シーノン公爵家の使用人達
「大丈夫よ、マーサさん!私一人で出来るわ!『女性は腰が命』って、アイが言ってたもの!だからマーサさんは無理をしないでね!」
イヴリンはそう言って、イヴリンのワンピースのボタンを留めようとしたマーサを押しとどめる。自分で出来ることは何でも自分でしたいお年頃かとマーサは思ったのだが、イヴリンはマーサが膝を折ったり、中腰になる姿勢をしようとすると慌てて、それを止めようとしているのだと気づいた。
マーサの外見は老婆……にしか見えない。だから老いているマーサに無理をさせたくないとイヴリンは心配して色々と頑張ってくれているのだと知り、マーサはイヴリンの人を思いやる優しい気持ちに胸がいっぱいになった。
(何て優しくて、可愛らしいお嬢様でしょう!……長い放浪生活の果てに、こんな幸せな毎日が送れるなんて夢みたい!亡き両親や他の一族達も神様のお庭できっと喜んでくれているに違いないわ!本当に私達の長は良いご主人様を見つけてくれたわ!)
マーサはイヴリンに言えずにいる、ある秘密を言ってイヴリンを安心させてあげたいと思ったが……これは秘密だから、やはり言えないと考え直し、それを言えない自分を少しもどかしく感じた。シーノン公爵家の使用人達は皆、老人だと屋敷の外の人間達は思っている。シーノン公爵は気難しい故、役立たずの老人しか寄りつかないのだろうと思われていた。……だが、実情はそうではなかった。
シーノン公爵家の使用人達の朝は早い。白亜の広い屋敷の掃除を全員が早朝に分担して行う。その速度や活動量は老人とは到底思えない代物だった。彼らはある事情から本来の自分の姿を老人に擬態させて、シーノン公爵家に仕えていたのだ。
シーノン公爵は無体を強いる主ではない。使用していない部屋の掃除はしなくてもよいと言われているし、人手が足らないならば、いつでもいくらでも雇うようにとと執事のセデスに言付けてもいた。
だからセデスは心置きなく自分が信頼する11名の自分の一族をフルに活動させることが出来た。使っていない部屋は最低限の掃除と、いくつかの罠を仕掛け、シーノン公爵一家が間違って、その罠に掛からないように鍵をきちんと掛けていた。掃除が終われば、各自の仕事をそれぞれ行う。
料理長のリングルと副料理長のアダムはイヴリンが厨房にいないことを確認すると手洗い後、調理を始める。イヴリンは時々早起きをして厨房を覗くことがある。その時は普通の料理人のように振る舞わないといけないが、今日はイヴリンは来ていなかった。
そこで二人は心置きなく自分たちの技を繰り広げる。綺麗に洗った食材をそれぞれ空中に投げると、とても人間技とは思えない高速の包丁さばきで切っていき、調理台に置かれたボウルや鍋、鉄板などに、それぞれの食材が、各料理に適した切り方で切られて、そこに並ぶように落ちていく。リングルは厨房の窓に目をやり、アダムに言った。
「今日は午後に雨が降りそうだからイヴリン様の体調が心配だな。念のために匂いの強い食材は控えておこう」
それを聞いたアダムは頷いた。
「なら今日はイヴリン様のために、とびっきりの林檎をミグシリアス様に渡しておきましょう」
「そういえば今日の10時頃に体に良いと評判の食材が届くから、すまないが受け取っておいてくれ、アダム」
「ああ、それって確か、大豆という名前の豆でしたよね。わかりました。それを食べてイヴリン様の体が丈夫になったらいいですよね」
シーノン公爵は他の貴族のように食べきれないほどの料理をテーブルに並べることを嫌い、贅沢な食事も好まないが、自分が食べないからと言って使用人にまで、それを強制する主ではない。彼らにはチーズでもワインでも何でも好きなモノを好きなだけ食べて良いと言ってくれている。だけど11名の一族達は主に忠義を尽くす一族であったから、主を時々苦しめる、それらの食材を自然と口にする回数は減っていた。
メイドのマーサとアイビーとサリーは、それぞれが受け持つシーノン公爵の家族の朝の用意を始める。マーサはイヴリン担当でアイビーはシーノン公爵担当、サリーはシーノン公爵夫人担当だ。
