シーノン公爵家の神様の子ども
シーノン公爵家にはシーノン公爵夫妻と彼らに仕える使用人が11人、そして神様の子どもが一人住んでいた。
大昔からへディック国では子どもが5才になる前に亡くなってしまうことが多かったので、5才になるまでの子どもは貴族だろうと一般の国民だろうと皆、神様の子どもとして、戸籍に載ることはなかった。貴族の子どもは5才になるまで、屋敷の中だけで大切に育てられる。だからシーノン公爵家でも、その神様の子どもはとてもとても大切に育てられていた。貴族の子どもを育てるのは、乳母や教師や使用人の仕事だ。このシーノン公爵家でも、それは例外ではなかった。
例外だったのはシーノン公爵の神様の子どもが本当に神様の子どもではないかと思ってしまうほど、とても良い子だったことだろう。明るく優しく穏やかで前向きな女の子はこの屋敷に住む大人達、皆に愛されて大事に育てられた。
父親譲りの銀髪に青い瞳。母親譲りのお人形のように可愛い容姿。2才で読み書きを憶えた聡明さ。加えて、その性格。まさに非の打ち所がない……と言いたいところだが、一つだけ困ったことがあった。それは、よく熱を出して、よく体調不良になることだった。
この国の子どもは、とても弱い。そして、この女の子はそれ以上に弱かった。病弱な女の子を皆は、とても心配していた。そして、この女の子も自分の体の弱さをよく理解していた。苦い薬も痛い注射でも涙を浮かべるが、けして逃げなかった。どれだけ外が良い天気で庭の花がきれいでも、グッと我慢してベッドで横になっていた。これほどまでに健気な子どもはいないだろうと、使用人達はその姿に涙した。
貴族の子どもによく見られる傲慢さもなく、我が儘でもない、本当に健気で愛らしい、この女の子が無事に育ちますように……。この国の神様にどうか、この愛すべき私達のお嬢様を本当に神様の子どもとして、神様のお庭に連れて行くことだけはお止めください……と使用人達は祈っていた。
後、数ヶ月でシーノン公爵家にいる神様の子どもは5才になる。シーノン公爵家のイヴリン様として、このへディック国の戸籍に載るのも、後、数ヶ月……。
ピョン、ピョン、ピョン。跳ねる、跳ねる、跳ねる。クルリ、クルリ、クルリ。回る、回る、ま……ドタッ!
「大丈夫ですか、イヴリン様!病み上がりにそんなに動いてはいけません!」
マーサは頬を紅潮させて踊っていたイヴリンが、目を回して転んでしまったので慌てて抱き起こした。普段、聞き分けが良いイヴリンに制止の声をあげることなんて、めったにないと思いながらマーサは、その事に驚きと苦笑する気持ちを隠して、仕方のないお嬢様ですねと言いながら怪我がないかを確認した。
イヴリンの目の前には黒髪黒目の細身の少年が、その手に林檎の乗った皿を持ったまま、目を丸くさせて驚いていた。
「……そんなに踊るほど嬉しかったの?こんな林檎を切ってきたくらいで……?」
「くらいで、ではありませんわ、ミグシリアスお義兄様!だってウサギさんなんですよ!ミグシリアスお義兄様が林檎のウサギさんを私に作ってくださったんですもの!喜びの舞の一つや二つ、踊っちゃうくらい嬉しいんです!」
「そうでしょうとも!イヴリン様はミグシリアス様が大好きですものね。……ですが踊るのは、明日からにしましょうね、イヴリン様」
「そうですね!ミグシリアスお義兄様が手ずから剥いてくれたウサギさんを食べたら、きっと私、明日は本当のウサギさんみたいにもっと上手に踊ることが出来ますよね!ミグシリアスお義兄様、本当にありがとうございます!とっても嬉しくて、はしゃいでしまいました。マーサさんも心配してくれてありがとう!」
転んでしまったことに照れた表情となったイヴリンは、新しく出来た兄にお礼を言った。後、数ヶ月で5才のお誕生日を迎えるイヴリンに、ミグシリアスという義兄が出来たのは、つい2週間前のことだった。新しく家族が出来たことが嬉しくて嬉しくて堪らなかったイヴリンは熱を出すまでの2週間、ずっとミグシリアスの後をひよこのようについて回るほど、この少年に懐いていた。
ミグシリアスの剥いてくれたウサギの林檎を食べて、お昼寝の時間だからと無理矢理寝かされたイヴリンの部屋をミグシリアスは黙ったまま退出したのだが、その表情が何となく困り顔に見えたので、廊下を通った執事のセデスが声をかけた。
「若君、いかがされましたか?」
「セデスさん。イヴリンの誕生日が来るまで、僕のことは若君と呼ばないでください」
「わかりました、ミグシリアス様」
