真夏の日の夕べ~三日目の食事会⑤
「ああ!やっと言えたよ。これでもう思い残すことは何もないよ!ごめんね、イミルグラン。話の途中なんだろうけど、本当に私は、もう国に戻らないといけないんだよ。だから、ここで別れの挨拶をさせてくれないかな?」
スッキリとした表情でそう言ったカロンに、イミルグランは眉間の皺を深くさせて睨み付けた。
「言うだけ言って、逃げる気ですか、カロン様」
「え?」
イミルグランは睨んだ表情を緩め、穏やかな笑顔をカロンに見せて言った。
「私を……ユイを好きになってくれて本当にありがとうございました、カロン様。きっとユイはあなたの気持ちに答えられなくとも、あなたの好意を嬉しく思うだろう……と私は思います。そして……私と友人になりたいと思って貰えて、私はとても嬉しく思いましたよ、カロン様」
カロンはイミルグランの言葉に目を丸くさせた後、クシャッと顔を歪め、ボロボロと大粒の涙を流し始めた。そして嬉しさの余り、あふれ出てしまった涙を乱暴に手の甲で拭ったカロンは顔を赤くさせたまま言った。
「フフフ、君ってホント……、優しすぎるよね。君を殺しかけた私に、そんなことが言えるなんてさ」
「あなたはご自分が悪いと、おっしゃいますが、私はあなたは少しも悪くないと思います」
「そんなことないよ……。だって私は愚王だもの……」
「あなたは生まれた時から回りに誰も味方がいなかった。自分を偽り、愚者を演じねば生きていけなかった環境に生まれ育ったあなたが、傀儡になることを選んだのは致し方ない選択だったのだと、誰もが思うはずです。それに……全ての元凶は、あの神達のせいなのです。……ですから、もう悪役は辞退しませんか、カロン様?」
カロンはイミルグランの言葉を聞いて、自嘲気味に笑った。
「フフ……イミルグランの口から冗談が出てくるなんて思わなかったよ……」
「?私は冗談などは言っておりませんが?」
生真面目そうな返答をするイミルグランに、カロンはへディック国にいた頃に演じていた”カロン王”の軽薄そうな笑みの表情をわざと作り、同じように軽薄そうな口調で言った。
「ハハハ、それが冗談でないなら君は年を取って耄碌したってことなのかもな、イミルグラン!誰もが私を……”カロン王”を悪くないと思うと考えるなんて、どこまでお人好しなんだい?自分で言うのも何だけど、私は相当優秀な役者だったんだよ。私の唯一の武器である”真実の眼”を使い、子どものころから人の心を読んで、完璧な愚か者になりきっていたんだ。
私が悪くない証拠も証言も何一つ見つかるはずがない。私を傀儡にした祖父は、すでに亡くなっているし、私は長年に渡って悪政を行い、遊興に耽り、民を窮地に追いやり、悪人を城に集め、国を滅ぼしかけているんだ。それに……神が全ての元凶だと言ったところで、誰がそれを真実だと信じるっていうんだい?小さな子どもだって、そんなことは信じないさ!」
カロンは一旦、言葉を切ってから、元の穏やかな口調に戻して微笑んだ。
「……私は悪くないと君が知ってくれている。私は……それだけでいいよ、イミルグラン。それだけで私は……幸せだよ。そう言ってくれてありがとう、イミルグラン。嬉しいよ、ものすごく。でもね……、私は悪役を下りるつもりはないよ。あの国には復讐ゲームの残滓が……物語の最後の山場が残っている。それを終わらせないと、この世界はいつまで経っても神から解放されない。”僕達のイベリスをもう一度”の二つの物語とゲームを終わらせるのに”善きカロン王”が必要だったように、最後の三つ目の物語を完全に終わらせるためにも”カロン王”の存在が……悪い王族の存在が、どうしても必要だからね」
「……どうあっても、行くのですね?」
「うん、こんな情けない男だけどさ、これでも私は……へディック国の王様だからね。それが私に出来る、最初で最後の王の務めだから行かなきゃね。だからさ、もう出発させてくれないかな?8月の私の誕生日が、最後の山場になるはずなんだ。それまでに私は城に戻りたいんだよ」
カロンの言葉にイミルグランは頷いた。
「わかりました、カロン様」
「ありがとう、イミルグラン!……って、それ何?」
イミルグランの了承の言葉を聞き、ホッと安堵したカロンは、その一瞬の後、面食らったような声を上げた。何故ならばイミルグランは4つに切った林檎の一片とすり下ろし器をカロンの目の前に突き出したからだ。
「どうあっても行くというのであれば、これを食べてからにしてもらいます、カロン様。……さぁ、手を洗ってきて下さい!」
「へ?」
「うわっ、手が滑る!イミルグラン、手が痛いし、林檎って擦りにくいよ!うげっ!?ちょっと、こぼれちゃった!……ねぇねぇ、私、これでも王様だよ。何で林檎なんて擦らなきゃいけないの?……わかったよ、イミルグラン。わかった!やりますよ!やるから怒った顔するの止めてよ、イミルグラン!私は昔から、君の怒り顔がホント苦手なんだから!」
……あの後、カロンは有無を言わさず、イミルグランに洗面台に連れて行かれ、手洗いをさせられた後に、イミルグランの指導を受けながら林檎をすり下ろすように命じられた。カロンが泣き言を言いながら林檎を擦るのをイミルグランは腕組みしながら監督しつつ、平然と言い返した。
「うだうだ言ってないで、手を動かして下さい、カロンさん。あなたはここでは”カロン王”ではなく、役者のカロンで、私はあなたのかかりつけの医師のグランです。ナィールに聞きましたよ。あなた、旅の間も、ここに来てからも、まともに食べ物を食べていないそうじゃないですか。……確か学院生時代もあなたが何かを食べている姿を見た記憶が私にはないのですが……あの頃から、ずっと栄養剤の注射に頼っていたのではないですか?
