イヴリンとアイとの別れ(前編)
イヴリンは馬車の中で笑い合う両親の声や、優しくイヴリンの目を塞ぐ、ミグシリアスの手の温かさを感じて、小さく、ホウッと熱いため息を一つついた。イヴリンは片頭痛故に貴族になることは出来ないが、イヴリンが大好きな人達と、これからもずっと一緒にいられる。イヴリンの父様がこれからもイヴリンの父様で、イヴリンの母様もまたイヴリンの母様になってくれて、ミグシリアスは、イヴリンのお義兄様になるのは止めるけれど、これからもずっと一生、イヴリンの傍にいたいと言ってくれている。マーサ達は今いる国を出たら、イヴリンと自分達の間にあった身分差が無くなるから、これからはいっぱいイヴリンを抱っこしたり、おんぶや肩車もしたいと笑って言っていた。
(……嬉しいな。皆とこれからも一緒にいられるなんて、すごく嬉しい!私、とても幸せ……)
ずっと思い悩んでいた悩みが無くなり、イヴリンは胸の中がとても楽になったと思った。すると、最近すっかり喋ってくれなくなった、イヴリンの友達のアイの声が、聞こえてきた。
{良かったね、イヴリン。これで私、安心してお別れが出来るわ}
馬車の中で両目を塞いだ状態のイヴリンの心の中で、初めてアイは、その姿を見せてくれた。黒髪黒目の4才位の女の子が、片手をヒラヒラと振っていて、イヴリンがアイに気づいたとわかると、アイはペコリと頭を下げた。
{ごめんね、イヴリン。私が考え無しにイヴリンに片頭痛のことを教えてしまったから、却ってイヴリンをとても怖がらせてしまっていたんだね}
アイは、この世界を生きた人間ではなかった。こことは違う世界で、ごくごく普通の人生を歩んだ女性だった。……そう、特別賢くもなく、愚かでもない、普通の人。……普通に、片頭痛という持病を持っていただけの女性だった。
彼女の生きた世界では、4人に1人が片頭痛だと言われるほど、その頭痛は、大勢の人が持病として抱えていて、周知されている病気だった。それは日常生活に支障を来すものではあるが、別段、今すぐに命の危険はないものだと、広く一般的に知れ渡っていた病気だった。
本やテレビやインターネットなどにより手軽に情報を集めることが出来て、その専門の病院まである世界で、頭痛持ちという言葉に慣れ親しんでいたアイは、頭痛が病気と認められていない世界で、それが病気だと教えることが、どれだけの影響を与えるのかが、わかっていなかったのだ。
……そう、この世界では、頭痛はまだ病気と認められていない病気。片頭痛は未知の不治の病だと、イヴリンにアイは教えてしまったことに、気づかなかったのだ。
アイはイヴリンが3才のときに、死を感じる頭痛の痛みと恐怖と孤独感によって、永遠の魂の記憶の眠りから、無理矢理揺さぶり起こされた。
アイは寝ぼけた頭で、怖がるイヴリンを励まし、気のせいと言われたことで傷ついたイヴリンの心を癒やすために、イヴリンは嘘つきじゃないと慰めるつもりで、それが病気だと教えた。
自分の経験上、片頭痛の特性を知っていたから、今後も頭痛に悩まされるイヴリンを助けるつもりで確実には治まるとはいえないけど、予防策を色々伝授した。この世界に片頭痛は存在せず、熱を伴わない頭痛は病気と認められていないことに愕然としたアイは鎮痛剤すら存在しないこの国で、片頭痛の人間にとって、まったく体質的に向いていない家業を手伝わないといけない、イヴリンの孤独な闘いを気の毒に思って、イヴリンの味方がいることをイヴリンに教えてあげたかった。
ただ、それだけだったのだが、いくら聡明だといっても、イヴリンは4才の子どもだ。世界中にもしかしたら自分だけが、その病気にかかっていると言われたら、どれだけの衝撃を受けるだろうか!?
常に一緒にいたときは、気づかなかったそれらが、最近一緒にいることが出来なくなり、だんだん眠りの間隔が長くなっていく中、アイはその眠りの中で、イヴリンの感じるだろう、絶望感や孤独感、無力感にようやく思考を巡らせて考え、気づけることが出来たのだ。
イヴリンと話をしたくても、その声はイヴリンに届かない。アイも眠くて眠くて堪らないが、また永遠の魂の記憶の眠りにつく前にどうしても、もう一度イヴリンに、会って話がしたかった。
{ごめんなさい。怖がらせたね。こんなに思いつめてしまって、大好きな父様やマーサさん達、ミグシリアスとも離れて生きていこうとしたなんて……}
イヴリンに謝りながらアイは泣いていた。イヴリンはアイの頭を撫で、驚いて顔を上げたアイに、にっこり微笑んだ。
「ううん、アイがいてくれたから、私は今の私のままでいられたのよ。あの時、アイが現れて、傍にいてくれたから、私は孤独に囚われることがなかったのよ」
あの時、イヴリンの両親はいなかった。使用人達は看病はしてくれたけど、抱きしめてはくれなかった。あの時の”死を感じる頭痛の痛みと恐怖と孤独感”にイヴリンが飲み込まれたままでいたのなら……。イヴリンはアイを抱きしめながら、言葉を続ける。
「もしもあの時、アイが私を助けに来てくれていなかったら……私は誰からも愛されていないのだと寂しく思い、誰からも助けられない自分が悲しくて、誰からも見捨てられたのだと絶望して……誰のことも信じられない人間になっていたと思う。そして誰のことも信じられないのに、それでも自分の傍から人が離れていくことがすごく怖くて、自分の目の前から人がいなくなることが寂しくて、悲しくて、でもそれを素直に言えなくて……、私の回りから人がいなくならないようにしたいあまりに、我を忘れて、誰に対してもひどい言葉をぶつけたり、なりふり構わず権力を使って自分の思い通りになるように画策する、そんな自分勝手なひどい人間になってしまっていたかもしれない。
アイが私を助けて、傍にいてくれなかったら……私は私の両親も私の世話をしてくれる使用人達も誰も信じることが出来なくなって、誰にも心を開かず、凍てつかせた心のまま、冷たい人間になって将来、悪い公爵令嬢になっていたかもしれないわ」
と、イヴリンはアイに心の中で打ち明けた。




