彼女達のファイナルイベント②
音と声に驚き、後ろを振り返った唯は、お尻をさすりながら呻いている高齢らしき女性の姿を見て、慌てて駆け寄った。
「大丈夫ですか?」
よほど痛かったのか、女性は苛立っているようだった。
「はぁ?これのどこが大丈夫に見え……えっ!?あんた……」
女性は唯の顔を見た途端、口を開けたまま、動かなくなってしまった。
「痛くて動けないようでしたら、救急車を呼びましょうか?」
パッと全体を見たところは出血もないようだが、もしかしたらどこか骨折しているかもしれない。そう考えた唯は公衆電話がどこかに置いていないかと辺りを見回した。
(こんな時、愛のお友達の純子ちゃんが持っていた携帯電話を私も持っていたら良かったのに……)
「もしか……して……私だと……わから……な……い……の?」
転んだ女性は唯の顔を凝視したまま、何事かつぶやいているが一向に自分で起き上がろうとする気配もなく、公衆電話も見当たらず、唯はどうしたらよいだろうかと悩んだ。女性は大層痛がっていたし、このままにしておいてはいけないだろうと思った唯は少し考えた後、こう言った。
「あの、ここで少し待っていてもらえますか?今から私、どこかのお店に走って行って、救急車を呼んでもらえるように頼んできますから」
「ま、待って!き、救急車はいらない!……えっと、えーっと……そうだ!あ、あそこに見える椅子の所まで連れて行って」
唯の顔を見たまま、動かなくなっていた女性はそう言って、その場を離れようとした唯を、しゃがれた声で引き止めた。唯はなおも気遣ったが、大丈夫だからという何度も言う女性の言葉を信じることにした。唯は女性の頼みを快く引き受け、女性が起き上がるのに手を貸した。起きあがった女性は腰が曲がっていて、顔も手足も日に焼けて、シワやシミも多かった。悪態をつこうと口を開いたときに見えた口の中には歯が見えなかったこともあり、見た目通りに女性は、かなりの高齢なのではないだろうかと唯は推測した。
転んだ女性はピンク色のワンピースを着ていたのだが、汚れが目立ち、首元や脇の下に黄ばんだような汗ジミの跡があり、汗臭い匂いもしていたし、着ているワンピースも手にしているショルダーバッグも履いている靴も、唯が娘時代の頃に流行った型の物であったので、唯は怪訝に思ったが、初対面の相手だったので、その違和感を口にはしなかった。転んだ女性が示した場所はショッピングモール内にある広場にいくつか設置してあるベンチだった。曲がっている背中に手を添えながら、女性をベンチまで誘導した唯は、ベンチに座った女性と視線が合うようにしゃがんでから言った。
「本当に大丈夫なのですか?もし救急車がお嫌でしたら、ご家族にでも連絡を入れて迎えに来てもらえるようにしましょうか?」
「……だ、大丈夫よ。お、音は派手だったけど、そ、そんなには痛くないし!」
視線が合うようにしゃがんでいる唯の顔を見ようともせずに、そっぽを向いたまま話す女性を見て、唯は干渉が過ぎて、警戒されているのかもしれないと思った。
(そうよね。見ず知らずの人間がいきなりあれこれと世話を焼いてきたら、不安に思うこともあるかもしれないわよね)
それでなくても女性は何もないところで転んだのだ。大人である自分が転んだことを恥ずかしく思っているかもしれないし、それを他人に見られてしまったのなら、余計にそれを恥ずかしく思っているのかもしれない。大きな怪我がないのなら、唯はもうここから離れた方が良いだろう。そう考えて立ち上がった唯に、女性は自分が座るベンチの横を指して、こう言った。
「ち、ちょっと、ここで私と話をしていかない?わ、私……誰かと普通に話すの、すごく久しぶりなの」
何か理由をつけて、女性の頼みを断り、その場を離れることも出来たのに、そうしなかったのは女性が、切実に唯と話すことを求めているように感じたからだったのだが……唯が女性の座るベンチに腰掛けてから10分経っても、未だ二人は一言も言葉を交わすことが出来ずにいた。というのも、女性が唯に話しかけようとする度に、邪魔が入るからだった。唯は離れて座っている女性を横目で見てから、広場に設置された大きなデジタル時計を見て、思わずため息をついて……しまった!と思ったが、時すでに遅く、どこからか歩いてきた男性が唯に近づいてきて声をかけてきた。
