最後の物語のオープニングイベント⑦
お父さんは小さく笑った後、こう言った。
「この世界には善良な者も多いけれど、善良ではない者もかなりいる。もちろん人は皆、悪者として生まれてきた訳ではないのだから、彼等だって初めからそうだった訳ではないだろうけれど……。でもどのような事情があるにしろ、悪事に手を染めようとする者から、お父さんや純子は身を守らなければならない。
もしも、ここがお兄ちゃんの好きなゲームの世界だったら、悪者はモンスターの姿をしているから、とても身を守りやすいだろうけれど、現実の世界ではそうもいかない。だって人は見た目で良い人か悪い人かは判別出来ないし、悪事を働く者が必ずしもテレビや映画に出てくるような怖い人相をしているわけではないんだから。誰から身を守ればいいのか、見た目ではわからないのだから、そういう意味では現実の世界の方が、ゲームの世界よりも遥かに恐ろしい世界なのかもしれないね」
お父さんはそう言った後、私の模試が終わってから、私に話そうと思っていたという話をしてくれた。
「純子はまだ中学生だから馴染みがないだろうが、実印や銀行印と呼ばれる印鑑や、バイクや車の免許証や、健康保険証、クレジットカードの類は、紛失したら直ぐに警察に届けなければならない物として代表的な物なんだ。何故なら現金や金品を落としたら、盗まれたらそれで終わりだが、印鑑や免許証や健康保険証、クレジットカードの類は盗まれた場合、それらを悪用して銀行に貯めていたお金を引き出されたり、勝手に買い物や借金をされたりと更に被害が拡大する恐れがあるからなんだよ。
人は失敗をする生き物で、老若男女問わず、生まれてから今まで失敗したことがない人なんて一人だっていやしない。だというのに、人は知性がある生き物だからか、成長すればするほどに自分が失敗をすることを格好悪いと思うようになり、してしまった失敗を誰かに知られたくないと考え、隠したいと思う誘惑に駆られるんだ。
でも、だからといって落としたことが恥ずかしいとか情けないとか家族に怒られるから言えないとか、そんなちっぽけな体裁を取り繕っている間に自分の財産を奪われたら元も子もないだろう?悪人は人の弱みや隙をついて、悪事を働くことに長けているからね。だから人は自分や自分の大切な人を守るためにも、格好悪い自分を……今日の純子のように失敗した自分を受け入れる勇気を持つことが大事なんだよ。
万が一、さっきお父さんが話していた物を落としたり無くしたりして、どうしても見つからない場合は、躊躇わず直ぐに警察に遺失届を出し、各機関に連絡を取り、それらを使用不可の物にする手続きを取り、使用不可の物にしてしまえば、それ以上財産が奪われることもないし、それらが使用不可の物なら、それらを悪用できないのだから、悪人も罪を犯さずにすむだろう?
