彼女達のファイナルイベント④
その年の10月の第二土曜日は、愛の中学校の運動会だった。その日の朝、唯が兄の雷斗と娘の愛と共に朝食の用意を整えていると、洗濯物を干し終えた千尋が台所に入ってきた。
「洗濯物全部干してきたよ!唯ちゃん、お待たせ!ああっ、今日の唯ちゃんもすごく美人さんだね!愛もお待たせ!愛もすっごく可愛いよ!あっ、おはようございます、ゴリマッチョ師匠、今日もすっごく、イケメンゴリラですね!まさに美女達と野獣!……イデデデデ!!ギブギブ師匠!許して!唯ちゃんも愛も笑ってないで、雷斗さんを止めて〜!」
夫の千尋は毎朝、妻や娘を褒めてから食卓の席に座るのが常だが、今日はエプロンをした雷斗に座る前に首根っこを捕まえられて、座ることが出来なかった。
「こら、チャラ男!お前何時だと思ってる!今日は早朝特訓をすると念押ししただろうが!いいか、よく聞け!今日の運動会のPTAリレーでお前は絶対一位を取れ!一位以外だったら、儂はお前を滝行に連れて行って、お前の根性を一から鍛え直してやるからな!」
千尋の義兄であり、格闘技の師匠でもある雷斗は、師匠である儂が3時に起きて待っていたのに弟子のお前と来たら……とぼやきつつ、千尋の襟元に指を一本差し入れて引っ掛けるようにして持ち上げると、それを見た愛が、目をキラキラとさせて雷斗を褒めた。
「うわぁ、雷斗伯父さん、すごーい!父さんを指一本で持ち上げてる!さすが世界チャンピオン三連覇なだけあるね!きっと仁姫さんが見たら、『雷斗様、素敵です!カッコ良すぎです!』って、雷斗叔父さんのこと、惚れ直しちゃうんだろうね!」
仁姫というのは、8月の盆の最終日にアイスを食べて頭痛を起こした唯を助けてくれた女性の名前だった。
「そ、そっか?儂、すごいか!に、仁姫さんもほ、惚れ直してくれるかな?そうだ!カッコいい新技を考えたんだけど、一度見てくれるか、愛?実はな、儂が昔開発した必殺技を改良したのがあってだな……」
雷斗は愛の口から仁姫という名前を聞くと、頬を赤らめた。そして興奮気味に、自分の姪に必殺技を見せようと、千尋を両手で持ち直し始めた。
「ギャー!!愛、雷斗さんに仁姫さんのことを言っちゃダメ〜!長年、女性に全くモテてなかった雷斗さんが、唯ちゃんを助けてくれて救急病院まで付き添ってくれた仁姫さんに後日、お礼を言った時に『実は私、あなたに初めて会ったときにあなたに一目惚れをしてしまったんです!どうかお願いです!私と結婚を前提にお付き合いしてください!』って、いきなり告白されてからというもの完全に舞い上がっているんだから!ずっと独身拗らせてた人が浮かれると始末に悪……って、すみません、そんなに怒ら……ギャ~!!」
唯は治療室にいたので、その場には居合わせなかったのだが、救急病院からの知らせを受け、千尋や愛や雷斗が慌ててやってきた時に、唯を助けた女性が唯の安否を心配し、病院に留まっていると知り、皆でお礼を言いに行った際に、女性が雷斗を見た瞬間、赤面し泣き始めたので雷斗が大いに狼狽えていたのだと、後で千尋と愛が教えてくれた。愛は「あれは仁姫さんが雷斗叔父さんを好きになった瞬間だったのよ!」と興奮気味に身振り手振りをつけて話し、それを見て雷斗が照れくさそうに笑っているのを見て、唯は兄にも良い人が現れて良かったと心から思った。
「ハイハイ、じゃれてないで、兄さんもちーちゃんも愛も早く席について、ご飯にしましょう?今日は愛の中学校最後の運動会なんだから!」
唯が皆にそう促すと、そうだった今日は運動会だから、早く学校に行って席取りをしないといけないなと、雷斗は千尋から手を離し、3人は唯が座る食卓の自分の席に座って、皆でいただきますの挨拶をしてから食べ始めた。
「今日は晴れて良かったな、愛。後から唯とこいつと運動会を見に行くからな!それに今年は真君も、ご両親と愛の応援に来ると言っていたから楽しみだな!そうそう、今年の運動会の弁当は期待していいぞ!今日は愛の中学最後の運動会だから、儂と唯が特別に腕を奮って心を込めて作った、とびきり美味い弁当だからな!
