最後の物語のオープニングイベント④
(どこにもない……。きっと誰かが持っていっちゃったんだ。だって、あれはとても高価な物だってお父さん達、話してたもの。どうしよう、きっとすごく怒られる……)
トイレの個室の床や洗面台周りにも携帯電話は落ちていなかったので、私は暗い気持ちになって、お店のトイレから出た。ファストフード店の照明は、とても明るいはずなのに目の前が真っ暗になったような気がして、店内にいる人達の声も聞こえなくなり、ただ下腹部を襲うズキズキとした痛みと、耳元でドクドクと脈打つ自分の血流の音だけが私自身を支配していくようだった。
私はもう15才の中学3年生だ。どうすればいいのかなんて本当はわかっている。ファストフード店の店員さんに私の携帯電話が落ちていなかったかを尋ねて、落ちていないと言われたら交番の場所を尋ねて交番に向かい、交番にいる警察の人に携帯電話を落としたことを届けてから家に電話を入れて、携帯電話を無くしたことを正直に言うべきなのだ。でも……。
(あ〜あ、どうして、この世界にはタイムスリップとか魔法がないんだろう?タイムスリップや魔法が使えたら、携帯電話を無くす前に戻って今度は無くさないように過去をやり直し出来たのに。……そうだなぁ、もしも、ここがゲームの世界だったら携帯電話を無くす前までの保存データのところから、やり直せたのにな……)
自分が悪いのはわかっているのに、家族に怒られるのが嫌で直ぐに行動に移せずにいる私は、つい、もしも……を考えてしまった。もしも模試が終わった後、寄り道さえしなければ携帯電話を落とす事態には至らなかったのにとか、もしも憧れの女性声優に会えた時に図々しく写真を強請らなければ携帯電話をお店で見ることにはならなかったのにとか、もしもあの時に生理にさえならなければ、慌ててスポーツバッグのファスナーを開けっ放しで席を立つこともなかったし、あの外国人のおじさんにぶつかることなく、カバンの中身を床にぶちまけることもなかったのに……等と考えても仕方ないことを想像し、少しでも現実から逃避しようとしてしまう。
(きっと、すごく怒られちゃうんだろうなぁ。自分が悪いのはわかっているけれど、怒られるのは嫌だなぁ。今日は携帯電話を無くしたことを言わないでおこう……。明日!そう、明日話そう!明日のタイミングの良さそうな時に……あんまり怒られないような感じの時に、それとなく話そう)
そう考えた直後だった。
{この甘ったれ!いつまで逃げたら気がすむの!いくら過去に戻っても、あなた自身が変わらなかったら選択は変わらないし、未来も変わらないのよ!あなたはこんな未来をまた選ぶつもりなの?}
大人の女性の声が聞こえたと思ったら、またもや幻が見えてきた。その幻は幻と呼ぶには、あまりにも生々しく、まるで私は一度、その人生を歩んでいたのではないかと錯覚してしまうほどにリアルな幻だった。
生理になったことを知った私は、携帯電話を慌ててスポーツバッグに入れ、席を立ち、急いでトイレに向かおうとして振り向きざまに、お母さんと同じ年位のおばさんにぶつかった。おばさんは倒れはしなかったが、明らかに私が周囲に気を配らずに急に席を立ったことがぶつかった原因だったので、私は転んだ状態のまま謝った。
「すっ、すみませんでした!」
床に座った状態で謝った私に、ピンク色のワンピースを着たおばさんがドスの利いた声で思いっきり罵ってきた。
「どこ見て歩いてんのよ、このガキが!ちょっと自分が若くて可愛いからって調子に乗ってんじゃないわよ!慰謝料払いなさいよ!訴えるわよ!」
「ごめんなさい!」
私は今まで生きてきた中で知らない大人の人に怒鳴られたことや罵られたことが一度もなかった。汚い歯をむき出しにして怒るおばさんの鬼のような表情や人とは思えないくらい臭い呼気が、本当に鬼のように思えてしまって怖くなってしまい、ギュッと目を瞑ってしまった。
「ちょっと、あんた!目なんか瞑って泣くつもりなの?ハッ、泣けばいいってもんじゃないわよ!泣いて済むなら警察なんていらないのよ!いいから親を呼びなさいよ!慰謝料をしこたま踏んだくってやる!」
「ひっ!?すみません。ごめんなさい……。ごめんなさい」
「おいおい、おばさん。そのくらいで許してやりなよ。その子は何度も謝っているじゃないか」
「煩いわね!外野は黙ってて!見た目にはわからなくても私は、このガキに精神的苦痛を味わわされたんだからね!慰謝料を請求して何が悪いって言うのよ!邪魔するなら、あんたも訴えてやるから!」
「ほう……?いい度胸だな、臭いおばさん。いいぜ、出る所に出て白黒はっきりつけようや。何、この店には防犯カメラが付けられているんだ。そこに何が写っているか、あんたはわかってんじゃないのか?……おい、嬢ちゃん、ここは俺に任せて家に帰りな。心配するな。確かに嬢ちゃんが慌てて席を立ったのは粗忽だったかもしれないが、慌てた様子の嬢ちゃんの足をわざと引っ掛けたのは、そこにいる臭いおばさんだ。