まだ中学生の純子には、それらを持たせたことはなかったけれど、一昨日渡した携帯電話には、それらと同じくらい……いや、それ以上に危険が付き纏うということを、お父さんは純子の模試が終わってから説明をしようと思っていたんだよ。でも純子は自分で、その危険の可能性に気付けたのだから、お父さんは純子を誇らしく思うよ」
「……」
お父さんの褒め言葉に、私は無言になってしまう。果たして私は自分で、それに気づけたのだろうか?今回たまたま私の携帯電話は善良な人に拾われて、私のあの幻の最悪の事態は、本当に夢幻で終わったけれど、あの幻を見なかったら、私は失敗を隠してしまう選択をしてしまっていたかもしれないと思うと、お父さんの褒め言葉を心苦しく感じてしまった。
「そうだ。今度、純子を助けてくれた信濃さんにお礼を言いに行こう。信濃さんが機転を効かせてくれたおかげで、純子の携帯電話は早く戻ってきたんだから」
黙ってしまった私にお父さんは素敵な提案をしてくれた。あの後、交番まで付き添ってくれた信濃さんは、泣いていた私を心配して、帰りの電車も一緒に帰ってくれたのだ。私はそれがとても嬉しかったので、きちんと信濃さんにお礼が言いたいなと思っていたから、すごく嬉しい気持ちになって、お父さんに信濃さんの自慢をした。
「うん!ありがとう、お父さん!私もきちんとお礼が言いたいなと思ってたの!あのね、お父さん!信濃さんは、本当に優しい子なんだよ!交番におじさんを連れて行ってくれた後にお店に携帯電話の言伝を頼むために足を運んでくれたなんて、すごく親切だよね!私ね、前から信濃さんのことをとても優しい子だなと思っていたんだけど、今回のことで信濃さんをさらに尊敬しちゃった!」
「純子は相変わらず責任感があって、人の良い所を素直に認められる優しい子で父さんは嬉しいよ。今度はお前を引きこもりにも、貴族嫌いにもさせずにすんで、本当に良かった……」
「?ん?何、キゾクって?」
「いや、何でもない。……さぁ、着いたぞ、純子。ここの屋台の売りは、ニンニクたっぷりの豚骨背脂まみれの激辛のラーメンなんだ。きっと美味いぞ〜!」
お父さんはそう言いながら、車を駐車場に停めた。私も車から降りると、夏の生暖かい空気が既に空腹を猛烈に刺激してくるニンニク臭だったので、私はお腹を押さえながら、お父さんを恨めしげに軽く睨んでみせた。
「うわぁ〜、お父さんったら。私は一応乙女のつもりなんだけど、その乙女に普通、ニンニクたっぷりの豚骨背脂まみれのラーメンを勧める〜?ありえなくな〜い?」
「ごっ、ごめん!お父さん、そんなつもりじゃ「お父さんは乙女心がわかってないなぁ!……食べるけどね」……えっ?」
「冗談だよ、お父さん!早く行こう!もう私、お腹がペッコペコ!ねぇ、煮卵も別に頼んでもいい?」
「ハハハ……冗談かぁ。お父さん、純子に嫌われたかと思って、ちょっと泣きそうになっちゃったぞ。煮卵でも何でも好きな物を頼みなさ……わぁ!純子!早すぎ!お父さん、そんなに早くは走れない〜!」
「もう!普段から運動しなさすぎだからだよ、お父さんは!ほら、引っ張ってあげるから!行くよ、お父さん!」
私はお父さんの前で泣いてしまった気恥ずかしさを誤魔化すために、少しだけ生意気なことをお父さんに言ってしまった後、狼狽えているお父さんの手を引きながら、早足で駆け出した。
携帯電話のお礼を言うために私がお父さんと一緒に信濃さんの家に訪問したのは、8月に入った週の初めの日曜日の午後だった。信濃さんの家に行くと信濃さんのお父さんが出てきて、信濃さんは体調を崩して寝込んでいると教えてくれた。私は信濃さんのお父さんに携帯電話のお礼を言いたかったことを伝え、お土産を渡して帰ろうとしたら、奥から信濃さんの恋人の加呂さんが出てきて、信濃さんが部屋で私と話したいと言っていると言ったので、私は信濃さんの部屋に行き、お父さんは私が戻ってくるまで信濃さんのお父さんと待ってくれることになった。
加呂さんに促されて、信濃さんの部屋に入ると、カーテンを締め切って蛍光灯も消された薄暗い部屋に置かれたベッドの上で信濃さんが出迎えてくれた。
