アンジュリーナと仮面の騎士(前編)
「君がナィールと知り合いだったなんて驚いたよ」
イミルグランは馬車の中でイヴリンに家族はこれからも一緒だと伝えた後、自分の腕の中で泣いているアンジュリーナに、ポツンと言葉をもらした。その言葉を聞いたアンジュリーナはパッと顔を上げて、真剣な表情で言った。
「わ、わた、私、親戚の皆様が言っていたようなふしだらなことは一切しておりませんわ!恋人や愛人なんて作ったこともないですし!私にはあなただけです!だからナ、ナィールさんと私はだ、旦那様が心配するような事は何もしてません!」
イミルグランは、再び涙がこみ上げてくるアンジュリーナの頭を引き寄せ、その燃えるような紅い髪に口づけを落とすと彼女を安心させるように、その頭を撫でた。
「ああ、君もナィールも私を裏切ることはないとわかっているから安心しなさい。ただ、驚いただけなんだ」
アンジュリーナはイミルグランからの抱擁も髪への口づけも初めてだったから、目を丸くし、固まり、次の瞬間には、その愛情表現に頬を褒めつつも非常に戸惑った表情となった。
「あ、あの!こ……こんな時になんですが、旦那様?わ、私と結婚する前も結婚している間も、そ、そ、そのテのお店にも行かれなかったですし、……こ、恋人も愛人の方もいらっしゃらなかったけど、あ、あの……、もしかして私が……し、初夜で言ったことを真に受けて、その……、あ、あそこに、あ、あの、そ、そのテのお店とかに行かれたのでしょうか?
こ、このような触れあいは初めてで、その、すごく嬉しいのですが、随分自然な流れるような動作が、そ、その、手慣れているような感じがするのですが?あ、あの嫌じゃないんです!じ、自分で旦那様にその、行けと怒鳴ってしまいましたし……。自分で言っちゃっいましたし……。
……し、仕方ないですよね、い、今更、それが嫌だなんて、どの口で言うのかって、話ですよね!わ、わかっているんです!旦那様も男性だから!わ、私がそもそも悪いんだし!あっ、……そ、それとも、り、離縁してから……こ、恋人でも出来たのですか?それとも、す、好きな人が?」
勝ち気そうな眉はすっかり下がり、猫のようなつり目も潤みきったアンジュリーナは唇を振るわせて、怯えたようにイミルグランを見上げた。イミルグランは一瞬何の話かと思い、首をかしげ……次の瞬間、苦笑をした。
「まさか。詳しいことは二人っきりの時に話すけれど、私にとって君以外は考えられない。君は私の唯一の妻だよ、アンジュリーナ。……あの時は私の勉強不足で、君に辛い思いをさせてすまなかった。ずっと謝りたかった。君に嫌いだと告げられることが怖くて、君を避けるようなことをしてしまった。私は臆病者だった。すまなかった。」
「そんな!私こそ、旦那様を怖がらせてしまって!あんなにも優しくしてくださった旦那様を沢山傷つけてしまいましたわ!!ごめんなさい!私も旦那様に嫌いと言われるのが怖くて、ずっと外に出かけてばかりだったんです!私が言ったこと、忘れて下さい!わ、私も旦那様だけが、私の唯一の夫ですわ!イミルグラン様だけです!!だ、だから……あの、あの!あの……そういうお店も行かないでください。恋人も愛人も作っちゃ……嫌です」
涙をこぼしながらすがるアンジュリーナに愛しさを強く感じたイミルグランは、つい子ども達の目の前だというのにアンジュリーナを熱く抱擁し、新婚初夜以来の4年ぶりの口付けをしてしまった。空気を読むミグシリアスの手によって、両目を隠されたイヴリンと、自らまぶたを閉じるミグシリアスに申し訳ないと思いつつ、2人の子どもの前で夫婦の愛が確認し合えたことをイミルグランとアンジュリーナは幸せだと思った。
馬車が小休憩で止まったときには、すっかり逆上せきったアンジュリーナは、木陰でイミルグランの膝の上に大人しく座りながら、ナィールとの最初の出会いの時の話を始めた。
それは、アンジュリーナが結婚する以前のこと……。アンジュリーナの同じ年の姪であるルナーベルが、アンジュリーナの一番上の兄であり、ルナーベルの父親であるルヤーズの奸計で、未成年なのに仮面舞踏会に出てしまったのをアンジュリーナが助けに行ったときの話だった……。
「ああいうのは『出物腫れ物所嫌わず』と言って、本人の意志でどうにかなるものでもないのは百も承知なのに、それを指摘して嘲笑うなんて片腹痛いわ!男なら女性のお腹の音や、おならの一つや二つ、ニッコリ笑顔で聞かなかったことにするのが最低限の男としての常識でしょうが!!ね!ルナーベル!あんな度量の狭い坊や達の言うことなんか捨て置きなさい!」
その日の茶会でお腹の音が大音量で鳴ってしまい、茶会に出席していた少年達に笑われて泣いてしまったルナーベルをアンジュリーナは、こう言って慰めた。泣いていたルナーベルはクリクリとしたバイオレットの瞳をパチクリとさせた。
「デモノハレモノ?それって何のことなの?アンジュリーナ」
「えっとね……、出物腫れ物って言うのは、何と言ったらいいかしら?え~と、おならやゲップやニキビとかっていうもののことなんだけど……そう、お腹の音なんて誰でも鳴るんだから、嘲笑うよりも笑顔で受け入れろって、私は言いたかったのよ!