「あの……大丈夫ですか?気分が優れないなら、救護室までお連れしますよ」
ふくれっ面になっている女性を気にかけながらも、唯は心配げに声をかけてくる男性に笑顔を向けて言った。
「いえ、どこも気分を悪くはしていないので、大丈夫です。お気遣いありがとうございました」
「こちらこそ早とちりをしてしまい、申し訳ありません。でも、あなたが大丈夫で良かったです。では失礼させていただきます」
男性は礼儀正しく挨拶した後、去っていった。ジトッと唯を睨めつける女性の視線を感じ、唯は何回目かもわからない謝罪をした。
「長くお待たせしてしまってすみません……あの、お話を「もう話なんていらないわよ!」」
女性はベンチから立ち上がり、唯を右手の人差指で唯を指しながら、怒りの声を上げた。
「何よ、あんた!ちょっと美人だからって調子に乗るんじゃないわよ!何で私が転んだときは誰も助けにきてくれなかったのに、あんたが額に手をやったり、眉間にシワが入ったり、ため息をついただけで入れ替わり立ち替わり、人が来て、あんたの安否を心配するのさ!何でここに座って、たった10分の間で、何十人もの人間があんたに声をかけてくるのよ!……昔とちっとも変わんない。男も女も皆あんたの心配ばっかりする。あんたばっかり昔からずるいのよ!」
「昔?もしかして昔、私はあなたとどこかでお会いしたのでしょうか?」
「あっ!な、何でもない!し、初対面よ!は、初めて会ったのよ!」
昔、どこかで会ったことがあるのだろうか?と首をかしげる唯に、ハッとした表情になった女性は、気まずそうに顔を後ろに向けた。唯は転んだ女性が怒りで立ち上がったのを見て、申し訳ない気持ちになって、こう釈明をした。
「お気を悪くさせてしまって、すみませんでした。私は昔から頭痛持ちで……強い日差しを見ると余計に痛みが増すものですから、普段から日差しを避ける生活を心がけているんですが、そのせいで色白になってしまったからか、どうやら周囲の人達には、私が病弱に見えるそうなんです。家族や友人達がいると、そうでもないのですが、一人っきりになると親切なスパ……親切な方々が現れて、こうしてよく心配して声をかけてくださるんです」
この現象は唯が子どもの頃から、よく見られる現象であった。亡くなった両親や兄や千尋や、施設の先生や学校の先生や友人達の教えもあり、その誘いに乗ったことは一度もなかったが、唯は余程、自分の顔色は悪く見えるのだろうと思っていた。
(そういや、この間、愛も声をかけられたと言っていたわね。う〜ん、確かに最近の愛の顔色は良くないような……。夏バテかもしれないわね。それなら今晩のおかずは鉄分が取れる、ほうれん草とかレバーを使ったものにしようかしら?)
愛も母親の唯に似て頭痛持ちであり、日差しを避けているから色白で、唯と同じように、よく誰かから声をかけられていることを思い出した唯は、最近の愛の顔色が本当に良くないのではないかと心配になり、母親として、いの一番に自分の娘の健康状態を改善しなくてはと強く思い、今夜の献立について思考が囚われてしまったので、女性が呟いた言葉を聞いていなかった。
「ふ〜ん……。自分は美人なだけではなく、病弱なんだと自慢したいわけ?……どこまでも嫌味な女」
女性は自身が持つ、ショルダーバッグを開け、財布を持つと自分のバッグをベンチに座る唯に押し付けるように渡してきた。
「ちょっと喉が乾いたから、あっちの店で買ってくる。それまで、これを持ってて」
「え?あ、あの、見ず知らずの人間に私物を預けるのは止めておくべきかと思いま……。は、早い。もう、あんなところまで行ってしまった」
いきなりバッグを預けられた唯は狼狽えたが、女性は高齢だとは思えないくらいの足の速さで駆け出していってしまった。一人ベンチに残された唯は女性の足の速さに驚きながら、仕方ないと女性のバッグを横において、彼女が戻ってくるのを待つことにした。




