ピュアの不眠と物語の白いリボン(前編)
二学期が始まり、学院の保健室の先生をしていたイヴは、秋が深まってきた頃に妊娠していることがわかり、安定期に入るまでは休養を取ることになった。スクイレルの面々はイヴが学院に戻ってきた頃までは学院にいたが、トゥセェック国の隣国だったへディック国が滅亡し、ヒール国という新しい国が出来ることになったので、スクイレルはそれを全面的に手伝うためにスクイレル商会を畳み、ヒール国に移住することをイヴとイヴの夫であるミグシスに告げた。
イヴとミグシスはグランが元々へディック国の公爵だったことを知っているので、グランがナィールやセデス達と共に、新しい国造りの舵を取るカロンを……なんと役者のカロンは、幼き頃にナィールと生き別れた双子の弟であり、しかも役者のカロンというのは世を忍ぶ仮の姿で、カロンの本当の正体はトゥセェック国のイミル将軍だったのだ……支えたいと望むことを当然のこととして受け止め、快く送り出した。スクイレルの中では、マーサとノーイエだけがイヴとミグシスの傍に残り、後の者はグランとアンジュと共に旅立っていった。
3つの国がヒール国の建国を大々的に支援することが決まると、3つの国が共同で経営している学院の一年生の平民クラス以外の学院生達も皆、ヒール国の国造りの手伝いに度々駆り出されることが続き、秋以降学院は、臨時休校状態となっていたので、イヴはミグシスや自習をして過ごす平民クラスの友人達とイヴと同時期に妊娠したピュアとその夫のジェレミーと穏やかな日々を過ごしていた。
学院にはセロトーニとゴレーが常駐医として在任し、ピュアの故郷であるネルフ国……12月からクワイエット国という新名に変わる……からは、ピュアの妊娠の知らせを知った、ピュアの乳母だったリーサが駆けつけてきたこともあり、イヴもピュアも安心して妊娠生活を送ることが出来ていた。二人は幸い、妊娠期に見られるむくみや吐き気といった、辛い諸症状に長く苦しめられることはなかったが、ピュアは妊娠初期から再び不眠症となった。セロトーニとゴレーは不眠症となったピュアに、妊娠中でも飲むことが出来るエルダーフラワーの薬草茶を処方したが、ピュアの不眠症は一向に治らなかった。
「お加減はいかがですか、ピュアさん。ああ、ピュアさんは、そのまま横になっていてください。……今日は顔色も優れませんね。もしかして、またあの王弟殿下の夢を見たのですか?」
ピュアが不眠症だと知り、午後に隣室に見舞いに来たイヴは、ベッドに横たわっているピュアを心配し、そう声を掛けた。ピュアは起き上がろうとしたがイヴに制されて、再びベッドに横になった。
「いいえ、あいつの夢は見ていないわ。あのね、イヴさん。私、最近いつも決まって同じ夢を見るのよ。私は夢の中で何かとても重要な物をいつも無くしてしまうの。それで、ものすごく不安な気持ちが押し寄せてきて、どうしようもなく焦ってしまって、目が覚めてしまうの。目の前が真っ暗に思えるほどの絶望感を感じているのに、周りに誰もいなくて助けを呼ぶことも出来ない……そんな夢を見るから、夢を見るのが怖くて眠れなくなってしまったの。
変な夢でしょ?私にはジェレミーがいるし、リーサさんも来てくれたし、イヴさんやミグシスさんやマーサさん夫妻や、平民クラスの皆やセロトーニ先生やゴレー先生もついてくれているから、いつでも助けを呼ぶことが出来ると言うのにね……。きっと初めての妊娠で緊張しているから、こんな夢を見てしまうのね!」
青い顔色で無理に明るく振る舞うピュアを見て、イヴは眉をシュンと下げてしまった。本人の言う通り、初めての妊娠で緊張しているのは本当だろう。だが、それだけではないのだろうとイヴは思った。
(妊娠したことは大きな喜びではあるけれど、初めてのことで不安がいっぱいなのでしょうね。私だって薬草医になるために、昔セロトーニ先生の所で研修をしていて、妊婦さんや経産婦さんの患者を多く見知っているから、妊娠や出産の知識は多少ついているから大丈夫だろうと安心していたけど、いざ実際に自分が妊娠してみると、思っていたのとは全く違うと驚いたのですもの……。
薬草医である私でさえ、不安なのだもの。今まで引きこもっていて、自分の身近で妊婦さんを見ることが一度もなかったピュアさんは、さぞかし不安に思っているに違いないわ。愛する夫や沢山の友人達や頼もしい医師達や自分を育ててくれた乳母が傍についてくれているとわかっていても、人は未知のものを怖がる生き物だもの。潜在的な恐怖心はけして無くなりはしないわ。
皆に声掛けして、今後ピュアさんの体調に考慮しながら、いつでもピュアさんが悩みや不安を打ち明けられるような環境づくりをするのも大事だけど、親友として私がピュアさんにしてあげられることは何かないかしら?……あっ!いいこと思いついた!)