「ごめんね、田中さん。事前に連絡をもらっていたから、用意して待っていたのに急に頭が痛くなっちゃって……。お父さんに田中さんの家に連絡を入れてもらったんだけど、もう田中さんは出かけてしまった後で……。こんなことなら、田中さんの携帯電話の番号を教えてもらっとけばよかった」
額に冷却ジェルシートを貼っている信濃さんが謝るので、私は何だか申し訳ない気持ちになった。
「ううん、気にしないで。ただ、お礼をきちんと言いたかっただけなの。あの時は本当にありがとう。とても助かったし、嬉しかった。……それにしてもすごく大変な病気だよね、”片頭痛”って……」
私がそう言うと、信濃さんは首をかしげた。
「?田中さん。その”片頭痛”って何?私は単なる頭痛持ちなだけだよ。私の母さんも叔父さんも頭痛持ちで、これは遺伝で体質なのよ」
信濃さんは頭痛は体質だと言ったので、今度は私が首をかしげてしまった。私はショルダーバッグに入れていた自分の携帯電話を取り出しながら言った。
「え?でも信濃さん、よく頭の半分だけが痛いって言って保健室に行ってるでしょう?それって”片頭痛”の症状なんだよ。私の大好きな女性声優さんも”片頭痛”の持病があるから私、”片頭痛”のこと、ちょっとだけ詳しいんだよ。……あっ、そうだ!私の携帯電話!これね、パソコンみたいにインターネットと繋がるから、色々なホームページを検索出来るんだよ。ちょっと待っててね。……ほらほら、これ!”片頭痛”のこと、色々載ってるから見てみて!」
私が”片頭痛”のことが色々載っているホームページを検索して、信濃さんに見せてあげたら、信濃さんは目を丸くさせた後、ベッドから起き上がり、クワッと大きな目をさらに大きく見開いて、食い入るようにホームページを見て、突然大声を上げた。
「や……やったー!私、病気だったんだー!これでもう仮病だなんて言われなくてすむんだー!」
信濃さんの大声が聞こえたのか、沢山の足音が聞こえた後、信濃さんの部屋のドアが乱暴に開いて、加呂さんや信濃さんのお父さんやお母さんやおじさん……何と、信濃さんのおじさんは、忍者みたいな動き方をするので有名な格闘技の世界チャンピオンだった……と私のお父さんが、なだれ込むようにして部屋に入ってきた。
「「「「どうした(の)!?」」」」
慌てふためく大人達を前に、信濃さんはとても嬉しそうに言った。
「あのね、皆んな聞いて!この頭痛ね、病気だったんだよ!”片頭痛”っていうの!ほら、これを見てみて!田中さんが教えてくれたの!」
「「「「なんだって!?」」」」
信濃さんの言葉に驚いた様子の信濃さんの家族達は、私の携帯電話の画面を見て、大騒ぎとなった。信濃さんの家族は信濃さんのお父さん以外は皆、”片頭痛”を患っていたのに、それに気がついていなかったらしい。今日も信濃さんだけではなく、信濃さんのお母さんもおじさんも頭痛で寝込んでいたのだと聞かされた後、私は信濃さんの家族の皆から、とても感謝されることとなり、このことがきっかけとなって、私と信濃さんはとても親しくなり、私達は親友となった。その日曜日の数日後、信濃さんから私の自宅に電話があった。
「純ちゃんのおかげで、私達は”片頭痛”だとわかったから、今度ね、皆で頭痛外来という、頭痛専門の病院で診察を受けようという話になったの」
私達は”純ちゃん”、”愛ちゃん”と呼び合うほどの仲良しになっていた。
「愛ちゃん、良かったね!病院はいつ行くの?」
「夏のお盆休みが終わった次の日に予約が取れたから、その日に皆で行くの」
「そうなんだね。皆の頭痛に効くお薬がもらえるといいね!」
「うん!」
……そんな話をしていたけれど、お盆休みが終わった次の日に、信濃さんは頭痛外来には行けなかった。何故なら、お盆休みの最終日に信濃さんのお母さんが街中で倒れ、救急車で緊急搬送されたからだ。救急車を呼んだ者の話によると、信濃さんのお母さんが倒れた時に傍にいた老婆が、倒れた信濃さんのお母さんを見て、「ザマァ見ろ!この頭痛女!」と罵った後に走り去ったとのことだった。




