シーノン公爵家の最後の日(前編)
イミルグランの説明を聞いた、その日の夜、セデスは使用人用の食堂に使用人全員を集めた。セデスを入れて11名の使用人は、他の貴族の家の使用人の数よりも圧倒的に少ないと言える。執事1名、メイド3名、侍従2名、厨房2名、庭師と門番と馭者と馬の世話係を兼務する3名。たったこれだけしかいない。
しかも貴族の家の使用人の定年を超えて、家族もなく、行き場を無くした役立たずの厄介者の老人ばかりだと屋敷の外の者達には思われているが実は、……そうではない。夜も更けた頃、外に出ていた弁護士が戻って来た。
次の日、朝日も顔を出していない早朝。朝早く起こされたシーノン公爵親子は、すでに全てが揃えられているのに驚いた。荷物はどこにでもあるような、安くも高くもない旅行鞄に全てまとめられていて、屋敷中はどこもかしこも磨き上げられていた。着替えの服はいつもの絹の服ではない。平民の商人のような装いに身を包み、シーノン公爵の長い銀の髪も、貴族籍のない平民の男のように短く切られ、切った髪は桐箱に入れられ、弁護士に渡された。
イヴリンもイヴリンの腰のところまで伸ばしていた長い髪を、イヴリンの肩に当たるか当たらないかという長さにまで切られて、シーノン公爵の切られた髪と同じように弁護士が、それをもらい受けた。迅速に行動していたにも係わらず、二人の美しい銀髪を切る時にはマーサ達はため息をつき、涙ながらに切っていくのをイヴリンは不思議そうに見ていた。
全ての用意が整うと使用人達は全員シーノン公爵親子の前に並んだ。彼等は皆、旅装束に身を包んでいる。老人だったはずの彼らは、皆シャンと腰が伸びていて、イミルグランより5才から10才ほど年上の中高年の男女の姿となっていた。皆を代表し、一族の長であるセデスが一歩前に出て言った。
「イミルグラン様、全ての用意が整いました」
「ありがとう、セデス。皆もありがとう」
イミルグランの言葉にセデスは一礼をした。
「では今から、この者達には先に行ってもらい、旦那様達の旅を円滑に進めるための準備に取りかからせます」
「「「イミルグラン様、お先に失礼させていただきます」」」
セデスとマーサ以外の使用人9名は、それぞれ老人とは思えない動きで馬に飛び乗ると、まるでどこかの手練れでもあるかのような手綱捌きで颯爽と馬を飛ばして去って行った。彼らは万が一を考え、追っ手を巻きながら、彼の地に向かい、後で合流するのだとセデスはイミルグランに説明をした後、シーノン公爵の親友である弁護士は早口で説明をし出した。
「領地の引き継ぎ資料も決算報告も、一つの漏れもなく揃えられている。城の事務次官の仕事は、お前以外に7名もいるため、人手もいるし、引き継ぐ資料もいらない。
王の政の尻ぬぐいは、王自身がするべきだから、お前は城に行く必要は無い。お前が15の年からしている王の補佐及び、18の年から今に至るまでの王の代行業の報酬が未払いだったから、それらはすべて回収して、セデスに渡しているから、旅費うんぬんは何も心配はいらない。
公爵家としての、親戚等への財産分与の内訳などのあれこれは、一人ここに残るお前の顧問弁護士の俺の仕事だから、俺に全部を任せろ。弁護士の俺は貴族法学にも詳しいし、王にも貴族院にもお前を止められない方法にも熟知している。この家の事は俺に全部任せてくれ!」
と、シーノン公爵の親友である弁護士は、自分の胸をドンと叩いた。
「この国の国境の所に俺の知人がいて、あの国に橋渡ししてくれるんだ。詳しい行程はセデスに伝えてあるし、イミルグランもよく知っている、一番信用出来る人間に道案内も頼んでいる。もうすぐ来るから、何も心配いらない」
この家を出て行ってから、胡散臭い笑顔をするようになったイミルグランの乳兄弟は、その日、珍しく昔のような明るく爽やかな笑顔でイミルグランの前に立っていた。
