ナィールに起きた悲劇(後編)
今回王子の発言の中に女性に対する残酷な表現があります。
ご注意ください。
貴族に奉公に出た娘がお手つきとなって追い出されるという話は、市井ではよくある話だ。そして女を捨てるために夢物語を語るのは、屑な男によくある話だ。イライザは身請けされたことにも気づかないほど心が病み、ナィールが置いていったという短剣を見せびらかすようになった3日後、辻斬りにあって殺された。彼女の子どもが6才の時だった。
俺は弁護士資格を持っていたが、顔の傷を隠すための仮面で胡散臭く思われて、中々弁護士として信用してもらえなかった。だが若干21才で、正式にシーノン公爵を引き継いだイミルグランが、俺をシーノン公爵家の顧問弁護士に任命したことにより、それが俺の社会的地位を確立させ、俺の弁護士の仕事は軌道に乗っていった。
傷のある俺を堂々と自分の顧問弁護士だと紹介してくれる彼の顔を潰すわけにはいかないと真面目に仕事をこなせば、その仕事ぶりが評価され、他の貴族からも声がかかる。仕事で多くの貴族と知り合い、城の事情にも詳しくなった俺はイミルグランがカロン王に学院生時代から王子としての仕事を押しつけられていて、今では国の執政のほとんどをさせられていると知った。
カロン王は学院時代から勉強も剣術もしない、怠惰な人間だという噂が貴族の間ではあったが、民の間では執政能力が高く、賢王の才覚があると人気が高い王だった。その噂の二面性が結びつかないとは前々から不思議に思っていたのだが、その絡繰りを知れば、何の事も無い、小ずるい怠惰な貴族の考えつきそうなことだなとカロン王に対し唾を吐き捨てたくなったと同時に、俺は不憫なイミルグランの体調を心配した。
イミルグランは生真面目で頭は良いが、子どもの頃から頭に痛みを常に感じているらしく、それ故必要最低限の事以外には割と面倒臭がり屋な所があり、そこにつけ込まれたのだろうと思った。王の仕事だと突っぱねることは頭痛で抗う気力がないし、抗うことが面倒だと感じて、イミルグランは引き受けてしまったのだろう。しかもカロン王のお粗末な国策のままだと、民の暮らしが立ちゆかないと優しく賢いイミルグランはよく分かっているから、民のためにと生真面目な性格故に完璧にこなしてしまう。
イミルグランらしいが対価ももらっていないと知ったときは、思わず目眩がしてしまった。どうやらイミルグランは、少しお手伝いをしているだけという感覚で、その仕事の報酬を請求していなかったらしい。領地の収入ならば、領民の収益になるからと、きっちりと計算して、親戚達が領民の分までかすめ取らないように目を光らせるのに、城の給与は純粋に彼の収入になるからか、事務次官の一般給与で満足してしまっていた。
だけど誰がどう見ても、彼のやっていることは立派な王の代行であり、王よりも王らしい仕事を沢山こなしているのに、ただ働きなんてありえない!俺が傍仕えだったのなら、こんなことさせなかったのに!引き受けたとしても、対価はキチンと支払わせた!……と俺は悔しい気持ちでいっぱいになった。絶対いつか、対価は回収しようと心に決め、城の財務室や事務室に通い詰め、セデスにも彼の持ち帰りの仕事内容や時間などを調べてもらった。
こんなに真面目なイミルグランや真っ当な弁護士の仕事をしている俺なのだが、俺達を羨み僻んでいる奴らや、俺達のことをよく知らない奴らの噂は、本人達とは全く異なる内容だった。冷酷で腹黒く見える公爵の腹心の弁護士は周囲にただならぬ人物に見えるようで、傷を隠すための仮面でさらに、俺は胡散臭く見えたからか、真っ当な弁護士では出来ないような、胡散臭い依頼が舞い込むようにもなった。
俺には、イミルグランと俺に武芸を教えた師がいた。そして俺は大人になってから、その師に強請って、特別に教えてもらった、変装術と変声術があった。それらは俺の身を守るためにと、彼ら一族の秘伝を授けてくれたものだったので罪悪感はあったが、どうしても欲しい情報があったから、それらを活用することにした。
俺は胡散臭い依頼も淡々とこなし、次第に闇の世界にも顔が利くようになっていった。母の役割を終えた女性が病で亡くなったのを機に、闇の伝手を使い、貴族名簿から俺の名前も削除し、まるで元からナィールなんて人間は存在すらしていなかったように偽装し、普通の国民名簿にカロンと書き加えた。
