真夏の日の夕べ~三日目の食事会⑥
グランはカロンのすり下ろした林檎を二つの茶碗に分け入れて、一方の茶碗にだけ小瓶の中の液体を一、二滴入れて、スプーンでグルリとかき混ぜた。すると液体を入れた方の茶碗に入った林檎のすり下ろしは変色することもなく、白いままの色を保ち、林檎の香りとは違う爽やかな甘い香りが茶碗から立ち上ってきたのでカロンは驚いた。グランはカロンの驚き顔を見て、嬉しそうに顔を綻ばせると、自慢げに言った。
「どうですか、これ!素晴らしいとは思いませんか!実はこれ、イヴが作ったエルダーフラワーのシロップなんですよ!これにはレモンの果汁も入っていましてね、レモンも塩水と同じように林檎の変色を防ぐ効果があるんです!しかもエルダーフラワーはマスカットのような甘い芳香がしますから、林檎の青臭さも、あっという間に消してしまうんですよ。モグモグ……うん、味付けも最高です!ああ、すみません、立ったまま食べるなんて行儀が悪いことをしてしまいましたね。まぁ、ここにはあなたと私しかいないし、無礼講と言うことで大目に見て下さいね。それにつけても、本当にすごいと思いませんか、カロンさん!私の娘のイヴは可愛くて優しい上に、お料理上手で、しかも天才なんですよ!」
カロンは確かに林檎の変色を防ぐエルダーフラワーのシロップにも驚いたが、それよりも学院生時代の時にも、城にいた時にも、聞いたことがなかったグランの明るい声の方に驚き、彼の手放しの褒め言葉に驚きすぎて、目を何度もパチクリとさせた。
「昔の君は物静かな印象だったけど、君の素って、そんな感じだったんだねぇ……。見た目は銀色の妖精なのに、中身は娘大好きな普通のお父さんだったんだね、君……フフフ、アハハハハ!!ああ、面白い!ありのままの君が見られて、ホント良かったよ!……ねぇ、それさ。その、イヴちゃんの作ったエルダーフラワーのシロップをさ、私のにも入れてくれないかな?私も食べてみたいなぁ……」
グランはカロンの発言に驚きの表情を浮かべ、怪訝そうな面持ちでカロンを見た。
「それは構いませんが……大丈夫なんですか、カロンさん?あなたは他人が作った物が食べられないし、嘔吐してしまうでしょう?……あなたの事情はよく把握していますが、私は愛娘の作った物を食して嘔吐されたら、相手が誰だろうと父として、ぶっ飛ばしますよ……な~んてね、冗談ですよ、冗談」
グランの言葉にドン引きの表情を浮かべつつ、カロンは言い返した。
「何が、な~んてね……だよ!お前、目つきが本気だったぞ!イミルグランの冗談は洒落になんない位、すっごく怖いって、初めて知ったよ、私は!!……大丈夫だよ、イミルグラン。ちゃんと食べられるよ。だって君が私のために毒味をしてくれているのに、食べないわけがないだろう?馬を貸してくれるんだよね?それなら時間もあるし、席に座って君と一緒に……食べるよ」
カロンはそう言って席に座り、自分の茶碗に自分で小瓶の液体を一、二滴入れてスプーンで混ぜた。グランはカロンの前の席に座り、それを優しい表情で見守っている。カロンはスプーンで林檎のすり下ろしを掬い、それを見た。
「ああ、すごく美味しそうな色!それに……すごく良い香りがするよ!……あっ!お腹がグルグルと鳴り出した!……これってさ、もしかしてお腹が食べたいって言っているんだよね?ね、イミルグラン?」
「そうですよ、カロンさん。お腹が鳴るのは生きている証拠だと昔、ユイが教えてくれました」
ユイが言っていたと聞き、カロンはピクッと体が揺れて、今はもう姿を見ることが出来ない、彼女の笑顔を思い出しながら、スプーンのすり下ろしを口に入れた。