仮面のない、その顔をしわくちゃにして、昔のように声を上げて笑い、旅立つ親子に別れの抱擁を求めた。イミルグランは相変わらずの不機嫌顔だが、目が潤んでいた。弁護士も照れくさそうに鼻をこすり、目を赤くさせている。二人は、乳兄弟の別れの挨拶と抱擁を済ませる。
ミグシリアスは今まで育ててくれた礼や、母親を看取って墓まで作ってくれた礼を、改めて弁護士に述べた。弁護士は、「幸せになれ」とたった一言だけ言った。ミグシリアスは弁護士に抱擁を求められ、……照れくさそうに抱きついたが、すぐ離れた。
最後に弁護士は、小さなイヴリンの目線に合うようにしゃがんで、その小さな手にキスを落とした。
「イヴリンちゃん、元気でね」
「私、これから修道院に行くの?父様とミグシリアスお義兄様は、そのお見送りについてきてくれるの?」
自分で言い出したこととはいえ、イヴリンはまだ4才の小さな子どもだ。寂しさをこらえる、その頭を弁護士は優しく撫でた後、イヴリンを抱き上げた。
「イヴリンちゃん、そうじゃないよ。イヴリンちゃんの父様は、娘のイヴリンちゃんが一番大好きで君のためなら、何だって出来るんだよ!詳しいことは、父様に馬車で聞いて!さようなら、イヴリンちゃん。父様とミグシリアスを頼んだよ!」
そう言った弁護士は、最後の言葉だけはイヴリンにしか聞こえない小声で囁くように言った。
「……それとありがとうね。イヴリンちゃんのおかげで俺は、親友を失わなくてすんだんだ」
「?さようなら、ナィールおじ様。ナィールおじ様も元気でね」
イヴリンの言葉に、ナィールだった弁護士は苦笑した。
「俺はナィールの名前を捨てて、カロンになったんだよ、イヴリンちゃん。でも、そうだな、もう君達に会うこともないだろうから、餞別にナィールの心だけは君達の傍にいさせて。君達だけは、ナィールを忘れないで」
「?はい!私はナィールおじ様を忘れませんわ」
イミルグランは、弁護士から娘を受け取った。
「……ならば、今ここで私達も名前を捨てよう。私達は貴族を辞める。お前の餞別はしかと受け取り、私が生きている限り、私の心にナィールは生きて、ずっと私の傍にいるだろう。その代わりに今ここで、お前が俺達に名前をくれ。そしてお前だけがイミルグランとイヴリンと、ミグシリアスを忘れないでくれ」
弁護士は突然の名付けの催促にあきれ顔になった。
「……お前って、案外欲張りだよなぁ。俺はお前の後処理全部やるんだぞ!まだ仕事させる気か?」
弁護士は嬉しさを照れ隠しするために、わざと作った恨めしげな顔を自分の親友に向けた。イミルグランは娘に眉間の皺を伸ばされながら笑った。
「そうさ!私は一番大事なモノのためなら、いっぱい欲張りになるのさ!さぁ、早く3つ、名前を考えろ!」
弁護士は仕方ないなぁと笑顔のまま、首をかしげ、目当ての人物を見つけ……破顔した。
「いきなりなんだから安直だって、怒るなよ!グラン、イヴ、ミグシス……そして、アンジュ!!」
イミルグランの後ろから、やってくる元・シーノン公爵夫人のアンジュリーナを指し、弁護士はイミルグランの背中を叩いた。
驚き、目を見張るイミルグランの目の前には、炎のように輝く紅い髪に、蠱惑的なオレンジ色の瞳が猫のような印象を与える小悪魔的な魅力を持つ、彼の……元妻だった女性がいた。
彼女は、別れる前の彼女がいつも着ていたような淑女のドレスではなく、全身オレンジの炎のような色の皮鎧に身を包んだ、武人のような勇ましい出で立ちで歩いてきたが、その瞳はいまにも大粒の涙がこぼれ落ちそうに潤んでいた。
戸惑うイミルグランとアンジュリーナとイヴリンとミグシリアスを馬車に詰め込んで、ナィールだった弁護士は、馭者を務めるセデスに出発を促した。
「さぁ、涙の再会は馬車の中でやりな!君達一家に幸あらんことを、ずっと祈ってる!さようなら!!」
「ありがとう、ナィール!お前の幸せも俺は彼の地で祈ってる!さよならだ!!」
ナィールだった男は馬車が見えなくなるまで、手を振った。
「さようなら、俺の名付け子!さようなら、俺の息子!さようなら、俺の……イミルグラン!俺の幸せに、お前達を巻き込まなくて本当に良かった……」