決まり悪そうに窓の方に顔をそらしたミグシリアスは困った顔のまま言った。
「僕は……黒髪黒目なのに、シーノン公爵もイヴリンも、どうして普通の子どもみたいに僕に接してくれるんでしょうか……?二人とも僕に優しいのはどうして?それに二人だけじゃなく、屋敷の皆も僕のことを疎んだり嫌わないのはどうしてですか?……どうしてなんですか?……どうして、ここの人は僕のことが気味悪くないの!?こんなのおかしいですよ!だって僕は黒髪黒目なんですよ!黒髪黒目は魔性の者だって皆は言って僕のことを嫌うのに、どうして!?」
セデスはミグシリアスの戸惑いは、尤もだと理解していた。この国では前王の時代から急に黒髪黒目は忌むべき存在、魔性の者だと言われ出したからだ。
「前王以前は、あんな噂などなかったそうです。大体、この国の始祖王は……いえ、ともかく、あんな噂など、この屋敷の者は誰一人信じてはいません。シーノン公爵もイヴリン様も、とても聡明な方々です。貴方様の本質を見抜いておられるのですよ」
「俺っ、いや、僕の本質なんてっ!!」
窓の方を向いたまま目を閉じて、両手の拳を握りしめた少年にセデスは苦笑して答えた。
「ミグシリアス様は、とてもお優しい方です。イヴリン様が熱を出されて食が落ちていることを心配されたのでしょう?小さな子どもが喜ぶウサギの形に林檎をお切りになって、イヴリン様に差し入れなされたでしょう?……それに、この2週間、ずっとイヴリン様について回られたのに、一度も嫌なお顔をされなかったでしょう?」
「あっ、あれは!……た、たまたま、気が向いただけですよ!それに黒髪黒目の傍にいたいって、人間に出会ったのが初めてだったからついて回られても、どうしたらいいのかわからなかっただけです!」
顔どころか耳や首まで真っ赤にさせて反論するミグシリアスに、真っ赤な顔で半睨みされても少しも怖くはないとセデスは微笑んだ。……しばらくして躊躇いがちにミグシリアスはセデスに尋ねた。
「あの、セデスさん。イヴリンは何か重い病を患っているのですか?」
「……いえ、子ども特有の熱病にはよくかかられますが、どれもこれもそんなには重い病ではないと、お医者様はおっしゃっています」
「でもイヴリンは熱がないときでも、すごく辛そうにしているときがありますよ?」
たった2週間、傍にいるだけのミグシリアスが本人が隠しているつもりの体の不調を言い当てたことに、セデスは優しい少年がここに選ばれてきたことを密かに喜んだ。
「眩しい昼間のお日様の出てる庭の散歩中とか急に寒くなった日とか……熱はないのに顔色が悪いことがよくありませんか?機嫌は悪くないけれど……どことなく元気がないんです。お医者様が何か言ってきたことはないのですか?」
「熱もないのに頭痛がするのは気のせいだと……。去年初めて、イヴリン様が頭が痛いとおっしゃって倒れられた時に、そうお医者様に言われてからはイヴリン様は、頭に痛みがあっても、誰にも伝えようとはなされず……ずっと、お一人で耐えてらっしゃいます」
「……痛いのに他人に気のせいだって言われて、イヴリンはすごく辛かっただろうな……」
まるで自分がその痛みに苦しんでいるかのように、その時のイヴリンを思って、辛そうな表情のミグシリアスに、セデスは彼を選んだ自分の主の目に狂いはなかったとしみじみ思った。
「ええ、お辛かったと思います。しばらく寝込まれました。でも、アイがイヴリン様を慰め、励ましたのでしょう。立ち直られてからはアイと共に治す方法を求めて、図書室に籠もられておりました」
「そうか、アイが……。そう言えば僕は、イヴリンがアイと話しているのをまだ見たことがありません」
セデスはミグシリアスの言葉を聞いて、一度頷いた後に言った。
「そうですね、最近アイはイヴリン様のそばにいないようです。もうすぐイヴリン様も5才になられますから、そろそろアイもいなくなってしまうのでしょう。……お父上のシーノン公爵の時もそうでしたし、そういうモノですから。それにイヴリン様にはミグシリアス様という、現実にいるお義兄様が出来たのですから、もうさびしくはないでしょうし」
「僕はアイの代わりに……なれるでしょうか?」
ミグシリアスの心配そうな声に、セデスは満面の笑みで言った。
「もちろん!アイ以上に!ミグシリアス様は現実に生きてらっしゃるのですから!」
確かにアイはイヴリンの心を一番理解しているだろう。だけどイヴリンの心の寂しさをアイではけして埋めることは出来ない。何故ならアイはイヴリンの心の中だけに存在する友達……つまりイヴリン自身だったのだから。