「そっか~、生きている証拠かぁ~。……ああっ、本当に美味しいね、これ!フフフ……、そういや私、物心ついてから今まで、どんな食べ物も美味しいと思ったことなかったんだった!そうか、この感じが美味しいってことなんだね!ああ、食べ物を美味しいって思えるって、幸せなことなんだね、イミルグラン!」
「……そうですね、カロンさん」
カロンは爽やかな甘い匂いも、口に入れた時の林檎とエルダーフラワーシロップが合わさった甘酸っぱい味も気に入り、林檎のすり下ろしのお代わりを欲した。四つ切りした林檎は、後3つ残っていたが、それらもカロンはグランに指導されながら自分ですり下ろし、今度はシロップを小さじ一、二杯入れて、それも全て平らげた。カロンは久しぶりの食事にお腹が重くなったように感じながらも、その満足感を喜んだ。
(うん……大丈夫だ。喉につかえるような違和感も感じなかったし、嫌悪感もまるでない。これなら嘔吐もしないから、グランを悲しませなくて済むね。……ああ、良かった~!イヴちゃんのシロップを食べて嘔吐しなくて、ホントに良かったよ!)
そう思いながらカロンは今は何時だろうと思い、時計を見れば、あれから20分以上立っていた。カロンは部屋の備え付けの流し台で食器を洗っているグランに向けて、少し大きめの声を掛けた。
「そう言えば、イミルグラン。そろそろ食事会に戻らなくていいのかい?」
流れる水の音と共に、グランの少し大きめの声が返ってきた。
「ああ、大丈夫です、あそこにはアンジュがいますから。……何でもアンジュは前世では、イヴの結婚式に出席出来なかったことが心残りだったとかで、昨日から泣きっぱなしで今日の食事会を楽しみにしていたんですよ」
「?え?……出席出来なかったって?そう言ってるの、彼?……あれ?そんなはずはないんだけど? 」
カロンはアンジュの言っていたという言葉に首を傾げる。
(?あれ?……アンジュリーナは何か、記憶違いをしているのかなぁ?)
カロンはその事について詳しく聞こうと思い、グランの元に行くために席を立とうとして……立つことが出来なかった。クラリと目が回るような酩酊感を感じると同時に抗うことが出来ない、強力な睡魔に襲われ始めたからだ。
「……な、何?……これは何?まさか……イミルグラン?まさか……」
目を半分も開けていられないような状態のカロンの前に手布で手を拭いながら、グランが近づいてくる。
「効いてきたようですね。カロン様」
「……イミルグラン、君……?」
グランはテーブルの小瓶を持ち上げ、カロンの前に突きつけると、中の液体を軽く揺らした。
「あなたが本当にお人好しで助かりましたよ。へディック国の王の次に身分が高いシーノン公爵家の者が……本当に裏表がない、嘘がつけない人間だと思い込むなんて……」
「え?」
狼狽えたカロンの前にいるグランの顔には、僕イベのシーノン公爵そのものの冷酷そうな笑みが浮かんでいた。
「貴族の中の貴族、由緒正しき上級貴族であるシーノン公爵家の私が、腹芸が出来ないなどと本気で信じてしまった、あなたの負けですよ、カロン様」
「そんな、嘘だろ……イミ……ルグ……」
カロンはグランの名前を最後まで言うことが出来ず、座ったままの体がグラリと横に倒れ、倒れるカロンの上体を支えたのは……セデスだった。
「お見事でした、グラン様」
グランは黙ったまま頷いた後、倒れているカロンに向かって言った。