彼女の子どもを、きちんと養子縁組しようかとも考えたが、ある疑惑が胸にあったので引き取らず、彼女の住んでいた歓楽街に、このまま彼を置いておくことにした。そして生きていく術を教えるついでに、ある目的から子どもに簡単な仕事をさせた。俺の予想が正しければ、彼も俺のような怪我を負う危険な立場にいるはずだ。この場所は子育てには不向きだが、彼の素性がばれる危険の少ない場所だったし、身を守る術を骨身に染みるくらい、彼に教え込む必要があった。
闇に足を突っ込んで、深みに嵌まれば、見えないものも見えるようになり、沢山の裏事情にも詳しくなった。俺は、ついに……欲しい情報を手に入れた。彼女の遺品の短剣の持ち主も、予想通りの人物だった。
『初体験?あれは16才のときだったかな。夏休みで、狐狩りに君達と行っただろう?あの時に雨が降ってきたから、田舎で雨宿りしたときに知り合った、頭がおかしい小間使いの女が相手だったよ。
私の事をナィールという自分を捨てて街に行った恋人と勘違いしてきてさ。ちょうど閨の講義を学んだ直後だったし、女を抱いてみたくって、たまらなかったから、ちょうどいいって思って、抱いてやったんだ。だから18才で娼館に行った君達よりも私の方が16才で経験したんだから、君達よりも早く男になったし、素人童貞の君達よりも優越感があったさ。……あの時、生真面目なイミルグランが体調不良で狐狩りを辞退していて…………本当に良かったよ』
『ああ、頭はおかしかったが、あっちの具合は最高だったさ。痛がって泣いたけど、ちょっと2、3回頬を叩いてやったら、大人しくなったんで、その後は思う存分、試したいこと全部やったんだ。……最後あの女が気絶しているのに気付いたときは、ちょっとだけ引いたがな。……どれだけ堪ってたんだ、自分!ってな。いやぁ、10代の性欲は恐ろしいよ。もちろん今でも私は、充分若いけどね』
『え?つまみ食いした女に婚姻を迫られているって!?君は馬鹿だなぁ……、女って生き物は、適当な悲劇の夢物語にすぐ騙されるんだから、君も嘘八百を並べて、捨ててくればよかったんだよ。そうだな、実は不治の病とか、お家騒動だとか、実は……自分は双子の片割れだとかさ?
え?嘘くさいって?ハハハ……、それがいいんだよ!現実とかけ離れているほど、馬鹿な女は引っかかるんだ。それっぽい小道具を渡してやれば、イチコロだぞ?女なんて単純な生き物だから簡単に信じるぞ』
闇に潜んで聞いたのは……俺と同じ顔をしていて、俺と同じ声を持つ悪魔の言葉だった。
闇の伝手で忍び込んだ王宮の中で悪魔が笑う。ミグシリアスが黒髪黒目なのも理由がわかった。この国の始祖王が黒髪黒目だったんだ。王の血には黒髪黒目になる可能性が入っていたんだ!なのに何故、黒髪黒目は忌避されるようになったのか?それは今在位しているカロン王の前の王……、つまり俺とカロンの父親であるナロンの策略だったのだ。
王には腹違いの弟がいた。正妃の子どもの金髪碧眼の兄と妾腹の子どもの黒髪黒目の弟。でも王としての能力も人柄も、弟の方が優れていたため、その当時の王である二人の父親が弟を後継者に選ぼうとしたが、正妃の実家が、それを拒否し、王が後継者を選ぶ前に王を暗殺して、兄を王に着かせた。
そして、黒髪黒目は魔性の者だと、噂を捏造して、黒髪黒目の可能性は、王族が持つという事実をねじ曲げて、魔性の者を産んだ側室や、その一族を処刑して、弟だけは前王の血を引いているからと、王位継承権の永遠の剥奪と国外追放をして、弟をこの国から追いやったのだ。
自分の父を殺し、優れた弟を追い出し、姿を変えて、大人しく生きていた自分の息子を殺そうとした前王ナロン。イミルグランに仕事を押しつけ、民を顧みず、遊興や爛れた遊びに耽け、俺のフリをして、彼女を騙し、犯し捨てただけでなく、その彼女を辻斬りに見せかけ殺したカロン王。
この国の城には……悪魔の親子が住んでいる。この城が赤いのは彼らによって苦しんだ者達の血が染みこんでいるからに違いない。
『ハハハ、……アハハハハ!』
貴族に奉公に出た娘が、お手つきとなって追い出されるという話は、市井ではよくある話。そして女を捨てるために夢物語を語るのは、屑な男によくある話。……お前等がそう来るなら、俺だって屑になってやるよ!!