俺はテーブルの下に落としてしまったストローの袋を拾おうとして、それを見たんだよ。こういう手合の人間は自分よりも弱い人間には強く出るが、俺みたいなのには、よう手出しが出来ないんだ。嬢ちゃんがこの女に後でもつけられたら大変だし、俺が引き止めておくから、さっさと行っちまいな」
「す、すみません!ありがとうございます!」
いくら謝っても許してくれないおばさんに、すっかり怯えてしまった私を見かねてか、店内にいた男性が割って入って助けてくれて、そう言ってくれたので私は礼を言ってから、床に散らばった自分の荷物を慌ててかき集めて、中身をきちんと確認しないまま、ファストフードのお店を飛び出していった。
私は自分が生理になったことも、それでトイレに行こうとしていたことも忘れて、そのまま駅まで走って行って家に帰り、携帯電話を無くしたことに気がついたのは夕食前のことだった。帰宅予定の時間より遅く帰ってきたことを心配していた家族は、私が生理になったことを知ると喜んでくれて、その日の夕食にお寿司の出前を取ってくれていた。
(どうしよう……。こんなに喜んでくれているのに、携帯電話を無くしたなんて言えない。きっとすごく怒られちゃう!今日は携帯電話を無くしたことを言わないでおこう……。明日!そう、明日話そう!明日のタイミングの良さそうな時に……あんまり怒られないような感じの時に、それとなく話そう)
私はおばさんに怒鳴られたことで、すっかり怒られるのが怖くなってしまい、それをすることが良くないとわかっていても、怒られたくないという気持ちが勝り、問題を先送りすることを選んでしまった。……私が、その選択をしたことが間違いだったと知ったのは二学期の終業式の日のことだった。
二学期の終業式の後のホームルームの時間、クラスの皆で高校に入学したら、やりたいことを言い合った。皆は部活を頑張りたいとか、バイトをしてみたいとか、彼氏や彼女を作って青春したいとか言っていて、大いに盛り上がっていた。一人ずつ順番で言い合って、私の前の席の信濃さんが高校生になったら携帯電話を買ってもらうのだと話した時、私は家族に内緒にし続けていた携帯電話のことを思い出し……結局私は怒られるのが怖くて言えないままだった……私は罪悪感でドキドキし出した。
「なるほど。信濃さんは高校生になったら、9年間お付き合いしている恋人とお揃いの携帯電話を持つのですね。それは楽しみですね。では次は、田中さん。田中さんは高校を合格したら、何をしたいですか?」
私の前の席の信濃さんは小学一年生の頃に知り合った2つ年上の彼と9年間もお付き合いをしているらしく、初恋さえまだの私とは次元の違うところで生きているような感じを私は信濃さんに対して抱いていた。信濃さんが席に座り、次は私の番になったけれど、私は無くした携帯電話のことで頭が一倍だったので、高校に入学した後にやりたいことなんて何も思い浮かばなかったけれど、何もないと言うわけにもいかなかったので、適当な事を言った。
「は、はい!わ、私は、私は高校に入学したら携帯電……いえ、私は高校に入学したら乙女ゲームをしてみたいです!」
(そうだ!高校に合格したら、携帯電話の事を正直に話そう!絶対そうしよう!)
そう密かに決意を固めた私にクラスの子達が手を上げて質問してきた。
「「「「「乙女ゲームって何?」」」」」
夏の模試帰りに携帯電話を無くして以降、ずっと家族にも誰にも言えず悩んでいた私は、実際にはお兄ちゃん程はゲームに詳しくなかったので、辛うじて知っていた、あの女性声優がゲームキャラクターとして起用された乙女ゲームの話を無理やり明るい声音で語って皆に聞かせた。
「へぇ〜、田中さんって、乙女ゲームに詳しいんだね。私は頭が痛くなるから大抵のゲームが出来ないんだけどね、私の好きな人も昔はゲームに詳しかったんだよ。私も高校生になったら、彼と一緒に乙女ゲームをしてみようかな?」
目をキラキラさせた信濃さんにそう言われた私は、幸せそうで何の悩みもなさそうな彼女の笑顔を見ていたら、彼女には少しも悪いところはないというのに、無性に彼女のことが腹立たしく感じると共にこんなに思い悩んでいる自分が馬鹿馬鹿しく思えてきた。
(ああ、どうせ怒られるんだから、ずっと悩んでても仕方ないじゃない。さっきは高校に合格してから家族に正直に話そうと思ったけど、今日、家に帰ってから正直に話そう。そしたら心も軽くなるだろうし、受験にも身が入るだろうし、高校に入ったら信濃さんみたいに恋人を作って、ゲームを楽しもう!)
そう決め直して家に帰ったのだけど、私はそこで自分がそれを決断したことが5ヶ月遅すぎたことを知らされた。