「カロン様。”真実の眼”を失ったあなたが知らない真実があるんですよ。あなたは私がイヴの結婚祝いの食事会に出ている隙に一人でここを出ようと思っていたようですが……すでに私達は祝いの食事会は、4月にもう済ませているんです。……アンジュがね、結婚式の二次会に出るのは若者だけで、保護者が出るのは野暮だっていうものですから挨拶だけ済ませて、先にここであなたが来るのを待っていたんですよ。そしてね、私はシーノン公爵になる前に、セデスに……”影の一族”の長に弟子入りをしていましてね。心を隠すことも腹芸も、本当はとても上手なんですよ。ただ今までは片頭痛で出来なかっただけで……」
グランはセデスが用意していた金髪の髢を手にし微笑んだ後、天井に向かって言った。
「ナィール、聞いていたのだろう?」
音もなく、天井の端が開き、そこからシュッと降り立ったナィールは頭を掻きながら言った。
「ああ、聞いてた。シュリマンさんの父親が見つけたへディック国の始祖王の手記に書かれてたことが本当だったってことだよな。未だに信じがたいことだが、どうやら本当だったんだってわかったよ。……ホントさ、不敬なことだろうが俺は今直ぐにでも、神ってヤツをぶっ飛ばしてやりたいぜ!」
ナィールが、そう言うとセデスが笑った。
「ハハハ、じゃ、今から一緒に行きましょうか、ナィール。私の手の者達の7月最初の週の報告では、金の神はカロン王のふりをして、学院の卒業式をカロン王の誕生日パーティーと兼ねて学院で行うという、触れを出して、その日に全ての貴族達の出席を命じていたそうですからね。上手く行けば諸悪の根げ……ゴホンゴホン、神に会えるかもしれませんよ。
グラン様、外に8頭立ての馬車を何台か用意しております。イヴ様には私達の不在の理由を今、アンジュ様達が説明されているはずですし、後の事は全て私の手の者達にお任せ下さい」
「うん、わかった。ありがとう、セデス。じゃ、最初の予定通りに午後1時に出発する。ナィールもルナーベル様に、しばらくの留守の挨拶をしておいで」
グランがそう言うとナィールは真っ赤になって、たじろいだ。
「っ!?なっ!べ、別に俺は!そんな!」
「そんなに焦らなくったっていいよ、ナィール。昨夜、やっと想いを交わし合ったんだろう?また彼女に寂しい思いをさせてしまうんだから、しっかり待っててねって言っとかなきゃ、ね!」
「俺の弟も言ってたけど、お前……ホント見た目と中身が違いすぎるよなぁ。ハァ~、ったく、わかったよ、ちゃんと言ってくるよ」
ハァ~とため息を大げさについた後、ナィールは倒れているカロンの頭をそっと撫でた。
「お疲れさん、カロン。お前、すっごく頑張ってたんだな。後の事は……兄ちゃん達に任せとけ」
”僕のイベリスをもう一度”という乙女ゲームでは、主人公の少女が攻略者の誰かと結ばれ、ハッピーエンドを迎えると、悪役令嬢は卒業パーティーの後に、白亜の公爵邸の自室で倒れているのを発見され、帰らぬ人になった……という、文章がゲーム画面で綴られるが、その描写の画像はなく、悪役令嬢の死因については何も触れられていない。
イヴ達の前世の僕イベのファン情報サイトでは、悪役令嬢の生死について何度となく熱い討論が交わされている。病死なのか自死なのか、事故死なのか他殺なのかとそれぞれが仮説を立てて話し合ったが、制作会社は沈黙を貫き……例のアイドル声優に至っては「わかんな~い」の一点張りで要領を得ず、悪役令嬢のファン達は、彼女は実は生きていて、他国で幸せに暮らしているという生存説を打ち立て、それに関する同人誌まで何冊か作る者がいたが詳細はわからないままだった。
そして……現実の世界である、バーケックの学院の白亜の建物内では、真夏の日の夕べの三日目にカロンという人間が倒れたが、学院生達は彼が倒れたことを誰も気付かず、また、その後、イヴのいる学院には、カロンという人物が訪れることは……二度となかった。