我ながら良い思いつきをしたと思ったイヴは、パチン!と両手を合わせ、ピュアを驚かせた。
「!?どうしたの、イヴさん?急に手を叩いたりなんかして?」
「あっ!ごめんなさい、ピュアさん!良いことを思いついたもので、つい。少し待っていてくださいね!」
パタパタパタ……と小走り気味に部屋を出たイヴを見て、首をかしげたピュアは、部屋の外から聞こえてきたミグシスの叫び声に目を丸くさせた。
『ギャー!イヴー!どうしたの?何があったの?急いで行きたいなら俺が抱きかかえるから、イヴは走っちゃ駄目だよ!待って!えっ?逃げるって、どういうこと?イヴ、待ってー!』
『ごめんね、ミグシス!直ぐに戻るから待っていてねー!』
『えっ?嫌だ、俺も一緒に行く!』
二人が隣室に向かうのと入れ替わりでピュアの部屋にジェレミーが入ってきた。
「ピュア、一体何があったのですか?イヴ様が慌てて部屋を出ていきましたよ。それに抱きとめようとしたミグシスさんの両腕からイヴ様がスルリと身を躱したものだから、ミグシスさんまで慌てて追いかけられて……。いや〜、普段はおっとりしているイヴ様が、あんなに素早く動けるなんて私は知りませんでした」
「それがイヴさんは何か、良い思いつきをしたと言って、そのまま出ていってしまったものですから、私も何が何だか……。それとイヴさんは幼き頃より護身術を嗜んでいたのだそうですが、自身の運動能力が全く体術や剣術に適していなかったそうで、なので誰かに捕まりそうなときの咄嗟の瞬発力だけは誰よりも早く動けようにとセデス先生がイヴさんを仕込んだのだそうよ」
「へぇ〜、そうなんですね。……あっ、足音が近づいてきた。ミグシスさんが足音を立てるなんて、よほど慌てているのでしょうね。フフ……笑っちゃいけないけれど、結婚してから更にイヴ様大好きになっていますよね、ミグシスさんは。学院生達に黒魔王と怖れられている彼がイヴ様の前だと、途端に待てが出来ない駄犬……ゴホンゴホン、イヴ様の愛を熱心に請い続ける黒狼になるのですから」
5分後、頬を紅潮させて得意満面の笑みのイヴと、悲壮な顔つきのミグシスが一緒に部屋に入ってきたので、ピュアとジェレミーは訳も分からず、顔を引きつらせ、戸惑いの表情となった。
「お待たせしました、ピュアさん、これを「うっ、うっ……、いくらピュアさんのために良い思いつきをしたからって、俺の腕をすり抜けて行くことないじゃないか。俺、すごく悲しくなっちゃったんだよ、イヴ。それに妊娠しているんだから、そんなに激しく動いちゃ駄目だよ。イヴとお腹の子に何かあったら、どうするの?」」
ピュアに何かを渡そうとするイヴを後ろから抱きしめて、ミグシスが悲しそうな声でイヴに言った。イヴはミグシスの腕から身を躱したことを多少は悪かったと思っていたので、申し訳無さそうな表情で、後ろにいるミグシスを振り返り見つつ謝った。
「ごめんなさいね、ミグシス。一刻も早く、ピュアさんにこれを渡したかったから、つい……。それに妊娠してからというもの、私が歩きたいと言ってもミグシスは私の言うことを聞かずに、私をいつも抱きかかえて移動するようになっちゃったでしょう?あのね、妊娠しているからって運動しないのは、返って体に良くないのよ。ミグシスは私や、私のお腹にいる私達の子が病気になってもいいの?」
イブがそう言うとミグシスはイヴを抱きしめる力を強めて言った。
「それは嫌だ!」
イヴはミグシスの腕の中を身じろぎし、ミグシスの正面を向くと、自らもミグシスの体にキュッと身を寄せた。
「なら、これからは私が自分で歩くのを止めないでね。心配なら横で手をつないで一緒に歩いて。ね、ミグシス?」
「うん、ごめんよ、イヴ!俺、これからはイヴが体調がいいときは歩くのを止めないから、俺からも逃げないでね、イヴ!」
「ミグシスがわかってくれて、とても嬉しいわ!私もさっきは逃げてごめんね。ミグシスを悲しい気持ちにさせたお詫びに後でいっぱい、い〜っぱいギュッとしてあげるね!」
「わぁ、イヴ!ホントに?いっぱいいっぱいギュッとして、キスもいっぱいしていいなんて、俺すっごく嬉しいよ、イヴ!じゃ、今直ぐに部屋に帰ろう!」
「え?キス?……キャッ!だから直ぐに抱きかかえちゃ駄目って言ったのに!ミグシス離して〜!」
ミグシスはイヴを抱きかかえて、自室へと向かっていき、ミグシスに抱きかかえられたイヴが再び、ピュアの元に戻ってきたのは、それから小一時間後のことだった。グデングデンに体中の力が抜けた状態でミグシスに横抱きされたイヴと、真っ赤な顔のイヴに叱られて眉をシュンと下げながらも、ピッカピカに肌艶が良くなっているミグシスを見比べて、ピュアとジェレミーは乾いた笑い声しか出せなかった。