壊滅的に料理が駄目な千尋には指一本触らせていないから安心して食べなさい!……それにしても、なんでお前が鍋をひと混ぜしただけで、中身が蒸発してしまったり、炭と化すんだろうな?傍で何度見ていても理屈がわからんのだが……。ん?真君が来ると聞いて緊張してきたのか、愛?」
眉をハの字に下げ、食べる手が止まってしまった愛を見て、雷斗が尋ねた。
「……うん、少しだけ。だって私……早く走れないもん……。いつもビリだもん……。毎年、皆に少しもカッコいい所を見せられない」
しょげる愛に、雷斗は明るい声で慰めた。
「大丈夫だ、愛。何も心配はいらない。毎年話していると思うが、儂達や真君は、愛が元気で運動会を楽しんでいるのを見たいだけなんだ。だから愛は順位なんて気にしなくていいんだよ。愛が楽しんでいる姿を儂達は見たいだけなんだから、愛は運動会を沢山楽しんだらいいだけなんだよ。というわけだから、愛は怪我のないようにゆっくり走りなさい」
「うぇえ!?雷斗さん、毎年のことなんですけど、愛に言うことと俺に言うことの矛盾が激しすぎないですか!ハァ~、本当にもう、いつまで経っても雷斗さん、俺に厳しすぎなんだから!……あのね、愛。雷斗さんの言うように、父さんも母さんも伯父さんも真君も真君のご両親も、愛が笑って楽しんでいる姿を見るのが何よりも嬉しいし、幸せなんだよ。だから何も不安になんてならなくていいからね」
「母さんも普段通りの生活に戻ってもいいって、お医者さん達からお許しをもらったから、今日はPTAの玉入れ競争に出るつもりなの!愛、いっぱい応援してね!」
「えっ!?母さんも運動会に出るの?なら私、いっぱい応援するね!!エヘヘ、ああ、私、嬉しいな!幸せ!今日は頭も痛くないし、皆一緒!!私ね、すごく嬉しい!!」
「ハハハハ!!愛、良かったな。そうだ、唯が玉入れに出るのを応援するときに、よく見えるように儂が”高い高い”してやろうか?」
「ゔ〜、叔父さんに”高い高い”してもらわなくても私、ちゃんと見えるもん。もう中学3年生だし、いつまでも小さな子扱いしないでよ」
「そっか、そっか、ごめんな、愛。そうだよなぁ。愛はもう中3だもんなぁ。すっかり大きくなったなぁ!」
唯は千尋や雷斗と共に運動会を見に行くと、既に真が、テントを張っている保護者席で場所取りをしてくれていた。
「「「おはよう、真君。場所取りをしてくれてありがとう」」」
「おはようございます、唯さん。おはようございます、千尋先生。おはようございます、雷斗先生。唯さん、頭の傷の具合はいかがですか?」
真は唯達の声を聞くと立ち上がり、場所取りしていたシートに持参してきていた折りたたみの椅子を設置して唯を座らせた。
「心配してくれてありがとう。10月から普段通りの生活を送ってもいいって、セロトーニ先生達からも許可が出ているから、もう大丈夫なのよ」
唯がそう言うと真は嬉しそうに微笑んだ後、持ってきていた鞄からビデオカメラを取り出した。
「そうなんですね。唯さんがご無事で本当に良かったです。では僕は父から借りてきたビデオカメラで、僕の大事な大事な、世界一大事な僕の愛の頑張る姿を撮影してきますから、カメラは任せましたよ、千尋先生」
真にそう言われた千尋は、首に下げている一眼レフカメラを両手で持って、真を撮るフリをしてみせた後、自分の胸をポンと軽く叩いてこう言った。
「カメラは俺に任せときな!これで俺の可愛い可愛い、もう一つ可愛い俺の娘の姿をいっぱい撮ってみせるからな!なんたって、君のお父さんの所に押しかけていって、手取り足取り教えてもらったんだから準備は万端さ!そういえば月鐘さんも成美さんも未来の息子のお嫁さんの勇姿を見に来ると言っていたけれど、いつ来るのかな?」
「ああ、父さん達は今日は会社の人達と見に来るそうです。何でもゲームの資料用に運動会の様子を見たいという人達が大勢いるらしくて、随分前に愛の中学校に前もって見学の許可をもらっていたとかで……。でも、あまりに大勢なので保護者席ではなく、後ろの方から立ち見で見学するそうですよ。……そういえば、セロトーニ先生や呉礼先生も今日は愛の応援に来るそうですね」
真が辺りをキョロキョロと見回したので、雷斗はハハハ……と笑い、運動会の開会式まで時間があるから、二人共まだ来ないだろうと真の頭を撫でながら言った。
「ああ、あの二人は随分と儂の可愛い可愛い物凄く可愛い、目に入れても痛くないほどに可愛すぎる儂の大事な大事な姪の愛のことを、まるで自分の孫娘のように可愛がってくれていたから、二人が帰国するときに愛はすごく悲しむだろうなぁ……」
二人の医師は自分達の患者である唯の見舞いに来ていた愛と何度となく言葉を交わすうちに、愛のことを気に入り、まるで自分の娘か孫のように可愛がってくれ、愛もまるで自分の祖父であるかのように懐いていたが、二人の医師達は10月にはそれぞれの国に戻ることが決まっていた。
「大丈夫です。愛には世界中で愛を一番愛している僕がいますし、唯さん達家族や友人もいますから、きっと別れの悲しみを愛は乗り越えてくれると思いますよ。……あっ、愛が運動場に出てきた!今日の愛も、なんて可愛いのだろう!会うたびに大好きになるのは、どうしてなんだろう?きっと愛は僕の運命の人に違いない!ああ、愛は体操服姿もとっても愛らしい!じゃ、僕はもう行ってきますね!」
そう言って真はビデオカメラを持ったまま走り、千尋は保護者席の一番前に陣取り、カメラを構えて愛の姿を連写し始めたので、唯と雷斗はお互い顔を見合わせて笑いあった後、運動会の入場で行進をするために並ぼうとしている愛の姿を目で追いかけた。




