋ねるイヴを見て、保健室の先生はイヴを安心させようと優しげに声を掛けた。
「今は8時40分ですよ、イヴさん。入学式はまだ、始まっていないから安心してください」
「ありがとうございます、ルナーベル先生」
イヴは入学前検診の時に保健室の先生に治験のことで説明をしていたので、ルナーベルとは初対面ではなかった。彼女の紅い髪に母を思い出しながら、イヴは礼を言った。
「いえ、それよりもイヴさん、これからどうしますか?入学式に出られそうですか?無理なら欠席することも出来ますが、どうしますか?」
ルナーベルはイヴに入学式の出欠を尋ねた。
「大事な式典だから、出席したいです」
イヴがそう言うと、ルナーベルとミーナは頷き合った。ミーナは布が掛けられたトレイをイヴに差し出した。
「これはカインさんとリーさんからの差し入れのミントティーです。気分が楽になりますよ。……ルナーベル先生。お嬢様は頭を揺らさなければ、気を失うこともなく入学式に参加が出来ます。ですから式に、私がお嬢様に付き添うことを許可してくれませんか?」
「う~ん……、式の会場まで抱きかかえての移動は大丈夫でしょうが、入学式にまで、あなたがつきっきりでは、イヴさんが目立ってしまいませんか?」
「ならば私が付き添いますわ!だって私のせいですもの!」
「お気持ちは立派ですが、あなたの姿では……」
ルナーベルの言葉を聞いて、ピュアは自分がイヴの世話をすると言い出したが、ルナーベルは気持ちはわかるが、ピュアの覆いをかぶった姿も人目を引くので、イヴの付き添いとして適切ではないと難色を示した。するとピュアは、バサリ!と覆いを脱ぎ捨て、こう言った。
「こんなの、もう必要ありませんわ!イヴさんのおかげで、私は覆いなんて要らない顔になれたんですもの!私のせいですし、これなら目立たないですよね?私に償いのチャンスを与えて下さい!」
「……いえ、あなたの素顔は始めてみましたが、これは返って目立ってしまいそうですよ……」
覆いを外したピュアの素顔は、クール系美女だった。色の濃いピンクの髪を頭の一番高いところできつく結った後、幾十もの縦ロールに巻かれた髪がそのまま下ろされた髪型。やや面長な顔の輪郭に、キリリとした細眉は髪と同じ色で、長くてクルンとした睫に縁取られたアーモンド型の瞳は深い湖を思わせる水色だった。鼻は大きくはないが高さがあり、唇には控えめな色合いの紅が引かれていた。
背が高くプロポーション抜群のクール系美女に背が低く華奢で儚げな美少女……目立たないわけがない。しかし反省し、なんとかイヴに償いたいと言っているピュアの気持ちを無碍にするのも可哀想かも……と、ルナーベルは考え、こう言った。
「……う~ん、ピュアさんは、今まで一度も覆いを外していなかったですから、他の学院生にも先生方にも顔バレしていませんから……うん、何とかなるかもしれませんよ!ピュアさん!あなたは入学式では新入生として、イヴさんの横にいて一緒に参加してください!他の先生方には事前に、私から説明しておきます。大事な入学式に騒ぎを起こすわけにはいきませんからね!……念のために、ミーナさんにはいつでも駆けつけられるところに控えてもらうことにしますわ、それでいいですわね、ミーナさん?」
「……はい。ですが、ピュア・ホワイティ公爵令嬢……。今後はこういうことは二度となきようお願いします。……私……達はお嬢様のためなら、どんな相手だろうと怯まず剣を持ち、戦い、必ず勝利を掴む者であると覚えておいてくださいませ……」
「!?は、はい!すみませんでした!!」
自分よりも身分が下のはずの護衛に睨まれたピュアは、ミーナの視線に本気の殺気を感じ、ゾッとしながら返事を返した。




