シーノン公爵の娘の秘密(前編)
へディック国のシーノン公爵家は先祖がへディック国を建国した始祖王の末妹を妻に迎えたことで、王家の遠縁の関係となったことから、いくつかある公爵家の中で一番格とされる由緒正しき家柄だった。しかも身分が高いだけでなく、領地も豊かで代々の領地経営にも成功しているため、毎年と言っていいほどの安定した高収入を得ていた。
当代のシーノン公爵であるイミルグラン・シーノン公爵は領地経営だけではなく、城で事務次官の仕事にも就いていた。その仕事ぶりにも定評があり、彼は王の厚い信頼も得ていた。さらにはイミルグラン・シーノン公爵という人物は美貌にも恵まれていた。
月の光で出来たような長い銀髪と神経質そうな細めの眉。澄み渡る青空のような色の切れ長の瞳に筋の通った高い鼻に、キリッと引き締まった口元。彼の肌は世の貴族女性達が羨ましがるほど、きめ細かく、白くてシミ一つなかった。長身の細身の体に見える体には筋肉が無駄なくついていて、美術品かと見間違えるほどの美しい姿をしていた。
家柄も良く、裕福で、仕事も出来て、おまけに美貌の男性……だが彼は、周囲の人間に人気がなかった。……というよりも彼は周囲の人間に、恐れられ怖がられていた。
シーノン公爵は確かに国の一二を名乗れるくらいの美丈夫だが常に眉間に皺を寄せ、気難しく、神経質そうな不機嫌顔を常時していたから、彼の性格もそうなのだろう……と周囲の者達に思われていた。実際に彼は上級貴族中の上級貴族なのに、自分の屋敷で茶会やパーティーも開こうともしないので、シーノン公爵は偏屈で人嫌いなのだろうとの悪評が、密かに社交界では広まっていた。
シーノン公爵には社交界の紅薔薇と呼ばれる、これもまた、とても美しい10才年下の妻もいるのだが、その妻であるシーノン公爵夫人が、「家で夫を見ると何だか落ち着かなくって……」と言って、毎日のように外出して、茶会やパーティーや慰問にと、飛び回っていて、家にいることを、とにかく嫌がり拒んでいたことや、公爵という身分に相応しい立派な白亜の広い屋敷に使用人が、たったの11人しかいないことも、その噂に拍車をかけていた。
この悪評高いシーノン公爵には一人娘がいた。一人娘はイヴリンという名前で、このイヴリンには、ある秘密があった。……と言っても、その秘密は、この家の者達なら誰もが知っている、貴族の子どもにはよくある秘密だった。イヴリンの秘密……それはイヴリンだけにしか見えない、イヴリンの想像上のお友達がいることだった。
大昔から、へディック国の子どもは5才になる前に亡くなることが多かったので、この国に生まれた全ての子どもは、神様の子どもと位置づけされ、5才の誕生日を迎えるまでは戸籍に登録されることはなかった。貴族に生まれた子どもも例外ではなく、5才になるまでは貴族籍にも貴族名簿にも登録されることはない。貴族の子どもは5才になるまで、屋敷の外には出ず、大切に守られて育てられる。
そうやって貴族の子どもが大人達に囲まれて暮らす中、その子ども達が自分だけの想像上の友達を持つことは、そう珍しいことではなかった。小さな子どもであるイヴリンの秘密は、誰もが知っている秘密であり、寂しい思いを抱えている貴族の子どもにはよくあることで、貴族の育児書には、けして否定してはいけないものであるとも書かれていた。だからイヴリンの心の中だけに存在するイヴリンの心の中の友達が、一風変わっていようともイヴリンの回りの大人達は暖かく、それを見守るのだった。
そう、イヴリンの秘密の友達のアイは、とても……とても変わっていた。とても変わっていたがイヴリンの心の中の友達であるアイは、多くの大人達に好かれていた。何故なら、多くの貴族の子ども達の心の中の友達は癇癪持ちだったり、我が儘だったり、欲張りだったり、甘えん坊だったり、泣き虫だったりと、その育児を任された使用人達の手を焼かせることが多いのだが、イヴリンのアイは、そのどれでもなかったからだ。
洗濯物をリネン室で畳んでいたメイドのマーサは、お手伝いすると言って入ってきたイヴリンに驚いた。
「お家のお手伝いをするのは、子どものお仕事よって、アイが教えてくれたの!」
働かざる者食うべからずなの!っと、小さなお手々でシーツと格闘するものだから、マーサは笑いをこらえながら、シーツの海からイヴリンを救出した。
苦手だったピーマンを口に放り込んで涙を滲ませたイヴリンに、料理長のリングルは「嫌なら残してもいいですよ」と声をかけた。するとイヴリンは目を潤ませながら、こう言った。
「私の体を考えて作ってくれた食べ物を粗末に残しちゃいけないって、アイが言ってたんですの!」
好き嫌いなく食べて、大きくなったら父様を高い高いしてあげるの!と涙目でピーマンを食べきって、笑顔を見せたイヴリンにリングルは、その頭を撫でたくなるのを必死に堪えた。
……まるでイヴリンの姉か教育係のようにイヴリンを育てているアイ。2才から文字を読み書きし、公爵家の図書室を好む、大人しく賢い子どもだったイヴリンはアイのおかげで、さらに賢く、とても優しい子どもに成長していった。
もちろんアイの正体はイヴリンであると大人達は知っている。何故ならアイはイヴリンの心が生み出した、イヴリンの心の中の友達だからだ。イヴリン自身の無意識の向上心がアイという形になって、自分で自分自身を鼓舞し、勉強や大人達の手伝いを進んでするようになったのだろうと大人達は考えていた。
確かにアイはイヴリンではあるが、それがイヴリンの前世の者だとは……今の所、誰も気付いてはいなかった。