俺は、ナィールという名前を捨てた。俺は、カロン!悪魔に魂を売った男に相応しい名前!カロン、お前が語った夢物語を現実にしてやるよ!そのためになら、何だってやってやる!彼女の忘れ形見にだって、母親の敵を取らせてやるし、そのためなら例え親友の命だって……!!
あの時の決意が、つい昨日の事のように頭に響くけれど……。俺は右手の中の、未だに顔につけていない仮面を見つめる。
「ありがとう、イヴリンちゃん。君のおかげで、ナィールは親友を失わないですむ……」
俺の中のナィールがむせび泣く。イミルグランはナィールの……俺の宝物だった。俺はイミルグランを親友としても、一生涯仕えたい主としても、一番慕っていたんだ。
……もしもイライザではなく、イミルグランがカロンに殺されていたとしても、俺は何も迷うことなく復讐を選び、悪魔になっていたと自信を持って言えるほど、彼は俺の心の大部分を占める、俺にとっては一番大事な人間だった。
そして彼も俺を親友と呼んで、とても慕ってくれていた。あの不機嫌顔の眉間の皺を指で伸ばし、不器用に笑う、優しいイミルグランに、これから悪魔になるナィールを……俺を……、俺は見られたくなかった。
だからこそ、彼に死んでもらおうと考えて……、でも俺の親友である彼に、痛い思いや辛い思いをさせたくなかったから、俺は絶対苦しまない方法を考えて、苦労して、あの大国に伝手を作って、あの薬を手に入れたけれど……。
イミルグランは娘のために、全てを捨てる。愛する者を守るために、全てを捨てる。恵まれた財産を……、特別な身分を……、国を……、そして俺を……イミルグランは捨てる。彼から俺を捨ててくれる……!
俺を捨てる彼は、悪魔になる俺を知ることはない。彼の心の中で俺は、ナィールのままでいることが出来る!……しかもナィールの夢だった、イミルグランの心からの願いを俺は、悪魔のカロンではなく……ナィールのままの自分で叶えられるのだ!俺は王宮から視線を真上の空に移して見上げた。イミルグランの瞳のように綺麗で清々しい青い空。空なんて見上げて見たことも久しくなかった……。
……早くミグシリアスから、あの薬を返してもらわなきゃ。丁度良いところに、俺が教えた通りに足音も気配も消して近寄ってくるミグシリアスに、俺は心の中で苦笑を漏らす。ああ、殺気も上手に消せるようになったのに……なぁ。お前をイミルグランのところにやって、まずかったかな?いや、そうではないか……。愛を知らないで育ったお前に愛を教えてくれたのは、彼等親子だろうから……。
お前が来たのは、愛する者を守るためだろう?愛する者を守るための情熱がお前から感じられる。愛を知ったお前は悪魔にはならないし……、悪魔には……なるな!!
息子よ、お前は俺等みたいになるな!愛を理解できない悪魔のあいつに、お前はなるな!愛を奪われて悪魔になった俺に、お前はなるな!