ナィールに起きた悲劇(中編)
今回女性によって語られる文面に残酷な表現が含まれています。
ご注意ください。
それまで俺はイミルグランの乳母の息子で、彼とは乳兄弟として何の疑いもなく生きてきた。母はシーノン公爵家に忠実に仕える乳母だった。『お坊ちゃまが第一です!』と言うのが母の口癖で、主人より目立ってはいけないと、金髪だった俺の髪を茶色に染めて、俺にも常に陰に控えていなさいと、常日頃から言い含めていた。俺は母の息子なのに母は俺よりもイミルグランが大事なのかと思い、小さい頃の俺は母が大事に扱うイミルグランを良くは思っていなかった。
イミルグランは銀色の月の光を糸にして編んだみたいな美しい銀髪で青空のような瞳の大層美しい男の子で、教会の壁面の天使によく似ているといわれるほどの美貌の持ち主だった。だが彼は子どもの頃から不機嫌顔の子どもで、彼の美しい顔が笑顔になることは少なかったので、周囲の人間をがっかりさせていた。そのことで俺の母が、乳母としての教育が悪いのではないかとイミルグランの両親から叱責を受けたが、彼等から母をかばってくれたのはイミルグランだった。
『私が笑わないのは、私が病気でもないのに体が常に不調だと感じているからです。体の不調で気分が優れないのに、ヘラヘラと笑っていられません。私が笑わないのは私のせいで、乳母のせいではないのだから叱るのは止めて下さい!』
小さなあいつの手が、俺の大事な母を守ってくれた。それから俺はあいつを嫌うのを止めた。
イミルグランは性格は温厚で生真面目で賢いのに、常時体に不調を感じている不憫な男に成長した。だから健康な体を持っていて、何事も器用に出来る俺が彼の傍について、近い将来公爵になる彼を支えてやろうと決めた。母は田舎の没落子爵家の未亡人だというので、彼と同じ年の俺は彼と同じ学院の入学を望んで、彼もそれを望んだが、何故か母は俺を断固として学院に行かせようとしなかった。
陰に控えろの一点張りの母親に反抗期の荒れた口調で、貴族であれば誰でも入学できるはず!と俺は、啖呵を切った。例え彼が上級貴族で自分が下級貴族だから校舎や宿舎が別れても構わない!と強引に試験を受けて入学が決まって、入寮が決まったからと自分の荷物を置きに行った俺は、その日に学院の中で暴漢に襲われた。
体には無数の切り傷、顔には一生残る大きな傷を負った俺は、俺よりも体の具合が悪いんじゃないかってくらいに、血の気が失われた悲壮な顔つきのイミルグランによりシーノン公爵邸に戻されて、イミルグランが集めた医師達の懸命な治療により何とか一命を取り留めた。
イミルグランが学院側に責任を追及し、犯人捜しや俺に対する慰謝料等を請求し、学院側は犯人捜しに全力を尽くすことを約束し、俺の治療費等を全額支払ってくれたが、怪我をした俺の入学は取り消しとなっていた。俺を心配して、イミルグランが中々学院に戻ろうとしないので、お前まで入学が取り消しになるぞ!とベッドの中で彼を叱咤激励し、何とか無理矢理、彼を入学式に行かせ、やっと行かせることが出来たと俺は怪我による熱に浮かされつつ、安堵した。
一人、部屋に残った俺は、怪我の痛みに呻きながら襲われたのがイミルグランではなくて良かったと思い、彼と一緒に学院に入学出来ない事を残念に思っていた。入学式を終えて、俺の見舞いをするために家に帰ってきたイミルグランは真っ青な顔で、俺にこう言った。
「ナィール……、お前はカロン殿下に間違われて襲われたのかもしれない!」
イミルグランは入学式の前に上級貴族達の使うトイレで、金髪のナィールがいて驚いたというのだ。
何故俺が、こんな所に?……と思うよりも先に慌てて俺の手を引こうとしたイミルグランの前に、多くの護衛官が立ちふさがった。イミルグランが俺だと思いこんだ男は……何とへディック国の第一王子であるカロン王子殿下だったのだ。王子という者は命を狙われやすいから、今まで公の場には出てこなかったが、王子が15才になったので、他の貴族のように学院に入学することになったらしい。
『お前は茶髪だが顔は王子殿下に瓜二つだし、王子殿下が入学式で壇上に上がって挨拶したのだが、その声までお前とそっくりだったから、私はとても驚いたんだ……』
と、話をするイミルグランに母は、まるで何かに怯えるようにして、犯人捜しを続けようとしたイミルグランを引き留めて、負傷した俺を田舎で療養させるからとシーノン公爵家の乳母を辞職した。そして田舎で、俺の母……、母だと思っていた女性から俺は、……俺の真実を聞いた。彼女は王妃の侍女で、俺の乳母だったと話し出した。
……15年前、王妃は双子の男の子を出産した。王家にとって双子は禁忌の存在。その長男は処分される。我が子の命を惜しんだ王妃によって、密かに双子の長男は乳母だった女性に託されたのだと言う。呆然とする俺に彼女は、『お坊ちゃまが第一です!』と言って、けして表舞台に立ってはいけないと俺に釘をさした。