お腹の音を天使の笑い声ですね、可愛い!とか、おならも天使の薔薇の吐息ですねって、サラッと言えちゃう男を彼等は目指すべきって話なの!!それが言えない男は、まだまだ未熟者だってことよ!だから元気を出してね、ルナーベル!!」
「……うん、いつもありがとう、アンジュリーナ」
「当然よ、あなたは私の姪なんだから!!」
神様の子ども時代から、まるで姉妹のように育てられた二人は侯爵令嬢になっても、いつも一緒に行動していた。アンジュリーナは外見は美少女だったが、中身は少しも女らしくはない性格で、強気をくじき弱気を助けるガキ大将気質だった。
侯爵令嬢として、5才から社交の場に出てからというものルナーベルが笑われたり、いじめられるたびにアンジュリーナは直ぐに駆けつけて、その相手に鉄拳を繰り出すものだから、侯爵夫妻は苦笑して、いつも、その後処理をしていた。そんなアンジュリーナを、いつも叱るのはルナーベルの父親で、アンジュリーナの一番上の兄のルヤーズだった。
「父上はアンジュリーナに甘すぎます!いくら再婚で出来た娘で、孫と同じ年だからと言って、令嬢が令息を殴り飛ばすのを笑って許すなんてありえません!確かに侯爵家は上級貴族ですが、物事には限度というものがあるんですよ!婚約者のシーノン公爵が寛容だからって、慎みがなさ過ぎる!こんなに粗暴では、いつか婚約破棄されてしまいますよ!
そして、アンジュリーナ!お前が私の娘を守ってくれるのは兄としては嬉しいが、お前も侯爵令嬢なのだから、ああいうときは家に戻って私に一言、言ってくれるだけでいいんだ!そうすれば彼等は私達よりも下位の貴族なんだからどうすることだって出来るのに!お前が殴ってしまっては、彼等を処罰することが出来ないでは無いか!」
「子ども同士の悪口なんかで家ごと処罰なんて大げさすぎますわ、ルヤーズお兄様!だから私の正義の鉄拳ですませていますのよ!」
「アンジュリーナ!!」
毎回、父に掛け合うが話にならず、勝ち気な妹と一通りの兄妹の喧嘩が終わると、ルヤーズは自身の娘に、いつもの長い説教を始める。
「ルナーベル!お前は貴族の自覚がないのか!お前は仮にも淑女なんだろう!気合いを入れろ!そんなだから、いつまで経っても、お前の婚約が決まらないんだぞ!腹の音を鳴らないようにしろ!おならもやめるんだ!そんなことはいつまでも許さないぞ!」
「……お父様、どう許さなかったら、お腹の音を止められますの?そんなことが出来るのなら、私はとっくに、お腹なんて治っているはずだと思うのですが?それにお父様には弟が二人いて、彼等にはそれぞれ二人ずつ息子がいるんだから侯爵家の跡取りには困らないでしょう?私を修道院に入れたらいいだけなんだから、そんなに怒らなくってもいいじゃありませんか」
眉毛をしゅんとさせて、小さな声でそう反論するルナーベルは、アンジュリーナと姪と叔母の関係だったが、2人は同じ年で髪の色も同じ紅い色だった。瞳の色の違いさえなければ、双子と見間違えられるほど、顔だけは似ていた。
だがアンジュリーナは、社交界の紅薔薇と呼ばれるのに、ルナーベルは、社交界の鳴き腹と呼ばれるほど、彼女は社交界では弱者で、常に嘲笑の対象だった。
と言うのもルナーベルは神様の子ども時代から、よく腹痛を起こす子どもで、成長してもお腹の音が所構わず茶会だろうがパーティーだろうがどこでも、四六時中グルグルキュルキュルと大音量でお腹が鳴る女の子だったからだ。
医師に診てもらっても、熱もないのに腹痛なんてありえないから、これは気のせい、もしくは仮病と言われて、腹の音は単に意地汚いお腹だから腹が空いているだけだろうと笑われた。
ルナーベルを心配して傍についていたアンジュリーナは、医師にそれを言われたときのルナーベルの泣き顔が忘れられない。
『嘘つきじゃないもん、お腹なんて減っていないもん』
と泣きながら言ったルナーベルに対し、さらにそれを笑った大人達に絶望したルナーベルは、それからすっかり性格も内向的になってしまった。
「口答えするな!お前がいつまでもそうだから、未だに婚約者が出来ないでは無いか!このままでは行き遅れになるぞ!アンジュリーナよりも良縁をお前は掴まなきゃいけないんだぞ!しっかりしろ!」
『アンジュリーナよりも良縁を』
この言葉は、ルヤーズの口癖となっていた。ルヤーズは何としてもルナーベルに、シーノン公爵よりも優れた婚約者を宛がいたくて躍起になっていたのだ。
※親子の触れあいを知らずに育ったイミルグランは、自分が好意を持ってもどう相手に伝えれば良いのか、その術を知らないまま大人になりましたが、全力の好意を寄せて何度も抱きついてくるイヴリンとの親子の触れあいを不器用ながらも喜んで重ねるうちに、自然と誰かを撫でたり、手を繋いだり、抱き寄せるといった親子の情による触れあいを経験したことで、自分の内から溢れる愛情を、その相手に言葉や身体を使って触れ合うことで伝えるという人間らしい係わりが出来るようになりました。だから、ようやく4年がかりで、愛する気持ちのまま、妻に触れたのですが、アンジュリーナに手慣れていると誤解されてしまいました。




