名前なき彼女達のイベリスをもう一度②
「アイドル声優……?あいどるせいゆう……って、あの、アイドル声優!?冗談じゃないわ!」
わたしとワタシは一瞬後に、私が一度目の人生で今日、何をやろうとしていたかを思い出し、思わず大声を出してしまった。
「仁姫お嬢様?」
訝しがる理沙さんの視線に気づかず、わたしとワタシは私の行動に頭を抱える。
(何だって私はアイドル声優なんていう、大それたものになろうとしたのだろう?冗談じゃないわ!)
私は自分の部屋の中をグルリと見渡した。白いテーブルの上にオーディションを受けるための書類が置いてあったのを見つけ、駆け寄って書類を手にし、電話を手に取った。
「お嬢様?何を……」
一瞬、電話のかけ方がわからなかったが、直ぐに電話のかけ方を思い出し、私はオーディションの連絡先に電話をかけた。
「……あっ、もしもし。おはようございます。朝早くすみません。そちらは……で間違いないでしょうか?実は私、そちらで今日オーディションを受けることになっていた受付番号138番の者なんですが、申し訳ありませんが一身上の都合がありまして、今日のオーディションを辞退させていただきます。
……はい。誠に申し訳ありません。こちらが無理を言ってオーディションを受けることを了承していただいたというのに、本当に本当にすみませんでした。……はい。今後は、あのような無体な要求など二度としないと誓います。……はい。では失礼させていただきます」
私は電話を切って、フウッと息を吐いた。これでフラグの一つをへし折ることが出来たはずだ。一度目の人生で私は何を思ったのか、突然アイドル声優になりたいと言い出したのだ。私を溺愛している父は、それを叶えようと自身のコネをフルに使って、実力もなければアイドル声優になるための努力さえ一切していない私をオーディションで合格させる手筈を整えていたのだが、八百長なんて真っ平御免だ。そんなことをしても虚しいだけだ。実際私はそれで……。
そんなことは今はどうでも良い。ともかく、わたしとワタシはもう二度と自分の父親に悪いことをさせるわけにはいかない。オーディションさえ行かなければ、私が八百長でアイドル声優になることは二度とないはずだ。私が安堵していると理佐さんが顔を引きつらせて悲鳴を上げた。
「ひぃ〜!仁姫お嬢様!一体どうされたのですか!?私のことを呼び捨てではなく、さん付けして呼ぶなど、今まで一度もありませんでしたし、自分で動いて電話の受話器を取られたこともなかったし、ましてや、そのような謙虚な謝罪など口にされたことも今まで一度もなかったのに……ハッ!もしや熱でも?そうですわ、きっと熱が出たんですね!これは大変ですわ!今直ぐにでもお医者様を!」
理佐さんの狼狽ぶりも無理はない。わたしとワタシを思い出す前の私は本当に色々と……非道い人間だったのだ。これまでの悪逆無道な私の所業を理沙さんに土下座して謝りたいが、今はとにかく時間がない。私をベッドに戻そうとする理佐さんの手を逃れて、私はクローゼットに近づいた。
「大丈夫よ、理佐さん。熱なんかじゃないわ。ちょっと思うところがあって、私は今までの自分を改めようと思っただけなの。昨日までの私は本当に非道い人間だったから。……そうね、きっとキンモクセイの香りのおかげで、私は謙虚さというものを思い出せたんだわ。だってキンモクセイの花言葉は”謙虚”ですものね」
そう言いながら着替えるためにクローゼットを開けた私は、目に飛び込んできた光景を見て、絶句した。
(何、これ?)
そこにあったのは私が気に入って買ったはずの衣服の数々であるはずだったのだが、わたしとワタシの記憶が蘇った私は、自分が選んだ服を見て、クラリと目眩がしそうになった。
(ピンクや黄色の洋服が悪いわけではないんだけど……)
そこにあったのはレースやリボンやビーズやスパンコールといったもので、ふんだんに飾り付けられた可愛らしい色合いの洋服ばかりだった。どれもこれもオートクチュールで作られたのだろうとわかる逸品揃いであったのだが、その洋服はわたしとワタシの生きていた世界では小さな女の子が好んで着るような形の洋服ばかりだったので、子持ちの既婚女性の記憶を思い出してしまった今の私にとっては、すごく子供っぽくて幼稚に見えるものでしかなかった。しかも……。
(何よ、これ?TPOを弁えねばならない時用の洋服は一枚もない……。これって日本の国に生きる一人の人間としてどうなの?今までの私は社会に出る時はどうしていたの?まさか、このイタい姿で出歩いていたんじゃ……)
私は自分の無知さや協調性の無さに項垂れる。何だ、これ?前世の記憶がなかったからとはいえ、あまりにも酷すぎる。今までの自分を思い出し、穴があったら……いや、穴がなくても自分でスコップで穴を掘って一生埋まっていたくなるくらいの羞恥の念で寝込みそうになったが、今はとにかく先を急がねばならない。私はクローゼットの中の洋服をかき分けながら、理佐さんに尋ねた。
「理佐さん。私急いで出かけたいのだけど、この中で出来るだけ大人しめの……私の年相応に見える洋服はないかしら?出来たらブラウスは無地の白でリボンとかレースが付いていないもので、スーツも黒とか紺とかの控えめな物があればいいのだ……け……ど」
尋ねながらクローゼット横にあった姿見の鏡を見て、手が止まる。
「控えめな洋服ですか……?そんな物が着たいなんて、お嬢様はどこかで頭でも打たれたのか、それとも天変地異の前触れか……ハッ!やだわ、私ったら!失礼しました、お嬢様。そうですね……無地の白いブラウスでレース類がついていないものは一枚もないですし、スーツもお嬢様は一枚も持ってはおられないですし……。黒といえばお母様が亡くなられた時の喪服はありますが……ん?お嬢様?どうされましたか?」
理佐さんは姿見の鏡を見たまま黙ってしまった私に声をかける。私はプルプルと体を震わせながら、喪服で良いからそれを出してきてほしいと頼んだ。理佐さんが喪服を取っている間、私は鏡の中の自分を睨みつけた。
(折角ライト様と同じ黒髪黒目に生まれてきたというのに!一体何を考えて、こんな頭になってるのよ!)