俺は俺自身の出生の秘密と怪我から立ち直るのに、しばらく時間がかかったけど……やがて、普通の生活を送れるようになった。俺は本当はイミルグランの傍で、ずっと働きたかった。……だけど命は惜しい。酷く気落ちはしたが、命には代えられないと思い、この田舎で得られる仕事を探すしか、俺に残された道はなかった。
そうして得た仕事は、ミルクの宅配の仕事だった。もっと良い仕事がしたいけど、胡散臭い仮面の男に、そんな良い仕事は巡ってはこなかった。はっきり言って仕事は単調だし、物足りなかったが仕方ないと妥協したころ、俺は……彼女と出会った。彼女はミルクの宅配先の伯爵家で小間使いとして働いていた、イライザという名前の気立てのよい、優しい娘だった。
自分の栗色の髪と緑の瞳の色が俺と似ていると言って、微笑んでくれた。俺の仮面を見ても、嫌がらずにいてくれた。俺の仮面の下の傷を痛かったでしょうと、泣きながら優しく触れてくれた。お互い想い合っていることに気づき、彼女と将来も誓い合った。俺は彼女のために、もっと実入りのいい仕事に就きたいと思った。
その時の俺は、まだ16才だったが、公爵邸ではイミルグランのご学友っていうものになっていたし、将来は公爵になる彼の忠臣になると決めていたから勉強も武芸も、イミルグランには負けるかもしれないが他の者には勝つ自信があった。仮面をつけていても、頭の良さや武芸を生かせる職業が何かあるはずだと俺は考えた。
将来、俺と結婚した彼女にひもじい思いはさせたくないと、別れを嫌がる彼女を説得して田舎から出て、弁護士になることを決めて街に行った。弁護士は頭さえ良ければ、誰でもなれる仕事だった。弁護士の試験の費用は、俺を心配していたイミルグランが用意してくれた。
……だけど。試験に合格して戻ってきた俺には悲劇が待っていた。彼女が……身ごもって伯爵邸を追い出されたというのだ。実家からも追い出されて行方不明となったイライザを俺は、探して探して探して……、やっとの思いで、見つけた彼女は……娼婦になっていた。
酒に溺れて、心を壊してしまった彼女。俺を見ても誰を見ても、ナィールと甘く呼ぶ彼女。彼女は貴族のナィールに孕まされて、捨てられたと嘆く。
……あの時、俺はまだ16才だった。この国の女性の成人は16才だが、男性の成人は18才だ。大切に想うイライザに手をつなぐ以上のことなど、した覚えは……ない。ましてや俺は自分が貴族だと名乗ったこともなかった。
俺は、やっと見つけた彼女を彼女の産んだ子どもごと身請けした。魔性の者と呼ばれ、忌避される黒髪黒目の男の子。でも愛しい彼女が産んだ、愛しい子ども。色は違うが顔つきは、何故かどことなく俺に似ていた。
初めて彼女と肌を重ねた。震える唇で彼女を感じる。最愛の女性を初めて抱く。緊張で震えが止まらない。壊れ物を扱うように、そっとそっと優しく慈しむ。事後、彼女は甘くまどろみながら、こう言った。
『フフッ……やっぱり最初だからあの時は緊張していたのね、ナィール。あの時、あなたはキスも甘い言葉もくれなかった。ぞんざいに私の体を蹂躙し、馴らしもしないで事に及んだ。痛がる私の頬を叩き、泣きわめく私を思いやることもなく、何度も何度もその精を直接吐き出すことだけにあなたは夢中だった……。愛しいあなただから私は耐えたけど、本当は辛かったのよ。とても痛くって、辛くて、悲しかったのよ。単に性欲を満たすためだけに抱いているように見えたから……』
彼女は俺の驚愕に気付かないまま、俺の前髪を撫で、言葉を続けた。
『今日は仮の姿のままなのね、ナィール。あなたが言うなって、言っていたから私ちゃんと黙っていたわ。あなたは本当は王子様の双子の兄なのよね?王宮から命を狙われているから茶髪にしているけど、本当は金髪なのでしょう?捨てられた復讐を考えているあなたは、その傷の化粧で素顔を隠し、王家転覆を目論んでいる。だから弁護士になると、私に嘘をついて、私の前から姿を消さなきゃならなかった……。
大丈夫、わかっているわ!辛い過去を抱えているあなたを引き留めたいけど、その心の辛さって本人しかわからないもの。……ねぇ、次はいつ会える?今度抱く時も今日みたいに抱いてね?初めての時みたいに私を抱き人形のようには扱わないでね?』
……そう言って、甘くおねだりする彼女。俺は……俺は、彼女をギュッと抱きしめた。
『……っ!そ、そうだね、ごめんよ、イライザ。あの時のナィールは悪魔だった!あの時の初めては、なかったことにして?君と俺は今日が初めてだった、ってことにしよう?これから俺はずっと君の傍にいるから……。君の最初で最後の男は、ここにいるナィールだけさ。ずっと優しく君を愛するナィールだけが、傍にいるから……。どんな君でも愛しているから!』
やっと抱きしめることが出来た、愛しい君。でも君の心は壊れたまま……。心は戻らないまま、君は逝ってしまった。