顔を背けても無駄ですよ!あなたの左腕には尋常じゃない数の注射跡がありますが、右腕には一つもない。……ずっと自分で打ち続けていたんですよね、それって……。私はあなたのかかりつけ医です。まともに食事が出来ない者の外出許可を出すわけがないじゃないですか!」
イミルグラン……グランがそう言うとカロンは頬を膨らませて、ジト目で言った。
「イミルグランの嘘つき!さっき、わかったって言ったじゃないか!どうして私のお願いを聞いてくれないのさ!?間に合わなかったら、どうするのさ!」
「間に合わせますよ。いざとなったら馬を8頭でも12頭でも貸し出しますから、安心して自分で林檎をすり下ろして、それを自分で食べて下さい。……あなたは他人が調理した食べ物を受け付けないのでしょう?昨夜リングルがあなたの目の前で林檎のすり下ろしを作って出したというのに、あなたの胃はそれを受け付けずに嘔吐したと聞きましたよ。
長年、毒の入った食事を出され続けた恐怖から、あなたは他人が作った物を食べること自体を厭うようになっている。……ならば、あなた自身が調理するしかない。ああ、もし私が林檎を切り分けたことさえ怖いのなら、新しい林檎を持ってくることも出来ますが、どうしますか?」」
グランはそう言った後に、「新しい林檎を取ってきましょうか?」とカロンに尋ねたので、カロンはガックリと項垂れながら、それを断った。
「ひどいよ、イミルグラン。私が君を疑うわけないじゃないか!……ああっ、もう!君さ、年を取って、すごく意地悪な男になってない?もう、わかったよ、食べるよ!食べたらいいんだろ!ああ、でもさ、私、林檎のすり下ろしって嫌いなんだよね……。林檎って青臭いし、直ぐ腐っちゃうし!」
ブツブツと文句を言うカロンの言葉を聞いて、グランは首を傾げた。
「?直ぐ腐るとは、どういう意味でしょうか?」
「これだよ、これ!もう腐り始めてるよ!」
カロンは自分ですり下ろした林檎の入ったボウルをグランに見えるように傾けて、ガッカリした声で言った。
「ほら、もう茶色になりはじめて腐ってきてるだろ!イミルグランが切ったときは白かったのに、こんなに早く茶色に腐ってきた。せっかく君が私のために切ってくれたっていうのに、これじゃ、もう食べられないじゃないか……」
「……あの、カロンさん。それは腐っているのではないのですよ。それは変色しているだけなんです」
「?え?変色って、何?」
へディック国の貴族の食事は偏っており、野菜は元より果物さえ、一部例外を除き、あまり生食で食べることがないため、カロンは林檎の変色を腐敗しているのだと思い込んでいた。
「私もバッファーでライト様に教えられるまで知らなかったのですが、林檎の中にはポリフェノールと呼ばれる栄養素が入っていて、その栄養素は空気に触れると酸化してしまうから、林檎は茶色に変色してしまうそうです。確か紅茶が茶色なのも、その酸化が原因だともライト様は言っていましたね。変色を防ぐには、塩水につけたり……これを混ぜると色変わりは防ぐことが出来ますよ」
そう言ってグランは盆の隅に置いていた、無色透明な液体が入った小瓶をカロンに見せた。