シーノン公爵は朝の8時半から毎日城に出勤し、シーノン公爵夫人も毎日のように社交で外出するのでマーサ以外のメイドは、それぞれの主人がいない間、一族の長のセデスの指示通りにシーノン公爵家のための様々な雑用やら隠密や諜報活動などに励んでいた。
「ねぇ、マーサ。たまにはイヴリン様のお世話を私に代わってよ。私もイヴリン様を沢山可愛がりたいのに、マーサばかりずるいわよ」
「そうよ!私もイヴリン様に肩を揉まれてみたい!『いつもお仕事ありがとう!マーサさん大好き!』とイヴリン様に可愛く言われて、小さなお手々でマーサの肩を一生懸命トントンされているのを私達見てたんだから!」
三人はリネン室でそれぞれの主人のベッドの替えのシーツを取り出しながら、おしゃべりしていた。マーサは二人の羨ましそうな言葉に、フフンと笑った。
「嫌よ!イヴリンお嬢様のお世話は私の生きがいなの!ああっ!身分差さえなければ、いっぱい抱きしめたり、撫でて差し上げられるのになぁ……」
「……ああ、去年倒れられた時ね。あの時は私達も本当に抱きしめてさしあげたくってたまらなかったわ。お仕えする公爵家のお嬢様だから、抱きしめたくても出来なくって、とても辛かった。あんなにも小さいイヴリン様を部屋に一人で寝かせることになってしまって、どれだけ寂しい思いをされたか……」
「そうよね。イヴリン様は怖くて寂しい思いをされたのに、健気にも看病する私たちを労い、優しいお言葉をくれたんですもの。どれだけ天使なんでしょう、私たちのイヴリン様は……」
三人はあの時のことを思うと、少ししんみりしてしまった。だが朝の仕事は沢山あるのだ。
「とにかく!私はイヴリンお嬢様のお世話をあなた達には譲らないから!では先に行くわ!」
マーサはシーツとタオルを抱え、リネン室を飛び出していった。
「「マーサ、ずるい!」」
屋敷の外では、タイノーとイレールとセドリーが3人で協力し合って、庭の点検を兼ねた手入れや馬の世話、門周辺の掃除などを行っていた。イヴリンが庭の散歩をする前に仕掛けた、罠の解除を手早く行いながらタイノーは言った。
「昨夜侵入した賊は庭の罠にひっかかっていたが、単なる物盗りで間違いないな?」
イレールとセドリーは頷き、昨夜の賊は親戚関係ではなかったと報告する。昨日門番だったイレールが言った。
「昨日届いた封筒や贈り物のいくつかに毒物がいつものように仕込まれていました。長に報告はしていますが、あれらはどうしましょうか?」
イレールの言葉にタイノーは少し考え、セドリーの方を見て言った。
「送り主を特定するのはアイビーとサリーが、いつものようにするだろうから、今日の馭者はセドリーだろう?旦那様を城に送りに行った帰りにでも、ちょっとそいつらを撫でてきてくれ」
セドリーは罠の解除のついでに、庭の雑草を引っこ抜きながら言った。
「ええ、いいですよ。あいつら、よりにもよって、子供服に毒物を仕込んでいやがったんですよ!俺達の大事なイヴリン様を害そうなんて輩、俺は許しませんよ。撫でて撫でてウンと撫でて、二度とそんな考えを起こさせないように、ギッタンギッタンに可愛がってきてやりますよ!」
セドリーの言葉にタイノーとイレールは同意しながら、三人は作業を続けていった。
ノーイエとエチータンはシーノン公爵の侍従だが、シーノン公爵は日中は城勤めがあるため、彼らも日中は、アイビーやサリーのようにセデスの指示でシーノン公爵家のための様々な雑用やら隠密や諜報活動などに励んでいた。
二人は今日はセデスの手伝いでシーノン公爵家の財産関係の書類仕事を手伝っていた。シーノン公爵家は広くて豊かな収入が見込める領地を持ち、代々その領地経営にも成功していたし、シーノン公爵自身も城で事務次官という役職を持って働いていたから、その財産は増える一方だった。だからそれを羨み嫉妬し妬む親戚縁者達に、シーノン公爵は日常的に命を狙われていたのだ。ノーイエは今月の出費額を計上するセデスの手元を見て言った。
「やっぱり今月も出費が少ないですね、長。とても公爵家とは思えない額です。毎年税務署が首を捻るんですよ、どうしてここまで抑えられるんだって。君達の主人は、よほどのケチなんだなと失笑されましたよ」