多分、わたしの姿が茶髪で瞳も地味な緑色だったことが、心のどこかに引っかかっていたのか、鏡に映る私の髪はアニメや漫画に出てきそうな感じの派手なピンク色に染まっていた。洗面所には水色のカラーコンタクトレンズを常備していたことも、ついでに思い出した私は、ハァ〜と息を吐いて、天井を仰ぎ見てしまった。
(髪を染めることやカラコンを入れることが悪いわけじゃ、決してないんだけど……)
でも日本人は礼儀を重んじる民族であり、その場に応じた身なりに拘る者が多い。わたしやワタシも前世では、TPOによって礼節というものをわきまえる貴族であっただけに、今日これから私がやろうとしていることにピンクの色に染めた髪は全く相応しくない姿であったので、私はゲンナリとしてしまった。
(服を買ったり髪を染め直す時間が私にはない)
仕方ないので私はふわふわとカールしているピンクの髪を出来るだけ落ち着かせて、後ろで一つに束ねた後に結び、理沙さんが出してくれた喪服の黒いワンピースに着替え、化粧もいつもの凝った化粧はせずに社会人として失礼に当たらないような控えめな化粧を心がけ……理佐さんを心底震え上がらせてしまったが、今は時間が本当にないため、彼女の気持ちを落ち着かせる言葉をかけることなく、私は出かけるための用意に気持ちを集中させた。
用意が済んだ私は、部屋の棚に飾られていたゲームソフトを急いで物色し、まだパッケージを開けていない一つのゲームソフトを見つけると、それを抜き取り、透明のフィルムをペリペリと外してから、クローゼットの中で奇跡的に見つけた……理佐さんによると、お葬式の時に用意したものらしい……飾りのない黒いショルダーバッグに放り込んだ。
「すみません、理佐さん!私、出かけてきます!」
「は、はい!お気をつけて行ってらっしゃいまし……あっ!待ってください!仁姫お嬢様!今、車は旦那様がゲーム会社に向かわれるのに使われたので、お屋敷には車はありません!お出かけならば、ハイヤーをお呼びしますのでお待ちに……」
急いでいた私は玄関に向かって走ったので、理佐さんの静止の声を聞いていなかった。
わたしとワタシが住んでいた城よりは、何十倍も小さな……でも、今の日本の常識で見ると、割と大きめな屋敷の外に出た私は、目の前に広がる風景に一瞬、目を奪われた。
(なんて背の高い建物ばかりが並んでいるんだろう!あの一つ一つに王様が住んでいるのかしら……?ああ、違うわ。あれはびるでぃんぐっていう建物……ビルだったわね。わぁ!音を立てて空を飛んでいるアレは何?……ああっ、あれはへりこぷた……ヘリコプターだったわ!)
私にとってはいつもの風景なのだが、わたしとワタシにとっては、初めて見る異世界の風景だったので、私は新鮮な気持ちでいつもの風景に暫し見とれてしまった。
(ああっ、こうしちゃいられない!えっと……車は……)
「嘘……車がない。どうしよう!これじゃ、私はまたお父様を止められない!」
車もなく、いつもの運転手もいないことにガックリと肩を落とした私の前に、一台の黒い車が止まった。
「こんにちは。もしも急ぎでしたら、タクシーはいかがですか?」
助手席の窓が開いて、中の運転手が私に誘いをかけてきた。
(たくしー?たくしー……、タクシー……?ああっ、貸し切り馬車のことね!よく見れば銀色の六角形の中央に黒狼の横顔のエンブレムが扉の所についているわ)
「ちょうど良かった!私、乗ります!お父様の所に連れて行ってください!」
私はタクシーというものを思い出せたので、安心して、タクシーの後部座席に乗り込んだ。
「本日は安心安全運転をモットーにしております黒狼タクシーをご利用いただき、誠にありがとうございます。私は運転手の太野と言います。お客様、お乗車しましたら、安全帯……シートベルトの着用をお願いいたします。では出発させていただきますね」
そう言って走り出したタクシーに私は感心しながら乗っていた。
(まぁ!ライト様がワタシに言っていた通りだわ!馬がいないのに、とても速く動くのね。それにしてもライト様の世界の貸し切り馬車は行き先を言わなくても、そこへ連れて行ってくれるのね!本当にすごい世界だわ!)
わたしとワタシの記憶が蘇ったばかりの私は、その不自然さに気づくことがなく、また普通なら1時間半はかかるだろうゲーム会社への道のりを20分でたどり着いた不思議にも当然気づくことはなかった。
※キンモクセイの花言葉は謙虚の他に、初恋という意味があるそうです。
※車で1時間半かかる場所に20分でたどり着いた理由は、交通違反をしたわけではなく、林間学校のときのトゥセェック国みたいな状態になっていたからです。