領地関係の書類を整理していたエチータンは、ノーイエの言葉に苦笑して言った。
「そうですよねぇ。旦那様は生真面目に毎年多額の税金を何も誤魔化さずに全て納めるようにと我々に命じられているから彼らに好感を持たれてはいますが、出費があまりに少ないから相当の倹約家だと思われていらっしゃるようです。
単に旦那様が他の貴族のように贅沢や無駄遣いを好まず、屋敷で茶会やパーティーをしないだけなんですけどね、出費が少ないって、理由は。……まさか、ここに計上した額の3倍の純利益があるとは誰も気づいておられないようですよ」
「ノーイエ、エチータン、無駄口を叩かずに仕事を続けて下さい。この隠し資産は万が一のご主人様一家のための資金を私が勝手に貯蓄しているのです。だから誰にも気づかれること無く、これらは信頼おける、あの大国の銀行にいつものように預けておいて下さい」
「「はい、長の言う通りに!」」
親戚縁者達がシーノン公爵に城勤めで忙しいだろうから代わりにやってやると言って、領地経営の仕事を無理矢理シーノン公爵から奪っていったが、実際は領民に丸投げして彼等は何もしていなかった。彼等が領地経営をした年、収入がガクンと落ち込んだ事を知ったシーノン公爵の命令で、セデス達はその原因を調査した。セデス達が調査した問題点を検討し、それらについての改善案を考えたシーノン公爵は、親切心から親戚縁者達にそれを教え、経営の助けにしてほしいと言ったのだが、
「余計なお世話だ!あなたは我々を陰で嘲笑っているのだろう!」
……と彼等はシーノン公爵の好意を邪推して受け取らなかった。せっかくのシーノン公爵の厚意を無視した彼等の振る舞いを面白く思わなかったセデスは裏から一族を使って、親戚縁者達の知らない所で、シーノン公爵が考えた改善案通りに領民達を指導することにした。
シーノン公爵の考えた案通りに改善を行った結果、領民達は落ち込んだ分以上の多額の収入を得ることになり、領民達は自分達の充分すぎる取り分以外は全てシーノン公爵様の手柄だからと言って、それらを何もしなかった親戚縁者達から隠し、セデスに渡してきた。セデスは、それをいざという時のシーノン公爵家の軍資金にしようと考えて、それ以降、順調にそれらを増やし続けていた。
「さぁ、今日もご主人様達が何の憂いも感じることなく、健やかに一日が過ごせるように我々は励むとしましょう」
セデスの言葉に二人は頷いて作業を再会させた。シーノン公爵は彼らが普通の使用人ではないことに気づいているが、それらを深く追求することが今までに一度もなかったので彼らの一族の本当の正体を知らないでいた。シーノン公爵夫人は毎日に社交で外出しているので、彼等が普通ではないことに気づいていなかった。新しくシーノン公爵家に養子縁組される予定のミグシリアスは、自分と同じ匂いを彼等に対し感じているのか、よく首をかしげているが、彼等の正体は知らないようだった。
そして彼等が愛する、小さなイヴリンは……。
「私、マーサさん達が忍者だって誰にも言わないから、今度、水中で息をする水遁の術を見せてください!」
「は?ニンジャとは何ですか、イヴリンお嬢様?人間は水中では息をすることは出来ませんよ?」
{ダメよ、イヴリン!忍者はけっして正体を漏らさないものよ!正体がばれたら他の忍びに殺されてしまうかもしれない!だから気づいてることを言っちゃいけないの!}
「え?(マーサさん達、死んじゃうの?そんなの嫌です!わ、わかったわ、アイ!私、もう言わないから!)……えっと、えっと……今の無しです!私はマーサさん達が大好きだから、長生きして欲しいんです!ずっと傍にいてほしいんです!だから無しです!」
「まぁ、イヴリンお嬢様!!嬉しいです!マーサは、ずっとず~っとイヴリン様のお傍にいますからね!ああ、なんて可愛いことをおっしゃるのかしら!本当に私の天使様です、イヴリンお嬢様は!イヴリン様、ずっとお仕えさせてくださいね!お嫁に行かれるときもマーサは、ついて行きますからね!」
「「マーサ、ずるい!」」
……と、こういう感じで、シーノン公爵家は、あの事件が起こる前までは平和な日常を送っていたのであった。